… … …(記事全文3,333文字)●「リポビタンDください」
朝9時過ぎ、玄関の上がり框の一角でタバコを吸っている時のことだ。我が家は隙間だらけのボロ住宅なのだが、分煙のため上がり框にテーブルと椅子を置いて「喫煙コーナー」にしている。これも父の苦情が発端である。「ごめんください」と80代くらいの見知らぬ女性が入って来た。「御用は何ですか」と尋ねると、「薬を買いに来ました」と言う。「何の薬ですか」と問うと、「リポビタンD」と答えた。うちの近くには調剤薬局はあるが、ドラッグストアのようなお店はない。なぜ、間違えたのかは分からない。「うちは薬局でもお店でもありません。リポビタンDなら近くのコンビニで買えますよ」と諫めた。すると、「それはどうもすみませんでした。ここで少し休ませてください」と疲れた口調で訴えられたので、歩行が困難だと察し、「どうぞ、どうぞ」と勧めた。
●我が家はお店とは無縁ではなかった
お店と言われ思い出した。私が小学校へ入学したころ、家には鉛筆やノート等がガラス蓋の付いた箱(ショーケースもどき)に納められていた。学校の近くであることから、おそらく売っていたものと考えられる。また、秋になると祖父が出店(でみせ)を作り、そこで家族総出で収穫したぶどうや梨を直売していた。直売店の切り盛りはすべて祖母が行っていたが、私もちょっとだけ手伝いをした。現在も道路沿いにカニやリンゴ等の直売所が見受けられるが、交通量が全然違うので当時の売り上げは僅かなものだった。というわけで、我が家はお店と無縁ではなかった。
●壁際に横たわる女性
話が逸れてしまった。あの女性はどうしたのかと外へ出た。何と女性が家の壁際に横たわっているではないか。「大丈夫ですか」と声をかけると「大丈夫です」と気丈に答えたので安心したが、やはり足元がおぼつかないようである。「おうちの方に迎えに来てもらいましょうか」には、電話番号を教えてくれた後に「誰もいないと思いますよ」と付け加えた。すぐにその番号に電話をしてみたが、やはり応答がなかった。「家はどちらですか」に答えたのは、隣の町でその範囲は広かった。「遠いですか」と訊くと「近いです」と答えた。「ではこれに乗ってください」。普段父が使用する車椅子を用意した。
●車椅子に乗せて帰宅を試みるが家が分からない
「申し訳ないですね。ごめんなさい」と車椅子に乗りながら女性は繰り返した。車椅子を押しながら、「どうやってうちまで来たのですか」と問うと、「歩行器を使って来ました。でも、見当たらないんです。お宅の前に置いたはずなのに」と言われ、歩行器はどこへ行ってしまったのかが気になった。近くの橋を渡り隣町に入ったので、「ここからはどちらの方向へ行けばいいですか」と訊くと、「橋を渡ればすぐ近くです」だと。「もう橋は渡りましたよ。大きな道路沿いですか、それとも脇道へ入った所ですか」には「道路沿い」だという。
