… … …(記事全文5,159文字)「たじろぐな、と言いたいね」──2010年11月、患者、医療者、マスコミ関係者などが集まる会合での講演で、「我々ジャーナリズムに携わる人間に、言いたいことはないですか」と質問したわたしに対して、故・清水陽一医師(循環器内科)が答えた言葉だ。わたしはこの言葉を、清水医師から我々ジャーナリストたちへの遺言だったと思っている。
東京医科大学の学生だったとき、大学病院で起こった医療事故を遺族とともに告発。それをきっかけに清水医師は、医療裁判で患者側に立って意見書を書き続けるなど、ずっと医療界の権威的・閉鎖的な体質と闘ってきた。1999年に東京の下町、堀切にあった新葛飾病院(当時)の院長に就いてからも、「うそをつかない医療」を掲げて医療事故被害者の豊田郁子さんをセーフティーマネージャーに就任させるとともに、医療界に対しても医療事故の隠蔽やかばい合いの体質を改めるよう訴え続けて来た。
その清水医師と出会った頃、わたしは「福島県立大野病院事件」をはじめとする医療事故や被害者・遺族への誹謗中傷の問題を取材していた。前置胎盤というハイリスク症例の帝王切開手術を一人で行い、妊婦を大量出血で死亡させたとして、2006年に大野病院の産婦人科医が業務上過失致死の容疑で逮捕された(2008年に無罪が確定)。この逮捕を不当だとして、多くの医師が抗議の声を上げたのだが、これに対して私は当時、妊婦の父親を取材するなどして、朝日新聞の月刊誌「論座」(2008年10月号で休刊)等にルポを書いていた。
医師しか見ることのできない医師専用サイトの掲示板に、医療事故被害者・遺族への心ない投稿が多数あっただけでなく、わたしに対しても、当時書いていたブログのコメント欄や2ちゃんねるなどで誹謗中傷があった(これについては、2008年12月出版の拙著『ネットで暴走する医師たち』(WAVE出版)に詳しく書いた)。精神的に落ち込んだ時期もあったが、そんなわたしのことを清水医師は、「金にならん仕事をしている」とからかいながらも、目をかけてくれていた。わたしも清水医師のことを慕い、尊敬していた。
しかし、残念なことに清水医師は大腸がんを患い、講演の翌年の2011年6月19日、62歳の若さで亡くなった(わたしの清水医師への追悼文「清水さんからもらった干物と言葉」が、元朝日新聞論説委員・大熊由紀子氏が運営する「ゆき・えにしネット」の「清水陽一さんを偲び うそをつかない医療を広げる『えにし』を結ぶ会」に掲載されている。Googleで「清水陽一医師」と検索すれば2番目にヒットするので、よかったら読んでほしい)。
あれからおよそ13年、コロナ騒ぎやコロナワクチンの薬害に対して、我々ジャーナリストは政府・厚労省や医学・医療界に対して、たじろぐことなく物を申すことができただろうか。残念だが、一部の志ある人たちを除いて、「医療ジャーナリズム」なるものは、ほとんど機能しなかったと言わざるを得ない。
そもそも、ジャーナリズムとはなにか。「社会の木鐸」としていち早く異変を人々に知らせ、権力の暴走を監視するのが、ジャーナリズムの役割だ。1985年に同志社大学文学部社会学科新聞学専攻に入学したわたしは、1回生のときにそう教えられた。権力者たちは監視されなければ、ほしいままに権力をふるい、かならず腐敗していく。それは、政治だけの話ではなく、医学・医療も同じだ。
患者の命を左右できる「生殺与奪の権」を持つ限り、医学・医療も立派な「権力」だ。「薬」は処方を間違えると「毒」になる。「手術」や「放射線」は人間に「ケガ」や「ヤケド」を負わせる行為だ。医者に勧められるまま検査や治療を受ける人が多いが、医療が基本的に「傷害行為」であることを分かっている人が、どれだけいるだろうか。一般の人たちだけでなく、医師たちにも、その意識が薄いように思われる。だからワクチンの有害事象も「副反応」と言って、軽視できるのだろう。
いずれにせよ、なぜ医師たちに、そうした傷害行為が許されているのか。それは、安全に医療行為を施すための技術や倫理を学び、一定のレベルに達しているというお墨付きを国家から得ることで、違法性を阻却されているからに過ぎない。それが高い倫理性に基づいて適切に行われているならば、傷害行為であったとしても、違法性を問われることはない。だが、政権と同様、医学・医療もしばしば暴走する。
無用な薬の過剰投与や、安全性を無視した無謀な手術。医師の名誉欲や金銭欲を動機とする実験的な医療。そして、製薬業界との癒着による科学の歪曲・捏造──そういった権力の暴走・腐敗が、医学・医療界には確実にある。その権力たる医学・医療界を監視し、疑問に思わざるを得ないことに対して「おかしい」と声をあげ、暴走を止めることこそが、医療ジャーナリズムの役割なのだ。
わたし自身、自意識過剰な肩書であることを分かって、敢えて「ジャーナリスト」と名乗ることにしたのは、その決意を対外的に示したかったからだ。同志社の新聞学を出たからには、ジャーナリズムから逃れるわけにはいかないという気持ちもあった。だから「ジャーナリスト」を名乗る者として、わたしは「医学・医療の暴走を監視して、たじろぐことなく批判する」というスタンスを取り続けている。
ところが残念なことに、コロナ騒ぎに対して医療報道に携わる者たちの多くが、「権力を監視する」というジャーナリズム本来の役割を果たさなかった。政府の感染対策を批判するどころか、一緒になって新型コロナの不安を煽り、非科学的な感染対策を求め続けた。さらに政府と一体となってコロナワクチンの接種を推し進め、史上最大の薬害が発生しても、それに目を瞑り続けている。コロナワクチンによる薬害が拡大してしまった責任の一端は、確実にジャーナリズムにある。
なぜ、医療ジャーナリズムが機能しなかったのか。それは医療報道に携わる者の多くが、医療ジャーナリズムのあるべき姿を理解していないからだ。彼らの多くが、たんなる「医療の翻訳者」に成り下がっている。その前提にあるのが、「医学的に正しい情報を伝えなくてはならない」という考えだ。「医学的に間違った情報を伝えたら、一般の人に害を与えてしまうかもしれない」。彼らの多くが、そのような考えに染まってしまっている。
購読するとすべてのコメントが読み放題!
購読申込はこちら
購読中の方は、こちらからログイン