… … …(記事全文4,540文字)本稿では、趣向を変えてファッションの話をしたい。昨今、子どもから高齢者まで冬季の防寒用にダウンウェアを着用するのは珍しくない。ブランドやメーカーも星の数ほどある。極寒に耐えられる本格的なものから、タウン用まで種類も豊富である。値段もユニクロの数千円のものからハイブランドの数十万円するものまで多種多様にある。
今では日常着となったダウンウェアであるが、初めて日本に上陸してきた時のことを述べたい。その前に私自身のファッション事情について振り返る。
●中学時代
幼いころから母の手作りの洋服を着ていた(着せられていた)せいか、身に付けるものには多少の関心があった。しかし、校則が厳しく目立った格好はできなかった。それでも、冬の登校時に履くのは長靴ではなく、スノーブーツにするのが「おしゃれ」だった。先生に注意されても、「滑りにくいからです」と説明すれば済んだ。
それと体育の授業や部活動の際に着用する白い長ズボンにこだわった。後ろポケットに長方形のフラップが付いているもの必死に探し買ってもらった。今のように、ネットショップなど存在せず、かつ田舎で見つけるのは簡単ではなかった。先生は気にしなかったものの、上級生に見られると「良いの履いているな」とケチを付けられるので、フラップをポケットに急いでしまい込んだのを覚えている。
●高校時代
高校生になるとファッションに目覚めた。友人の影響もあり、いわゆるアメリカ由来のアイビールック(トラッドファッション)に傾倒した。ボタンダウンのシャツ、レジメンタルタイ、細見のパンツ、紺のブレザー、コインローファーを求めて長岡市や新潟市まで遠征した。もちろん、雑誌「MEN`S CLUB」(当時の婦人画報社)がバイブルであった。友人とともに読み、話し合いながら研究したものだ。
やはり、田舎では欲しい物がすべてあるわけではなく、東京に憧れた。その頃のカリスマファッションデザイナー石津謙介氏が創設した「VAN」ブランドの洋服があると小躍りして喜んだ。冬場ダッフルコートが欲しくて、探し求めた。キャメル色が欲しかったのだが、見つけられずネイビーで我慢した。メルトンのダッフルコートは長持ちし、今でも着られるほどである。
学校ではまだ私服化が実現しておらず、学生服であった。ボンタンと呼ばれる太いズボンが流行していた。だが、私たちはそれを好まず、逆に裾に向かってテーパードした形のズボンを穿いた。ストレートの既製のズボンを母に頼んで加工(カスタマイズ)してもらったものだ。母が忙しい時は自分で直した。中には、スリムのブラックデニムを着用する猛者もいた。
学生服の中に胸にワンポイントのあるポロシャツを着ていれば最高だった。当時はラコステは入手困難で、マンシング(ペンギン)かアーノルドパーマー(傘)だと羨望の目で見られた。
●大学時代
大学では、ROCKミュージックに没頭して、ファッションにお金をかけるなら、それでレコードを買うという生活になった。したがって、アイビーへの執着も薄れていった。しかし、折からのアメリカ・ウエストコーストサウンド全盛の時代である。当然ながら、ミュージシャンのファッションにも目が行った。
もちろん、1975年、アメリカのファッションやライフスタイル等を紹介した「Made in U.S.A. catalog」(読売新聞社)、続編「Made in U.S.A.-2 Scrapbook of America」というカタログ雑誌は入手していたし、それを継承するように創刊された雑誌「POPEYE」(平凡出版)も購入し読んでいた。カルチャーショックを受けたし、私が当時欲しかった物と見事にシンクロしていた。