… … …(記事全文1,532文字)織田信長や豊臣秀吉は朝廷や公家に対して所領の安堵や新たな知行の給付を行いましたが、
徳川家康も関ヶ原の戦いに勝利するとすぐに公家領の調査を行ない、禁裏御料(天皇家)や公家・門跡領の知行を確定しています。禁裏御料は、山城国や宇治田原郷、和束郷などの村々で構成されていました。
1601年に徳川家康は禁裏御料として1万石を確定させ、宮家・公家領は合わせて全部で3万石弱でした。(八条宮家は3,000石、伏見宮家は1,000石)、公家となると摂家の近衛家でも2,295石余しかなく、新設された家では所領50石という事例も実在しました。
所領50石などは、実収手取りで50俵しかなく、3人程度が食べていくのが精一杯というお寒い内容でした。
江戸時代中期には宮家・公家106家で合わせて46,600石に修正されています。
禁裏御料も江戸幕府は1623年と1705年にそれぞれ1万石ずつ所領を加増献上して、禁裏御料は3万石の禁裏御料が確定しました。
大名だと城を持てたのはおおむね3万石以上の大名だったので、3万石は居城もない陣屋住みの小規模大名が大半でした。
天皇家の年間予算が3万石の禁裏御料で足りるはずもなく、その窮状も事実なので帝を取り巻く幕府関係者、禁裏の賄いを担当する朝廷の口向役人はどうしたものかと頭を悩ましていました。
かと言って、足りない分を江戸幕府まで申し出て老中の決済をもらうなど、事実上できるはずもなく、享保年間(1616年~1636年)ぐらいになるといよいよ支出超過になってしまいます。
この事態に幕府は禁裏に対して「御取替金」という制度を導入します。
取替金とは立て替え金を意味していました。
この「御取替金」の特徴として、京都所司代の裁量だけで決済できるほか、