ウェブで読む(推奨):https://foomii.com/00200/2021070206000081986 //////////////////////////////////////////////////////////////// 蓮池透の正論/曲論 https://foomii.com/00200 //////////////////////////////////////////////////////////////// 私が、初めて福島第一原発に赴任したのは、1977年4月に入社後2週間ほどの研修を終えてすぐのことだった。研修後に一応、配属希望先を訊かれ、東京近郊の火力発電所か配電業務と答えたのだが、出た辞令はやはり福島第一原発であった。当時の私は、恥ずかしながら福島第一原発の位置さえ把握しておらず、せいぜい東海村の近辺程度との認識でいた。 ところが、荷物をまとめ常磐線の急行(特急もあるにはあったが数えるほどしかなかった)に乗り富岡駅で下車せよとの指示だったが、待てど暮らせど到着しない。東海駅はとっくに過ぎていた。ようやくたどり着いたのは、日が暮れて夜になってからだった。駅前に立ち、驚いた。当たりは漆黒の闇で街灯も客待ちのタクシーもなかった。「大変なところへ来てしまった」。正直それが第一印象だった。 富岡町の独身寮は満杯で、当面3LDKの家族寮に3人押し込められた。どの部屋にするかはクジ引きで決めた。私はふすまで区切られた1室で生活することになったが、プライバシーはないに等しかった。 当時は、一日中会社から支給された作業服を着ていた。寝るときもそのままの姿でということも度々あったくらいだ。中には、パジャマの上に作業服を着て出社する輩もいた。寮のある富岡町と職場である福島第一原発のある大熊町・双葉町とは隣町ではあるが、通勤バス(常磐交通が請け負う)は、いくつもの寮を回りながら発電所へ向かうため、到着まで1時間を要した。 朝、胸に「東京電力」のパッチが縫い付けられた作業服を着てバスに乗り、1時間揺られて発電所に着いて仕事をして、終業後そのまま作業服を着てまたバスで寮へ戻る。その繰り返しだった。そんな単調な毎日に「これはまるで囚人の護送車だな」とみんなで自虐的に言っていたことを記憶している。 このため、バスに乗ることが苦痛になった。寮に戻っても孤独であるので尚のことである。最終のバスまで寮に戻らず、無駄な残業ばかりして数年間で1千万円貯めた同僚がいた。それは、新しい服も不要、食事も寮でする(夜残っている他人のものを食べることもあったという)から、お金も貯まるだろう。寮の朝食は、毎日同じメニューだった。ご飯、納豆、生卵、お新香、みそ汁。あるとき、これに異議を唱える者が現れ、寮の管理委員会で検討した結果、却下された。メニューを日替わりにすると値段が上がるから嫌だという人が大勢を占めたからである。朝・夕食は寮で、昼食は社食という食生活だった。 小さな町だが、飲み屋はある。そこへ行くときもバスを途中下車して、堂々と作業服のままである。週末、東京へ帰るときに、作業服のまま上野駅まで列車に乗車していく猛者もいた。職場にはロッカー・ルームもなく着替えるという習慣がなかったこともあるが、今考えてみると、東京電力のおかげで地元の商売が成り立っている面があり、高給取りで金離れが良い「東電さまさま」の雰囲気があった。それで社員も「東電様ここにあり」と、おかしな勘違いをして、何の臆面もなく「東京電力印」の作業服のまま闊歩していたのだ。もちろん作業服に嫌悪感を持つ人たちもいなかった訳ではないだろうが、私たちがそれを関知することなど全然なかった。… … …(記事全文3,378文字)
蓮池透の正論/曲論
蓮池透(元東京電力原子力エンジニア)