… … …(記事全文4,396文字)1966年(昭和38年)日本海へ出漁したまま行方不明となり、その後北朝鮮で生活していることが確認された寺越武志さんの母友枝さんが2月25日、呼吸不全のため亡くなった。享年92。謹んで哀悼の意を表したいと思う。
愛息である武志さんが13歳で行方不明になり、葬式まで挙げた。24年後突然北朝鮮からの手紙で武志さんが生存していることが判明。友枝さんは警察、行政、日本赤十字社等様々な場所へ救出を求めたが実現せず、自費で訪朝し武志さんのもとを訪れるようになる。その間、友枝さんの心中にどれだけの悲しみ、諦め、驚き、怒り、困惑、落胆、葛藤、もどかしさ等々の感情が去来したかは筆舌に尽くしがたい。まさに友枝さんは波瀾万丈の人生を送り、二つの国の狭間で翻弄され続けてきた一人と言っても過言ではない。
「寺越事件」は、人々の記憶から薄れていることから、その概要を説明したい。
●「寺越事件」とは
⇒出漁中に失踪
1963年(昭和38年)5月11日午後1時ころ、寺越武志さん(13歳)は叔父の昭二さん(36歳)と外雄さん(26歳)の3人で小型漁船「清丸」に乗り、能登半島沖でのメバル漁のため、石川県羽咋郡高浜町(現志賀町)高浜港を出た。一旦、富来町(現志賀町)福浦港に立ち寄った後、午後4時ころ福浦港の沖合400メートルに刺し網を仕掛けたことが確認されている。
予定では夜遅くには高浜港に戻るはずだったが、その日は帰港せず、翌5月12日の朝、高浜港の沖合7キロメートルの海上を漂流している漁船だけが発見された。新艇に近い「清丸」左舷には他の船に衝突されてできたような損傷があり、緑色の塗料も付着していた。転覆やエンジン故障の痕跡はなく、網は張られたままで3人の姿だけが忽然と消えた。武志さんが中学校で着ていた学生服が漁船近くの海中で発見されたが、その他の遺留品はなかった。
武志さんの祖父寺越嘉太郎さんは、その日のうちに武志さん・昭二さん・外雄さん3人の捜索願を羽咋警察署に提出した。これにより、港では、「清丸」に衝突した船を特定するための臨検が1隻ずつ行われるとともに、ヘリコプターによる空からの捜索活動も行われた。1週間におよぶ海上保安庁や地元漁協の捜索にもかかわらず3人の姿は発見されず、衝突した船を特定することもできなかった。そして、消息不明のまま戸籍上「死亡(遭難死)」として扱われた。すなわち、3人は海に投げ出されて死亡したものとみなされた。捜索が打ち切られて間もなく、寺越家では写真だけによる3人の葬儀が執り行われた。
⇒突然の北朝鮮からの手紙 そして再会
3人の失踪から24年後の1987年(昭和62年)1月22日、外雄さんから突然手紙が届いた。手紙には、3人は失踪後、北朝鮮で暮らすようになったこと、外雄さん自身は北朝鮮で家庭をもち、2人の子どもがいること、外雄さんの北朝鮮での住所、「金哲浩(キム・チョルホ)」という北朝鮮での名前が記されていた。また、外雄さんの2度目の手紙により、武志さんは生存しており、結婚して子どももいるが、昭二さんは北朝鮮に来てから5年後に亡くなったことが判明した。
蓮池透の正論/曲論
蓮池透(元東京電力原子力エンジニア)