… … …(記事全文1,664文字)天保銭といわれた「天保通宝」(てんぽうつうほう)は江戸時代後期、天保6年(1835年)から鋳造され、明治時代前半頃にかけての日本で流通した銭貨です。
江戸時代は金・銀・銭に三貨が流通していたことはご存じだと思うのですが、一般庶民の財布の中身はほとんど銭貨でまれに豆銀か一朱銀が入っていた程度でした。
金貨、銀貨は現代人の感覚だと使いやすそうですが、実際には相場に左右されて、価値が一定せず変動していたので、実際には使いづらかったのです。
江戸時代の商店にはよく
「文銭勘定以外の販売はいたしません」
という銭貨以外の支払いはお断りの張り紙がされていたそうです。
『守貞謾稿』巻之八「貨幣」 国立国会図書館 蔵
ある書に云ふ、慶長以後、銭価官府の出納定価、小判一両銭四貫文とし、
民間には日価ありて上下す。銭の賎き日は五貫文余を一両とし、貴き時は四貫文に満たず。
大略四貫八百文ばかりを平価とす。江戸幕府が成立したころは金一両が4000文(4貫文)だったのが江戸後期の銭相場が安い時は
金一両が5000文(5貫文)にになっていたりして、銀で払われると銭への換算が大変だったそうです。店内は銭払いだけに統一すれば品書きの値段を変えるだけで済みますからね。
天保6年(1835年)、100文通用とされた「天保通宝」が発行されますが、この「天保通宝」は
「當百」(100文銭の意味)と日本で初めて通用価値が書かれた貨幣となったのですが
市中では80文程度でしか価値が認めらなかったという悲しい結果となった貨幣でした。