ウェブで読む(※推奨):https://foomii.com/00187/2021030406000077347 2021年3月4日発行(通算第530号) ━━━━━━━━━━━━━━━━━ 世界情勢ブリーフィング https://guccipost.co.jp/blog/jd/ ━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「インド現代史(2):植民地時代の遺産」(2/24)の続きです。 https://guccipost.co.jp/blog/jd/?p=9100 前回は、現代のインドにも色濃く残る植民地時代の遺産について説明しました。 今回は、いかにインドが英国からの独立を実現したか、パキスタンとの分離の経緯も含めて説明します。 *********** インド現代史(3):独立への道 *********** ●ガンディーの闘争 前回述べたとおり、1914年に始まった第1次世界大戦を契機にインド人の民族自決の精神が高まり、国民会議とムスリム連盟を中心とする反英運動が活発化しました。 英国はインド人の「スワラージ(自治)」の要求を受け、1917年にインドの自治を段階的に導入する方針を表明。その方針に従って1919年に「インド統治法」が成立し、地方政府の権限の一部のインド人への移譲が実現します。 しかし、英国は、将来的にはカナダ、豪州、NZのように白人入植者の自治領と同様の制度を導入することを示唆したものの、その導入は段階的なものであり、決定するのは英国であることを強調しました。そして、インド統治法が成立した1919年に強権的な統治を可能にする「ローラット法」を成立させ、パンジャブ州のアムリットサルではグルカ人兵士による無差別射撃事件(アムリットサルの虐殺)が発生しました。 なお英国の強硬方針を主導したのは保守党のリーダーであるウィンストン・チャーチルでした。英領インドの指導部は植民地統治の安定を実現すべく、インド人の自治要求に歩み寄りを見せることがありましたが、本国の帝国主義的感情に妨げられるという展開になります。 英国に対する信頼を失ったインド人たちを導いたのがガンディーでした。ガンディーは非暴力・不服従(サティヤーグラハ)を唱導し、一般民衆から知識人、富裕層に至る幅広い支持を集めました。カルカッタ、ボンベイ、マドラスの国民会議のエリートは既得権を侵されることを恐れ、ガンディーを批判しましたが、イスラム教徒の支持を得たこともあり、1920年に国民会議はサティヤーグラハを公式の運動方針として採択します。… … …(記事全文5,614文字)
