… … …(記事全文2,875文字)子供の頃、「そんなん、常識やんか!」と年長者に批難されるのが、死ぬほど嫌いでした。
その「常識」なるものが納得できるものであるのなら、それはそれで批難されてもしょうがないとは思えるのですが、そこには何の説明もなく「そんなの常識だろ!それができてないお前はダメな奴だ!!」と強制的に、言われることが死ぬほど嫌いだったわけです。
それは今でも全く同じです。
例えばコロナ禍中や自粛やマスク、ワクチンは、世間の「常識」だったわけですが、そこには合理性が乏しいというかハッキリいって「全く無い」という疑義すらあるのに、それをロクに吟味もせず、下らない通り一遍のTVで聞きかじった情報だけに基づいて勝手に傲慢に、自粛やマスクやワクチンを正義だと信じ込み、断定し、自粛やマスクやワクチンを強要したりするその姿勢は、それが誰であろうが、凄まじい苛立ち、憤りを感じていました。
つまり、「常識」を強要してくる人物に、暴力的かつ不条理かつ権威主義の陰をいつも見いだしてきたわけです。
…というような事を今思い出したのは、本日、とある人物がとある集団行動の時、とある配慮を示す行為を及んだとき、当方の口から、半ば無意識で、
「まぁ、そりゃ、そうするのは常識やわな」
という言葉を吐いたのに「気が付いた」からです。
この言葉を吐いた時に、僕自身が若い頃嫌いだった「常識」という言葉とは同じなのだろうか、それとも違うものなのだろうかという、ふと思ったのです。
で、そんな風に思った途端に立ち至った結論が次のようなものでした。
「確かにそれは、常識だ。
しかし、それは、そういう『行動のルール』が決まっているから常識だと認識したわけでは決して無い。
それは、そう振る舞うことが、周りの方に対する『思いやり』となっているから、常識だと、私は認識したわけだ。
その様に彼が振る舞わなければ、きっと周りの方は…
藤井聡・クライテリオン編集長日記 ~日常風景から語る政治・経済・社会・文化論~
藤井聡(京都大学教授・表現者クライテリオン編集長)