… … …(記事全文4,064文字)昭和日本の電力不足を改称するために関西電力が決断したのが「黒部ダム」による発電所、通称「くろよん」建設。
その当時、かねてから「黒部ダム」が構想されており、これが建設できれば大規模な発電が可能となることが地理的な状況から明らかだと大いに期待されていたようです。しかし、その建設はとりわけ困難であり、「実現不可能」であるリスクが存在していたため、それまでずっと手つかずのまま放置されていたのでした。
ですが、当時の大阪、関西の電力不足は深刻な水準に達していました。このままでは戦後、焦土と化した日本が復興し、成長し、途上国から先進国へと発展することが不能となってしまう…という事態が真剣に危惧される状況に至っていました。
そんな中、時の関西電力社長・太田垣士郎氏は、これまで成功するとは限らないという理由で手つかずのまま放置されてきた「黒部ダム」を建設することを決断します。
その時、太田社長は、次のように語ったといいます。
「経営者が十割の自信をもって取りかかる事業。そんなものは仕事のうちには入らない。七割成功の見通しがあったら勇断をもって実行する。それでなければ本当の事業はやれるものじゃない。」
そして、7年の歳月と500億円という当時の関西電力の資本金の3倍以上もの巨額な費用と延べ1千万人もの人員を投入することを決断したのです。
すなわち太田社長の言葉を借りるなら、3割の失敗の可能性がある事を承知した上で、すなわち、3割の確率で500億円以上の資金が抱水として消え去り、それによって会社が傾いてしまうこともあるだろう、というリスクを十分に承知した上で、文字通り社運をかけて、黒部ダム建設プロジェクトを決断したわけです。
そのリスク選択は決して、関西電力の会社としての利益のためではありません。
それは偏に、自分たちの国、日本を先の大戦で打ち負かした欧米に追いつき追い越し、それを通して戦後日本が再び先進国として世界史の中で復活する希望を実現せんがための、巨大な「賭け」だったわけです。
ではなぜ、くろよんは建設不可能であるリスクがあったのか…?
それは偏に、その黒部ダム建設のためには、プレートとプレートがぶつかり合う地帯、フォッサマグナ=大地溝帯の西の端の「糸魚川静岡構造線」をトンネルでぶち抜くことがどうしても求められていたからです。
日本列島はもともと、4つの大陸プレートがひしめき合う地点にできあがって列島。そしてその4つの内のユーラシアプレートと北アメリカプレートがぶつかり合う、その最前線に「(糸魚川静岡)構造線」があるのです…
藤井聡・クライテリオン編集長日記 ~日常風景から語る政治・経済・社会・文化論~
藤井聡(京都大学教授・表現者クライテリオン編集長)