少し前から、小泉悠あたりの発言で、一人一人の命よりももっと大切なものがある、国家の主権と独立を失うことは国民の命を失うことよりも重大で、どれほど犠牲を出しても最後まで戦って守り抜かねばならないものだという主張が連発されている。安倍内閣で国家安全保障局次長をやった兼原信克が、3/16のプライムニュースの席で小泉悠の発言に相槌を打ち、「そんなこと当たり前の話ですよ」と念を押していた。この問題が非常に気になる。とても気に障るけれど、焦点を当てて問題提起している声がほとんどない。 戦後の日本人はこの問題に非常にナーバスで、関心が高く、憲法9条をめぐる議論の中心にこの根本的な思想対立があった。小田実は個人の命が何より大事だと強調し、対して石原慎太郎は国家や共同体のために個人が命を捨てることこそ大切で、そこに人の生きる意味があるのだと反論した。戦後日本の大きな右と左の対立軸であり、長く果てしなく続いた論争と記憶する。そして、日本人はほぼ左の考え方を選び採り、その集大成というか総括が、文科省推薦の日本を代表する文化であるジブリ映画のテーマとメッセージだった。 このジブリ的な認識と思考が若い世代にも広く定着し、現代日本で不動の信念として確立したものと思っていた。戦争で国家のために命を落とすのはバカらしく、国を守るために死ぬなどあり得ず、自分や家族が生き延びることが第一だと、誰もがそう確信しているものと思っていた。だが不思議なことに、小泉悠が吐く国家主義のエバンジェリズムに対して反発がない。普通ならば、この小泉悠の復古的な挑発言辞に対して、ジブリ型日本人はアレルギー反応を示すものだ。生理的に拒絶するものだ。 テレビがウクライナ戦争のプロパガンダの刷り込みで充満・沸騰し、プーチンとロシアを憎悪して共振共鳴する熱狂空間となり、その中央演壇でコンダクターを務めている小泉悠の言葉だから、誰もそれに異を唱えず、小泉悠の恐ろしい軍国主義のイデオロギーの発信に頷いている。戦前戦中の「一億火の玉の皇国皇民」擬(もど)きな主張が、軍事ジャーナリストの解説に紛れて一般論化され、放送法が前提する「公正中立」の衣を着た洗脳メッセージに化けている。憲法9条と真逆の思想がシャワーされている。皆、それに抵抗せず黙っている。… … …(記事全文3,664文字)