… … …(記事全文2,572文字)この週末、とある依頼で岡山に講演会に行って参りました。
主催の方からのリクエストが、日本の政府の借金問題は欺瞞であり、消費税減税やしっかりしたインフラ投資をやればいくらでも日本は復活できる、という趣旨のお話しをということでしたので、あれこれデータやエピソードを交えながらお話しさし上げました。
…で、その最後に、こうしたいろんななすべき事をやるには、どうしても「政治」の力が必要であること、そして、その政治の力を発揮するためには、その第一歩として多くの国民が政治に「関心」を持つ事が、全ての前提となるのです、というお話しをさし上げました。
その時に改めて申し上げたのは、そもそも、我々現代人にとってみれば、政治に関わりを持つ、ということと「生きる」ということは全く同値なのだ、という点。
逆に言うと、現代人のくせに政治に興味関心がないというのは、生きていない、っていうことであり、死んでいるっていうことと全く同じなわけです。
僕はこの台詞は先日、とある方(政治家でも官僚でも学者でも言論人でもなんでもない方です)とお話しをしていてぽろっとおっしゃったものだったのですが、その時、大層心にひっかかっていた言葉でした。
なぜ、そう言えるのか…というのを軽く説明すると次のようになります。
そもそも、我々人間が生きていくということは、この「世界」の中で、どうにかこうにかやりくりしていくことを意味しています。
もしもこの「世界」が完全なるパラダイスで、何の努力も働きかけも意志もなくても、ボウフラのようにしていたとしても何の不都合もないものであったのなら、我々生命に何の能動性、積極性も必要はない、単なるその片の石ころのようにゴロゴロと無為無策で転がってさえいればそれで何の不都合も起こらないっていうことになります。
しかし、あらゆる生物にとって、この世界はそんな風にはできていません。
食べ物や水分や塩分を「摂取」したり「排泄」したり、「餌探し」をしたり、「巣作り」したり…とありとあらゆる「能動的」「積極的」な「行為」が求められます。
そういう事をしなければ、この世界はただただ私達の生命を弱体化し、消し去ってしまおうとします。
だから、「生きる」ということは、この世界から与えられるありとあらゆる「要求」や「障害」を乗り越え続け、その活力を維持し、拡大していくことそのものなのです。
そして、現代人が生きる世界は、単に「自然の摂理」によって支配されているだけではなく、「政治の力学」によっても支配されているのです。
お店に置いてある食べ物を勝手に食べてはいけないし、他人の家にかってに入っちゃいけないし、腹が立つ奴を殺してしまってはいけないのです。
そうした規範の根幹は全て「政治」によってコントロールされ、支配されているのです。
さらには、今の経済の状態だとか、自分の所得だとか、自分の仕事の売上げだとかも全て、「政治」によって甚大な影響を受けているのです。
だから、現代の私達が生き生きと生きていくためには、野生動物が自然の状態に本質的、本能的な興味関心を持たざるを得ないように、政治の状態に本質的、本能的な興味関心を持たざるを得ないのです。
もしもそんな本質的本能的な興味関心を失えば、野生動物たちが瞬く間に、彼らの置かれた自然環境の中で衰弱し、死滅してしまうように、私達もまた、瞬く間にこの政治状況の中で、弱体化し、死滅してしまう他無くなるのです。
そして我が国日本は今、まさにそうやって弱体化し、死滅しまいかねない状況に追いやられているのです…
藤井聡・クライテリオン編集長日記 ~日常風景から語る政治・経済・社会・文化論~
藤井聡(京都大学教授・表現者クライテリオン編集長)