□■□■【反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説】 ■□■ □■ 天木直人のメールマガジン2011年5月16日発行 第339号 ■ =============================================================== 辻原登と西園寺公一のエピソード =============================================================== こういう話が私は好きだ。たまには政治とは無関係の事をかいてみたい。 5月5日の日経新聞文化面に「学びのふるさと」というコラムがあった。 芥川作家の辻原登さんが小説家になるまでの自らの体験談を語っていた。 文学放浪と言えば聞こえはいいが、すねをかじって小説家をこころざし ていた彼は30歳目前にして自活しなければと思い立つ。 日中国交回復直後で、中国語ができれば仕事が見つかるだろうと語学 学校に通い、学校経由の求人をつてに社員5人ほどの東京・赤坂の貿易 商社へめでたく就職する。 その会社を興したのは元老西園寺公望の孫の西園寺公一(きんかず)氏。 社名の「新天交易」は周恩来首相の命名で、西園寺家とのパイプを重んじ た中国側の関心も高い会社だったという。 入社後しばらくして辻原氏は上司から「ご隠居がお呼びだ」と声を掛け られる。すでに経営の第一線から退いた西園寺公一氏は「ご隠居」と呼ば れていた。 当時70歳近くだったが真っ黒なサングラスを欠かさず、常にダンディ ーな西園寺公一氏は迫力があった。 恐る恐る横浜・金沢文庫の自宅に伺うと、おもむろに「君は小説を書く のか」という。そして「小説書きはいらん。書き続けるなら辞めてくれ」 と辻原氏は言われたのだ。 辻原氏はとっさに応じたという。「書いていないし、書く気もありま せん」と。 人手のない会社で社員が小説にうつつを抜かすことへの懸念はわかるが、 職を失うわけにはいかない。とっさに出たうそだった。 その場は切り抜けたが、辻原氏は覚悟を決める。小説を続けるには隠れ て仕事と両立させるほかはない。ペンネームを使い毎朝5時に起きて机に 向かう毎日を送る。 そんな生活を続けて10年余り、二度目の芥川賞候補に選ばれる。 「今度はとるかも」と編集者に告げられる。そうなれば隠し通すのは 無理だ。心を決め、小説のことは明かさないまま辻原氏は退職した。 そして芥川賞の受賞が決まった時、最初に届いた祝電の送り主は 「西園寺公一」だった。 サーッと血の気が引いた辻原氏であったが、金沢文庫の自宅に伺うと、 公一氏は一言、「君がずっと書いていたのを知っていたよ」と笑顔で祝 ってくれたのだった。 辻原氏はその随想文を次の言葉で締めくくっている。 「本当に公一氏が知っていたかはわかりません。ただ、公一氏の言葉が なければ、あれほどの緊張感を持って小説と向き合うことはなかった。実 生活における覚悟のほどというものを教わりました」、と。 西園寺公一氏も立派なら辻原氏もよく頑張ったと思う。 了
天木直人のメールマガジン ― 反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説
天木直人(元外交官・作家)