管谷怜子リサイタル「ベートーヴェン巡礼」が大成功裡に終った。関係者、ご参加の皆様に心から御礼申し上げます。
一晩で6曲のベートーヴェンのソナタ。正味の演奏時間が2時間です。無謀な話でした。通常正味70分から90分ですから。しかも全てが強烈なタッチと緊張感を要する。
5月初旬に1週間で3回同じヘビーなコンサートをこなし、最後に鳴らない会場で鳴らないピアノを無理に鳴らして、腕を痛めてしまい、以来騙し騙し。
休んでは再開し、やはり不調に陥る。治りきらないが、演奏会は迫っているという状況でした。
うちの尚ちゃんが世話になっている素晴らしい整体師さんがいらして、患部を全く触らず劇的に症状が緩和する。同じ系統の先生が福岡にいらして施術を受けたのが公演6日前。翌日劇的に楽になって、2日連続通ったのですが、先生が出張で3日空いている間に再び悪化します。
前日のタカギクラヴィアさんでのリハーサルでは弾いてはいけない状態。平常9時間、前日4時間の練習なのですが、1時間で切り上げ。プログラム前半の1,2,3番は練習不足の中で大きなコンサートでは初披露なので楽譜を置くことにしました。
幸い、同じ系統の整体師の先生の本部が東京にあり、前日に施術を受けられました。この出会いがなかったら公演は不可能だったのでは。(今日も有難い事に施術の時間をとって頂いています。)
会場は白寿ホール。私の非常に親しい友人、原浩之さんの運営されている素晴らしいホールで、実に良く響く。
リハは最小限にしたいのですが、どうしても弾かないと不安なので、合計90分以上弾いてしまいます。
軽く流して、フォルテの打鍵はバーンと鳴らす方針。つまり晩年のホロヴィッツ、ケンプのやり方を始めて意識的に取り入れました。いつも強烈な腕力と指の力で全ての音を鳴らし切りながら突っ走る月光や熱情の3楽章は軽い打鍵で今までの8割ほどのテンポに落とす、なども。
そして本番。熱烈なファンの皆様のみならず、遠方からのお客様も多い。音楽関係者もいらしている。後には引けない。
1番のソナタが始まります。素晴らしくゆとりのある演奏、3楽章まで完璧。セーヴしているのに音楽は豊潤そのもの。問題は急速テンポの4楽章。冒頭で愕然としました。指が動かないのがはっきり分る。とにかく軽く弾いたり、テンポを変えたりするんですが、これで後5曲、しかも後半に《悲愴》《月光》《熱情》……。気が遠くなりました。終演後楽屋に駆け込むと、指の感覚がない、悔しいと言っている。塗るやらぶらぶら振るやら、2番はとにかくソフトなタッチでとか助言にならない助言をして舞台に送り出します。
2番は優美な曲ですが、彼女の演奏は通常の演奏に較べ、非常に柄の大きなもの。走句は軽やかに、柔らかくこなしている。時折顔が苦痛に歪み、腕を曲の間で振るのが痛々しい。3番は一点ダイナミックな演奏になる。流すところは無理をしない、テンポも遅めにとるなど。しかし冒頭の非常に難しい重音が滅多にないほど見事に弾きこなされ、フォルテの凄い打鍵が会場を満たしてゆく。やや遅めにした分、フォルテの和音を豪壮に鳴らし、かつリズムの刻みを通常より体を載せてダイナミックに演じるという事が、逆に、空前の巨大さをこの曲に与えました。どなたが感想で、通常の初期ソナタの演奏とまるで違う中期のスタイルで、ワルトシュタインを思わせるとお書きくださっていましたが、まさにそそり立つような3番。彼女からしてみると通常ならしないミスが若干あって不本意そうでしたが、聴衆からすればほぼ完ぺきな演奏でしょう。
15分休憩。とにかく冷やしたり振ったり、伸ばしたり。
《悲愴》は序奏で鳴らさない。鳴らすとスイッチが入って暴走するから…。そして主部は無理なく弾けるテンポで。テンポ変動は自由に。無理にインテンポで弾かない。弱音を多用する。3楽章もゆったりと歌わせて……何しろこの後、《月光》3楽章と《熱情》を立て続けに弾くわけだから。コンディションが万全でも普通やらないプログラムです。
彼女の《悲愴》は今や看板レパートリーです。今回も腕の不安を全く忘れさせる自在な境地。夢のような世界が繰り広げられます。
曲間をやや充分にとって《月光》。1楽章を早めに強く弾いてきた彼女ですが、ここにきて陰影深い実に見事な1楽章像を確立したように思います。終演後、今まで納得していなかったが今晩のは最高でした、と管谷論を『湊合』に発表くださった山根浩也さんのご感想。2楽章はいつも通り見事。さて、問題の3楽章。いつもは疾風怒濤。特に前回5月4日福岡は指に力が入らないから流して弾くと言っていたのに、流したらかつて聴いた事のないとんでもないスピードで始まってしまったので、今日は抑制できるかどうか?
なんと初めて標準的なテンポと弱音でくっきり始まりました。鳴らすべきは豪壮に鳴らし、右手に不安がある分、左手の刻みが強烈に効いて、堂々たる巨匠の芸になっていました。これは一つの大きな完成ではないか。驚きました。
お客様を待たして申し訳ないのですが、《熱情》との間には少しだけ余計に休みを入れ、腕を冷やし、お茶を飲み、いやここまでこぎつけた事に私は既に感無量。当人はそれどころではないわけですが(笑)
《熱情》の1楽章。始まってすぐの急速の右手の下降が、いつも最強音と最速で乗り切りたい彼女は成功率が低いのですが、今日は丁寧に見事に決まっていた。1楽章の最後をいつも途轍もない急速テンポと圧倒的な加速で締めくくるのですが、今回は巨匠風に堂々と、しかしうねるようなダイナミズムで。こちらの方がよいという感想もありました。2楽章の崇高さは盤石、そして3楽章。
いつもに較べ2割近く遅いテンポで丁寧に始めます。そして腕に無理をさせずに難しい箇所はテンポを緩める。それが音楽的に実に素晴らしく処理されていて、腕の為とは聴こえない。完全に音楽になりきっていて、寧ろ癖になりそうなテンポ変化。滑らかな運びはトラブルがあるとは到底分らない。酔い痴れました。
そして彼女の最大の看板、超絶的なコーダ。いつもより相当遅いテンポのまま巨竜が躍り上がるようにグワーッとクライマックスに入ると、もはや完全な交響曲の世界。
テンポを落してもただでは起きない(笑)。
いくら何でもどれだけ鳴らすんだピアノを?! という鳴りで、かつてない壮大な熱情が終ります。
ブラヴォーとスタンディングオベーション。まだ聴衆は150人に満たない数でしたが、間違いなく伝説の一夜となったと思います。
終演後、彼女の大ファンの遠藤さんが私のところに駆け寄って、「すべて解釈を変えましたね。完璧です! 完璧です!」と興奮を抑えきれない様子。遠藤さんはヨーロッパでも全盛期の大演奏家を聴いてきた方。リヒテルの来日はすべて聴いておられます。
西浦さんも真先にスタンディングオベーションをしてくださいました。彼女を前に「こんな音はホロヴィッツしか出ない! 演奏はまるでクナッパーツブッシュ!!」
何しろ千鈞の重みがあるのは、西浦さんが、ホロヴィッツ、アラウ、ミケランジェリらの最盛期をヨーロッパで散々聞いておられる事です。
そしてクナの名前! 実はリハの時、弾けないから遅いテンポにしてリズムを刻んで、と解釈を変えた演奏を聴いて私はこういった。「君は調子がいい時はフルトヴェングラーだけど、今日はまるでクナッパーツブッシュだね」と。
管谷も自分で「そうだね(笑)」。
西浦さんから同じクナの名が出るとは思いもよりませんでした。
ご感想の中に、バックハウスを思わせた、という方も。
すでにどれだけ多くの方が、管谷を聴いて過去の巨匠、それも50年以上前の人ばかりを上げてきた事か。フィッシャー、アラウ、ケンプ、バウアー、エリー・ナイ、ホロヴィッツ……。しかも指揮者の名前も。フルトヴェングラー、トスカニーニ、クナッパーツブッシュ。全員まるで違う(笑)。つまり解釈が似ているのではない。音楽の齎す姿がこれら歴史上の巨人を彷彿させるものを持っているのです。これは寧ろ魂そのものの大きさなのではないでしょうか。
ピアノは1912年製ニューヨークスタインウェイ。コンサート専用ヴィンテージ。調律は高木裕さん。高木さんの調律はもう考えられない奇跡。高木さんの師匠は、ホロヴィッツとルービンシュタイン二人からご指名だったフランツ・モアです。こんな方と出逢え、ピアノと出逢え……。いつもながら完璧なピアノと完璧な調整で彼女の腕の不調を考えられぬくらい懐深く支えていただいた。これ、普通のピアノではここまで腕が不自由だとまるで表現にならなかったと思う。
酒井崇裕さんが録音録画。今回のコンサートを理想の音で記録くださいました。そう遠くない将来、世界デビューを果したら、伝説の一夜としてライヴの発売もあるかと思います。
そしてもう一つの奇跡。前日のリハで腕が厳しいコンディションだという事を盟友の木下さんに話したところ、知己である濵田博士の友人に慈恵医大のスポーツドクターがいらっしゃる由、すぐ連絡してくださり、何とコンサートにいらしてくださった上、終演後懇親会で種々助言、専門医をご紹介くださりました。
そんな出来過ぎた話があるでしょうか?
懇親会は三田会繋がりの岡田祐子さんが初めてのご友人を多数お招きくださったのでご挨拶もかねて少人数で開きました。何しろ懇親会開始が22時過ぎなので(笑)。有難う。
それにしても……。
正味2時間のプログラムって、オケでもやりません。ベートーヴェンでいうと交響曲1番、2番、第9とか、レオノーレ序曲、4番、6番、運命みたいな(笑)。これを成し遂げ、しかも記録を聴けば間違いなく歴史的名演と言えるものを腕の不調を逆に活かして達成した管谷怜子の偉大さに、改めて満腔の敬意を表します。
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