… … …(記事全文5,855文字)●10年ぶりの韓国文学作品の翻訳
「食事前に読まない方がいいよ」。そう言って弟(薫)が私に手渡したのが、「死者宅の清掃」(実業之日本社)というタイトルの本である。韓国の特殊清掃員であるキム・ワン氏が自身の体験に基づき、2020年に韓国で出版したノンフィクション作品を弟が翻訳し、先月出版された。
弟は2002年の帰国以来、北朝鮮で「唯一学んだこと」とする朝鮮語(韓国語)を活かし、韓国の小説、エッセイ、ノンフィクションなどを翻訳・出版してきた。初めて手掛けたのは金薫氏の「孤将」(新潮社、2005年5月)であり、その後、孔枝泳氏の「トガニ 幼き瞳の告発」(新潮社、2012年5月)に至るまで19作品の訳書を上梓した。しかし、折からの嫌韓ムードの高まりにより、韓国の文学作品の日本における需要はなくなった。その代わりに嫌韓本が書店を席巻するようになった。
あれから10年経って、ようやく20作品目が世に出た。言うまでもなく、その間、韓国における文学界や出版業界が停滞していたわけではない。この10年間のほとんどが、第2次安倍晋三政権時代と重なっている。ここでは多くを語らないが、こういった日韓関係の悪化は、両国の繁栄や東アジアの安定にとって決して好ましいことではなく、ひいては拉致問題の進展に関してもマイナスになったと言っても過言ではない。文学界のみならず、音楽界も例外ではない。今やJ-POPはK-POPに後れを取り、そのクオリティは、はるかに水を開けられている状態である。
●特殊清掃業とは
著者キム・ワン氏は、ソウル生まれ、釜山育ち。大学で詩と文学を学んだ後、出版社や広告会社に勤務していたが、30代後半に「専業作家になりたい」と退職。その後、数年間日本に滞在する中で取材と執筆をしながら「死んだ人が残したもの」「人が死んだ場所を掃除する仕事」に関心を持つようになり、東日本大震災を経験した後、帰国。特殊サービス会社(特殊清掃業)「ハードワークス」を設立した。
キム氏が行っている特殊清掃業とは、居住者が死亡した場合のアパートやマンションの部屋などを清掃し原状回復する仕事である。死者の部屋はゴミが溢れていたり、遺体発見の遅れで汚物や悪臭に悩まされたりするため、容易ではなく文字通り特殊な作業であるという。キム氏は、特殊清掃作業の中で見えてきた、貧困・格差や孤独死、空き家問題など日本とも共通する社会問題に正面から対峙し手記にまとめた。それが「死者宅の清掃」であり、韓国では15万部を超えるベストセラーとなった。
●「死者宅の清掃」について
身内の宣伝をするようで気が引けるが、「死者宅の清掃」の内容を少しだけ紹介したい。
本の帯紙には、こう書かれている。
「それぞれの部屋に遺された届かぬままの『たすけて』が浮き彫りになる。生きづらさを独りで抱え込むすべての人へ贈る衝撃のノンフィクション。韓国で15万部突破」
余談だが、帯紙も新聞広告でも「韓国で15万部」と記されているため、早合点した知人・友人から「すごいな15万部」という連絡が入り、弟は逐次説明するのに苦労しているという。
同書は、大きく第1章「独りで死んだ人たちの部屋」、第2章「少しは特別な仕事をしています。」から構成されるが、最初に日本読者へ向けた著者のコメントがある。
「死という重い主題の本が成功した事例がなかった韓国で、思いもよらないことが起きたのです」
「われわれの存在の真の正体は、ほかならぬ愛であるという事実なのです」
「死を見つめてきた一人の人間として、私が生きている間にやれることといえば、愛が意識されることを妨げてきた、いろいろな観念のベールをぬぐい払うことだけなのかもしれません」
「この本は、死を通して語る、愛に関する告白だと言ってもいいでしょう」
この著者の馳せる思いは、第1章で汲み取ることができる。
●第1章について
⇒リアルな描写と独特な文調
家財道具のない室内にテントを張って暮らしていた女性、ゴミをきちんと分別してから自ら命を絶った女性、独りで死んでいくのは主に貧者、尿が入っている大量のペットボトルの陰で亡くなった人、ベッドで二人横たわって死んでいた夫婦、冷蔵庫にソーダ味のダブルバーアイスを保存して独りで亡くなった女性...。そんな死者の部屋を「特殊清掃」する際に目撃せざるを得ない凄惨な現場がリアルに描写され、同時に著者の複雑な心情が綴られている。
そこには、「強烈な腐敗臭」「黒い雪だるまのような形の血痕」「褐色のストッキングのような皮膚」「赤黒いシミ」「肥えたハエ」「ウジの群れ」など、非日常的でグロテスクな表現がこれでもかというほど出てくる。これが、弟が「食事前に読むな」と忠告した所以なのだろう。
蓮池透の正論/曲論
蓮池透(元東京電力原子力エンジニア)