━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 板垣英憲(いたがきえいけん)情報局 ~マスコミに出ない政治経済の裏話~ 2022年11月19日 ◆─── - - - - - - - - ───◆ 世界の政治・軍事・経済・金融を支配するパワーエリートの動きやその底流で 行われている様々な仕掛けなどを中心に、重要情報(特ダネ)をキャッチして速 報する。 政治評論家 板垣英憲 ◆─── - - - - - - - - ───◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆『小沢一郎の時代』(1996年2月6日刊) 第4章 行政制度をつくり直す 中央集権体制と官僚制度の歴史 ─────────────────────────────────── 明治政府は、徳川幕府から政権を天皇に奉還させてできあがった。強い国家づくりを目指して、中央集権体制を築こうとしたのである。帝国主義時代のなかで、欧米列強の餌食にならないよう国防体制と国内治安の確保を図りつつ、欧米諸国をモデルとする近代国家建設に乗り出した。平成七年から数えて、百二十七年前のことである。 国内的には、佐幕派の残党が多数存在し、維新政府に反感を抱く者が少なくなかった。対外的には、帝国主義を推し進めていた欧米列強が牙を向いて侵略のスキを狙っていたのである。明治政府は、危機の上に立たされていた。 当時の国際状況は、帝国主義戦争が繰り広げられる弱肉強食の時代だったので、油断すると、列強の植民地にされてしまう。たとえば、インドや中国は事実、英国の植民地にされていた。 アジアの国の一つである日本も、欧米列強の帝国主義の対象国として餌食にされかかっていた。このため、客観的に常に戦時体制を強いられていた。 そこで、明治政府は、危機管理体制を確立するためにも権力の掌握に全力をあげた。まず、大名が領主として支配した二百六十一の藩の廃止を断行しました。藩は、幕藩体制のなかで政治的、社会的な独立性を持っていたので、実質的に「地方分権体制」が築かれていた。国の権力や権限が、地方に分散していたのである。 これでは、内憂外患には臨機応変、機動的には対応できない。とくに、外敵に立ち向かうことはできず欧米列強に対してスキを与えてしまう。このため、明治政府は権力を中央に集中して、国家の一大事に立ち向かおうとした。… … …(記事全文2,655文字)
板垣英憲(いたがきえいけん)情報局 ~マスコミに出ない政治経済の裏話~
板垣英憲(政治評論家)