■前回の記事で、今の日本には憲法はなく実質的に無憲状態だと書いた。だが、最高法規は存在して、国家の最高法規は日米安保条約と日米地位協定だと述べた。日米同盟が憲法の代行役を果たしていて、立法・司法・行政・マスコミを統制し、軍事のみならず経済から教育まであらゆる領域を拘束している。この現状認識については、多くの者が同意し同感するだろう。主権国家の憲法は、その国の社会契約の根本と核心が成文化されたものだ。この国の個々がどういう国家を作り、どういう国家権力の下で associate するかを約束したのが憲法で、憲法には国家の理念が書かれている。前文にそれが宣言されていて、条文 - 統治機構と人権保障 - はそれを骨格として具体化したものだ。 制定されているわれわれの日本国憲法を見たとき、果たしてこれはリベラルデモクラシーの憲法であると概念規定してよいのか、リベラルデモクラシーの憲法の範疇に分類してよいのか。通念となっているその理論的整理は安易で短絡的な裁断ではないかと、最近強く思うようになっていて、以下に試論を並べてみたい。最初に結論を言えば、日本国の政体は単純なリベラルデモクラシーではない。米英欧と同じ平板なリベラルデモクラシー(議会制民主主義)の国ではない。日本国の国家理念は独特で、彼らとは社会契約の中身が違う。分かりやすくその特質を表現すれば、リベラルデモクラシーの上位互換の次元の高いデモクラシーであり、敢えて命名するなら、ラディカル・ピース・デモクラシーと呼ぶべき政体である。より先進的で未来的な民主制の理念が掲げられている。 ■ 長谷部恭男のリベラルデモクラシー憲法論 ここに長谷部恭男の岩波新書『憲法とは何か』がある。日本国憲法についての認識と理解は、権威である長谷部恭男の理論が標準になっていて、この本が現代人の入門的教科書となっていると言って差支えない。2006年に出されたこの本には立憲主義の立場からの日本国憲法の基礎づけが与えられていて、立憲主義が簡略に説明されている。現在のわれわれの憲法論の一般常識が提供されていて、特に左派(立憲民主・共産・社民)においては金科玉条の真理的通説がガイドされているという扱いになるだろう。第2章が特に重要な部分で、ここで長谷部恭男はルソーの戦争論を援用して、戦争とは異なる政体間の闘争であり、相手国の国家原理すなわち憲法を否定するのが戦争であると論じている。 この有名な議論は加藤陽子にも引き継がれ、この国の社会科学界で定説のように徘徊している。ルソーの戦争論から20世紀の現代史に論を運んだ上で、国民国家は、①議会制民主主義(リベラルデモクラシー)と、②ファシズムと、③共産主義と、三つの原理が戦う政治空間となったが、冷戦を経て、人類は①のリベラルデモクラシーを選択することで闘争を決着させ終焉させたと言うのである。こうした論理的方法で、リベラルデモクラシーの勝利と価値の普遍性を説き、立憲主義の優位を言う。現代人にとって、あらためて聞く正論のセオリーであり、ほとんど反論不可能に思われる主流の説だ。だが、よく聞くと、何だ、これはフクヤマの『歴史の終わり』の主題ではないかという意味にも受け取れる。本質的にネオコンの説法と思想ではないかと。… … …(記事全文4,354文字)