… … …(記事全文3,890文字)本日は,阪神淡路大震災からちょうど30年目.30年前の本日1月17日,午前5時46分に,阪神淡路地域を最大震度7の地震が襲いました.
戦後日本国民が始めて体験した,100万人以上の人口を抱える大都市がまるまる破壊されてしまうという都市型大震災.
日本の歴史全体で考えても,「近代都市の大震災」というのは,1923年の関東大震災以来の二度目の経験となりました.
当方は当時,京都大学のまだ20代の若手助手で, その大きな揺れを京都市内で体験しました.
「大変に大きな揺れ」だと感じたので,てっきり震源地は京都なのかと思っていましたが,テレビをつけてみて神戸あたりが震源地だと知ります.
そのテレビの映像は,これまで「B29による大空襲で都会が焼け野原になる」という話も映像も繰り返し目にしてきましたが,そんな恐ろしい焼け野原が,この平和の現代日本において有る筈等ない…と漠然と感じていた「平和ボケ」にどっぷりと浸かった20代の当方の精神を,激しく揺さぶる恐るべき映像でした.
あれから30年…その間に,観測史上,阪神淡路大震災で初めて記録された「震度7」を記録した大地震として,中越地震(2004年)が起こり, 東日本大震災(2011年)が起こり,熊本地震(2016年)が起こり,胆振東部地震(2018年)が起こり,そして昨年2024年のお正月には能登半島地震が起こり.
つまり,それまでとは次元の異なる大地震が,過去30年の間に,6回も,おおよそ5年に一度のペースで繰り返される状況となったのです.
地震に関する地学者達はこういった状況を「地震活性期」と呼び,大地震が頻発する期間であるととらえています.
とりわけ,日本国家に対して激烈に深刻な被害をもたらす南海トラフ地震は,過去においてもその発生前の40年間は(それ以外の期間よりも圧倒的に)よりも圧倒的に多い頻度で地震が起こってきたことが知られています.
それを踏まえると,日本は正に今,南海トラフ地震の「カウントダウン」が始まった状況にあると言えるでしょう.
しかし,日本の復旧・復興力は,この30年間でどんどん「退化」してきてしまっているように思えます.
あの阪神淡路大震災を振り返ってみると,政府も民間も,一日でも早く被災された方々を救うために,元通りの暮らしや活動を取り戻す為に,平時における「マニュアル」や「平時のルール」を度外視した復旧・復興に取り組んだ姿勢があったことが見て取れます.
例えば,あの600メーター以上にわたって倒壊してしまった阪神高速道路の復旧には当初,「最低でも3年はかかる」と見られていましたが,各種規制によって平常時のルールでは採用できない様なさまざまな技術やアイディアが現場の判断で次々と採用され,1年9ヶ月で復旧されました.
同様に,JR六甲道駅も復旧には2年はかかると当初言われていましたが,倒壊した駅舎の「梁」をそのまま活用する等の様々な工夫を重ね,僅か2ヶ月と2週間(64日)で復旧させました.
民間においても,例えば,ダイエー創業者・中内功氏は,『店の明かりをつければ、それだけで被災者たちは力が出る』と語り,『行政を無視』して、開けられる店は全て営業するように号令を出し,ヘリコプターやフェリーを使い食料品や生活用品を運んで店頭に並べ、自らも三日後に現地に入り陣頭指揮をとりました.
こんな官民の復旧,復興に向けた半ば命がけの真剣な取り組みは勿論,「官邸・国会」においても共有されていましたた.
地震から僅か1月強後の2 月 28 日には,1兆円以上の(1994 年度第二次)補正予算を成立させ,その三ヶ月後の5 月 19 日にはさらに追加の1.4兆円の震災復興予算を含めた(1995年度)補正予算を成立させています.
つまり,まだ日本がデフレ不況に突入する前の,未だ経済が成長していた,30年前の1995年当時,日本には,
「未曾有の被害を受けた神戸の人達を助けよう!」
という機運が民間にも政府にも,地方にも中央にも十分に漲っており,平常時のルールを度外視して迅速な復旧復興が進められたのです.
…しかし…
誠に残念ながら,それから30年が経過した今日,被災地を助けだそうという機運は(皆無となったとは言わずとも),かつてに比して圧倒的に縮小してしまっていることは否定しがたい事実です.
例えば能登半島地震については…
藤井聡・クライテリオン編集長日記 ~日常風景から語る政治・経済・社会・文化論~
藤井聡(京都大学教授・表現者クライテリオン編集長)