… … …(記事全文4,870文字)●父はもうすぐ97歳
父は今年の10月で97歳を迎える。昨年8月に大腿部骨折したのは旧稿で書いた。寝たきりになるかもしれないという心配をよそに、執念とも言える不断の努力で杖歩行ができるまで回復した。ここまで、「生」にこだわる理由は、兄、弟と次々に亡くし、その分までという強い意志によるものと思われる。本人は決して口にはしないが。
こんな長寿な父を称賛しなければならないところだが、今でも父の言動は苦手だ。6年前東京からUターンし43年ぶりに同居することになった。長い年月を経て父の性癖も変わっていると思ったのだがそうではなかった。物心ついた時から父が苦手で、ある意味反面教師として生きてきた歴史がある。その歴史を紐解いてみたい。
●変則的な家族構成
我が家は、変則的な構成であった。祖父の兄夫婦に子どもいなかったことから、養子縁組をして兄が祖父を息子にした。つまり、戸籍上は叔父が曾祖父となったのだった。祖父夫婦には4人の娘がおり、長女が私の母に当たる。父は、母と見合い結婚し「婿入り」をした。そして、私、弟、妹と3人の子どもをもうけた。
戸籍上は、4世代7人が同居する珍しい家となったのである。これが理由で当時のNHKの番組「ふるさとの歌まつり」に一家揃って出演することになった。同番組は、宮田輝が司会の郷土芸能を紹介するエンターテインメントだ。会場は私も通う小学校の体育館で夜8:00から生中継された。恥ずかしくてしょうがなかった。そして、「本当はひいじいちゃんとじいちゃんとは兄弟なのに」と不満も持っていた。曾祖父が一曲歌った記憶があるが、翌日登校すると、「よっテレビ男」「観たぞ」と冷やかされ、迷惑千万でしかなかった。
このような家族構成であることから、「家長」は曾祖父ですべての実権を握っていた。子どもながらに祖父と祖母が虐げられているのを目にして悲しい思いをした。一方で、母は長女であることから重宝されたため、旧稿で何度も書いたような人になってしまったとも言える。その夫である父は影が薄く、家族内での発言権はほとんどなかった。
●家にも先生がいる
父は小学校の教諭だった。母は市役所務めであったため、日常接することが多かったのは祖母である。小学校時代は祖母と一緒に寝ていた。
父の趣味は、短歌、書道、スキー、山歩きと多彩である。また、バイクに乗っていたが、スバル360を購入し乗り回していた。今思うと電球ひとつ交換できない「電気オンチ、機械オンチ」の父がよくクルマを運転していたものだ。何かトラブルがあれば、ディラーへ直行する。それは、運転を止めるまで変わらなかった。スキーや山菜採り、キノコ狩りへはよく連れて行ってもらったが、父との思い出はほとんどない。
小学校時代、父は私のことを「君(きみ)」と呼んでいた。これが非常に嫌だった。家に戻っても先生がいるようで冷たく感じられた。そして、何か悪さをすると必ず反省文を書いて提出するよう求められた。さすがに我慢できず、ひねくれ者の私は対抗措置を取った。以下のような反省文を書いて父に提出したのだ。
反省文
1. 早起きをしないこと
2. ご飯を残すこと
3. 遅刻をすること
4. 玄関掃除をしないこと
5. 先生の言うことを聞かないこと
6. ・・・・
以上のことは絶対にいたしません。
渡された父は「何だこれは」と怒ったが、「最後まで読んでください」と言うと黙ってしまった。
蓮池透の正論/曲論
蓮池透(元東京電力原子力エンジニア)