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●「言わない」「尋ねない」が黙契 北朝鮮での生活
弟夫婦が日本に帰国して今年で22年目を迎える。北朝鮮で暮らした期間が24年であるので、もうすぐ両期間が等しくなろうとしている。帰国して以来、弟夫婦は彼の地における生活について、多くを語らない。たまに語ったとしても、この国では経験することのできない変わった行動をトピック的に披露するだけだ。情報伝達の要素である、いわゆる5W1H「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように」を満足することはない。
帰国時に見せてくれた、整理もせず無造作に束ねられた北朝鮮で撮影された写真も、今では「お蔵入り」のようで目にすることはできない。これらの一連の言動は、家族とりわけ両親に再び苦痛を味合わせたくないという配慮と、自らも過去を振り返るのではなく前を向いて生きていくという信念が相俟ってのことと理解している。したがって、こちらから「話せ」とか「見せてくれ」といった強要はしないでいる。
さはさりながら、弟の24年間に全く興味がないわけではない。どこで、どのような生活をし、何が起き、その時何を考え、どう行動したか、相手の反応はどうだったのか、知りたいのは当然のことである。過去に訪朝の誘いがあったとき、拒否しなかったのは、実際に現地で自分の五感により、弟の24年間をわずかでもトレースしたい気持ちがあったからである。実現はしなかったが。
「言わない」「尋ねない」という黙契が弟の間で出来上がっている中、旧稿で触れた雑誌「世界」での連載において、弟は冷静かつ客観的に24年間を振り返っている。それで初めて知ることも多々ある。弟によれば、連載は一冊の本にまとまるようになるまで続くという。2カ月間隔だが、文章を書くのにそのほとんどの時間をかけるほど神経を使うと語ったことを付け加えておきたい。
以前、国の不作為について国家損害賠償請求をしようと弟に促したとき、「絶対にいやだ。法廷で24年間をほじくり返されるのはまっぴらご免だ。やりたければ、兄貴が受けた被害に限って訴えろ」と強く拒否されたのとは正反対である。自身の経験を雑誌というメディアで赤裸々に世に出すことができるのは、20年以上という時間の経過が成せる業だと思うしかない。
●「世界」3月号
「世界」3月号では、連載「拉致問題風化に抗して」で「日本人被害者への思想教育(その1)が掲載されている。その内容は、私が初めて知る事実がほとんどであるので、当該の部分を抜粋引用したい。
まず、弟が帰国した際、私が真っ先に頭に浮かんだ「マインドコントロール」について、こう書き始める。
⇒マインドコントロールの自信
「朝鮮労働党の秘密工作機関・対外情報調査部は、拉致した日本人を自分たちの意図どおりに『思想改造』するために、どのような手段・方法を使ったのだろうか。暴力的方法で拉致した者も自分たちの秘密工作員として利用できると彼らが考えたのは、十分に『マインドコントロール』できる自信があったからに他ならない」
「拉致され、工作船で北朝鮮北部の清津に連れていかれた私は、工作船が所属している労働党作戦部の秘密アジトにひとり監禁された。そこで私を迎えた男からは、この地が朝鮮民主主義人民共和国であり、拉致した目的や、私と一緒に連れ去られたはずの恋人(祐木子)の行方は知らないとだけ告げられた」
「そして、約10日後には二人の男によって列車で平壌市に移され、そこから車で市北部郊外にある順安招待所に連れて行かれた。順安には北朝鮮唯一の国際空港がある。その北東部の林の中に、湖を囲んだ招待所群が位置していた。外部を囲う鉄条網はないが、警備隊による入り口の検問、巡察が24時間体制で行われていた」
「招待所に入れられて数日後、対外情報調査部の姜海龍(カン・ヘリョン)という副部長が通訳を伴って現れた。彼は対外調査部でも特別に金正日書記の信任を得ていた中心幹部だった。彼は『何でこんなことをしたのか』と抗議する私に、『慌てることはない。我が国はとても素晴らしい国だ。いろいろ見て聞いて学び、立派な革命家になったらいい』と平然とした顔で言った。革命家という言葉が日本の『赤軍派』を連想させた。『彼女はどうしたのか』という問いには『女は必要ない。日本に帰した』とだけ答えた。私は半信半疑ながらも、言いようのない孤独を感じた。自分も日本に帰してくれと懇願したが、姜海龍は『まだ若いのだから、ここでしばらく過ごすのもいい』と言い残して帰っていった」
⇒塗りつぶされた「韓」の字
「最初に私の思想教育を担当したのは、清津で会ったハン・クムニョンという、対外情報調査部第二課(対日課)の指導員だった」
「強面だが、人あたりは柔らかだった。私を『先生、先生』と呼び、『日本の偉い先生と話ができて光栄だ』などとおだてあげた。そして『将来、東大生と仲良くなって北朝鮮に連れてきてほしい』と、私を日本に行かせるかのような話をしたので、詳しく聞き出そうとするとうまくかわされた」
「今思うに彼は経験豊富な情報官だった。『まずは朝鮮語を学んで、それから朝鮮のことをたくさん学んでください』と言い、自分が日本で買ってきたという、韓国語を含む5カ国語の旅行用会話集を置いていった。しばらくすると、さらに金日成総合大学で出版した留学生用の朝鮮語教科書と韓日辞典を持ってきて、本格的に朝鮮語を始めるように言った」
「ほとんどは自習であった。早く朝鮮語を習得し、『北朝鮮のこと』を学べば、日本に帰れるかもしれないという思いから必死で勉強した」
「辞書を片手に少しずつ訳していくしかなかったがその内容には驚かされた」
「初めて接する外国人にとっては穏やかではないストーリーばかりだった。さらに韓日辞典は表紙の『韓日』の『韓』の字が『朝』に書き換えられていただけではなく、中の夥しい数の『韓』の字もすべて塗りつぶされていた」
「異常なまでに韓国を意識し、敵視していることを目の当たりにし、驚いた」
⇒平等な社会へ―北朝鮮の「勢い」
「ある日、私の招待所に見覚えのある中年男がやってきた。私たちを拉致した張本人のチェ・スンチョルだった。工作船以来の再会だったが、奇妙なことに怒りよりも、ようやく何かを聞き出せる人物に会えたという、期待感、安堵感のようなものが先に込み上げた」
「チェも緊張していた表情を崩し『会ったら、殴られるかと思って覚悟して来たが、安心したよ』と言い『あの時はすまなかった』と謝罪するのだった」
「思い返すに、これも彼らの心理作戦だったようだ」
蓮池透の正論/曲論
蓮池透(元東京電力原子力エンジニア)