… … …(記事全文11,014文字)またしても5月2回目の刊行分が月をまたいでしまいましたことを心からお詫びします。
● 資本主義生産6段階、最後の退廃の時代を招き寄せる危機の21年間
優柔不断な知識人があっちにふらふら、こっちによろよろと右往左往した知性の時代の終末期、資本主義的生産様式も最後の退廃の段階を招き寄せる危機の21年間(1921~41年)に突入します。
このころになると文章化された史料が激増しただけではなく、静止画像の写真だけではなく、ドキュメンタリーフィルムの動画も豊富に残っていて、年表に記載すべき事項も取捨選択に困るようになります。
そこで、この危機の21年間については前半(1921~31年)と後半に分けた年表をつくりました。まず前半をご覧ください。
読者の皆さんもよくご存じの項目が多いと思いますが、その中でコメントをしておきたい項目が2つあります。1924年のアメリカにおける移民(制限)法の強化と、1927年の日本軍の第一次山東出兵です。
移民法については、細かく言えば1921年の第一次、1924年の第二次、そして1926年の第3次と、ほとんど年を追ってといってもいいほど立て続けに制限が強化されてきました。
しかも、それまで無制限だった移民の総数に枠が設けられるとともに、日本人、中国人など東アジアからの移民対してはとくに厳重な年間上限枠が設定されました。
さらにカリフォルニア州では「今後日本人の土地取得を禁止するだけではなく、時間をさかのぼってすでに米国民が日系人に売った売買契約も無効として、日系人には購入済みの土地の返還を強制する」などという市場経済における契約理念の根幹を否定するような差別的な州法を規定する州も出てきていたのです。
そして、山東出兵について言えば、当時国民党政府の総統だった袁世凱が、満州を根拠地とする軍閥だった張作霖の支配圏を国民党政権下に置くための北伐によって、第一次世界大戦中に交戦国のドイツから奪った利権を持っていた山東省に定住していた日本人の生命や資産が侵害されるのを防ぐという名目での出兵でした。
このへんの事情を移民法やカリフォルニアの土地法制改悪と関連づけて考えると、以下のような印象があります。日本としては第一次世界大戦で戦勝国側に立って、やっと欧米列強と肩を並べる地位にたどり着いたと思っていたわけです。
ですが、アメリカではまだ二級国民扱いされるし、おまけに「国民党政権はドイツ帝国主義の利権なら受け入れていたけれども日本帝国主義の利権は受け入れないのか」という屈折した反差別感情も混じっていたと思います。
20世紀初めまでは欧米諸国がアジア・アフリカ・南アフリカなどに進出して帝国主義的な利権拡大を狙うのは「当然の権利」と認める(欧米列強のあいだでの)国際世論があったのに、第一次世界大戦以降はそれが劇的に変化していました。
それに対して、日本政府は「欧米列強がやれば通ることが、なぜ日本がやると悶着のタネになるのか」と感じてしまった、この感情的な行き違いのその後の国際政局に及ぼす影響はかなり大きかったと思います。
増田悦佐の世界情勢を読む
増田悦佐(エコノミスト・文明評論家)