… … …(記事全文4,731文字)鴨川の対岸から京大(京都大学)のことを眩しく見ていたのは、私の通っていた同志社からは手が届かないほど偏差値が高く、将来エリートが約束された秀才ばかりが集う場所だったからではない。頂点に並び立つ国立大学でありながら、東大とは違って権力や権威に阿らず、自由闊達な学風があったからだ。
自分のことを書いて恐縮だが、私が大学で一番お世話になった教授は竹内成明(たけうち・しげあき)という人で、私たち学生は「成明(せいめい)さん」と呼んでいた。成明さんは、京大人文研(京都大学人文科学研究所)で助手を務めた後、同志社の新聞学にやってきた。フランス文学者・桑原武夫が率いるルソー研究に加わり、仏文出の成明さんも『言語起源論』を訳しているが、同志社では「コミュニケーション思想史」のようなことをやっていた。私たち学生にも「あれやれ」「これやれ」とは言わず、好き勝手に「学問もどき」をやらせてくれた。そして週末には、自宅に押し掛けた我々に自作のおでんと酒をふるまいながら、夜を徹して不毛な議論にお付き合いしてくれた。
その成明さんの師匠にあたる桑原武夫のもとには、梅棹忠夫、梅原武、上山春平、鶴見俊輔、多田道太郎といった錚々たる哲学者・思想家や、今西錦司のような自然科学者も集まり、自由で学際的な学風を築き上げていた。また、政治的・社会的な問題についても臆することなく積極的に発信しており、なかでも雑誌『思想の科学』を創刊した鶴見俊輔は、「べ平連(ベトナムに平和を市民連合)」で反戦脱走米兵の支援をしたり、大学闘争のとき学内に機動隊を入れたことに抗議して同志社新聞学の教授を辞めたりするような、気骨のある人だった。
残念ながら、私たちが学生の頃にはとっくに鶴見さんはいなかったが、その反権力・反権威の気風を成明さんたち新聞学の教授連は受け継いでいて、私たち学生にも「先生」とか「教授」などとは、絶対に呼ばせなかった。だから、亡くなったいまでも、私たちの中で竹内成明教授は「せいめいさん」で、北村日出夫教授(京大出身)は「北村はん」なのだ。私も「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という川柳が好きだ。
私事が長くなったが、何が言いたいのかというと、それが私にとっての「京大」なのだ。思えば、日本初のノーベル賞を受賞した理論物理学者の湯川秀樹も、晩年には核兵器廃絶運動に取り組んだ。また、個人的には、大学と闘う学生と教員との間で引き裂かれる苦悩を描いた『わが解体』で知られ、早逝した小説家・高橋和巳(京大の中国文学の助教授)一連の著作も好きだった。政治・経済の中枢から離れた京都にあるからこそ、権力・権威のしがらみに囚われず、確かな学問の礎を基に社会に物申すことができる。京大には「100人いたら1人の天才と99人のバカをつくる」という面白い言葉もあるが、そうした秩序の破壊者としてのトリックスターの存在を許すのも、東大とは違った京大のよさのはずだった。
その京大を、ウイルス学者の宮沢孝幸さん(京都大学医生物学研究所准教授)が退職することになった。ご本人は「退職」という言葉を使っているが、要は「追い出された」のだ。2023年10月31付で、ご本人がX(旧ツイッター)に投稿した「重要なお知らせ」という文書には、次のように書かれている。
X(ツイッター)では言えない本音
鳥集徹(ジャーナリスト)