… … …(記事全文11,083文字)2月25日の日曜日に、衝撃的な事件が起きました。
現役のアメリカ空軍軍人であるアーロン・ブシュネル氏が、ワシントンのイスラエル大使館前で全身をガソリンに浸したうえで火をつけ、その場に崩れ落ちる寸前まで声を励ましながら「パレスチナに自由を!」と叫び続けて絶命したのです。
彼はこの挙に及ぶ直前に、フェイスブックへの最後の投稿で「これから私が取る行動はかなり極端な抗議と思われるかもしれない。しかし、ガザでパレスチナ人が毎日さらされている侵略、暴行、虐殺に比べれば、まったく極端ではない」と述べていました。
アメリカ政府や大手マスコミは「精神に異常をきたした人間の奇行」で片付けようとしていますが、イスラエルの政府と軍によるパレスチナ人ジェノサイドを全面支援しているアメリカ政府や米軍に従って生き続けることはできないと、明晰な判断力を持って決意した上での行動だったことは明白です。
今回は、何が彼にこれほど苦痛に満ちた死を選ばせたのか、その真相に迫ろうと思います。
ただ、本論に入る前にひとつだけお知らせを挟ませていただきます。
3月9日(土)の午後1時から「温暖化とコロナに流されない市民の会」主催の第2回講演会『混迷する世界情勢とメディアの情報操作』が開催されます。
基調講演はキャリア外交官の経歴を生かしてご活躍の評論家、孫崎享さん。私も気候変動論について短く講演し、パネル討論の末席も汚させていただきます。皆さん、ふるってご参加ください。
なお、お問い合わせはpurikoまで。よろしくお願いします。
● アメリカが国際法違反常習者になったわけ
1946年にアメリカの連邦議会がロビイング規制法という名の贈収賄奨励法を可決したことは何度かお伝えしてきました。
その翌年である1947年には第二次世界大戦のさ中にあくまでも戦時体制の一貫として統合参謀本部の下に設立された戦略サービス局(Office of Strategic Services、OSS)を衣替えして、大統領直属の中央情報局(Central Information Agency、CIA)とすることも、可決されました。
OSSは敵国軍だけではなく同盟国軍の動向についても情報収集をしていたのですが、それとともに敵国内での攪乱・破壊工作、そして政府転覆を狙った組織への支援や扇動も任務としていたのですが、平和になってもこちらも引き継いだのです。
しかも、戦時中のOSSがあくまでも三軍統合本部の下部組織となっていたのとは対照的に大統領直属となったので、CIA長官は大統領の了承さえ取り付ければ諸外国の政府に対する攪乱・破壊工作だけではなく、政府転覆工作までできてしまうことになったのです。
この風刺漫画では、徐々にCIAが大統領の意向に背いてでも諸外国に対する転覆工作や軍事介入の口実をつくるためのざまざまな行動をとるようになり、大統領の手に負えなくなってきたことが表現されています。
たしかにそういう面もあるのですが、この制度変更でいちばん貧乏くじを引いたのは左上1コマ目の背景に描かれている連邦議会です。
2度にわたる世界大戦が起きた頃のアメリカでは、この大戦に参戦すべきかどうかで議会で活発な議論が起きていたのですが、第二次世界大戦が終わってからは、議会はCIAが路線を引き、大統領がおこなった決断を事後承諾するだけの機関になり果てています。
参戦は本来連邦議会上下両院の決議を経てからでなければできないはずの、立法府の大権です。
その意味では、直前の1946年に贈収賄奨励法が制定されたのは、大幅に立法権が侵害されることへの不満をなだめるためにロビイストを通じた巨額献金というアメ玉をしゃぶらせておいたという可能性が非常に高いと思います。
増田悦佐の世界情勢を読む
増田悦佐(エコノミスト・文明評論家)