… … …(記事全文4,635文字)今,表現者クライテリオンで,次号にて「『指導者』の条件~“徳”と“品格”の思想」という特集を準備しているのですが,その中で久々に,当方が寄稿することとなりました.
編集長ということで,ついつい対外的なインタビューの記事や座談会への参加が多くなり(かつ,編集長日記や編集後記までありますし),その上で寄稿や連載をしてしまうと,「藤井聡」の名前ばっかになってしまうということで,これまでずっと控えてきたのでした.
が,今回は編集会議で,「藤井さんに,田名角栄のことを紹介為ながら,指導者の条件としての徳や品格について論じてはどうですか?」という提案があり,それならそうしましょうかということで,久々に特集原稿を寄稿することとなりました.
編集会議でそういう話しになったのは,田中角栄もまた当方と同様,土木工学を十代の頃学び,それを基軸として政治・行政論を展開していると同時に,その具体的な形として公表された田中角栄の「列島改造論」の思想が明確に,当方の「列島強靱化論」(国土強靱化論)の源流となっているからです.というよりもむしろ,当方としては,国難級巨大地震を経験したという21世紀の我が国において,列島改造論の「焼き直し」を行うべしということを明確に意図しながら,列島強靱化論をまとめたというのが実態です.
ついてはまずは,田中角栄氏の資料をあれこれ調べていたのですが,まず,彼の生涯を簡単に年表的に纏めてみましょう.
1918年5月4日 新潟県刈羽郡二田村大字坂田(柏崎市)に農家の二男として生まれる
1934年(昭和9年)3月 上京 (16才)
1936年(昭和11年)3月、中央工学校夜間部土木科を卒業 (18才)
1943年(昭和18年)12月に、「共栄建築事務所」を改組して田中土建工業を設立(25才)
1947年 初当選(民主党) 29才
1957年 初入閣 郵政大臣 岸信介内閣(39才)
1962年 大蔵大臣 池田内閣(43才)
1965年 自民党幹事長(46才)
1968年 都市政策大綱とりまとめ(50才)
1972年
6月『日本列島改造論』を発表。
7月福田赳夫を破り自由民主党総裁・内閣総理大臣に就任。
今太閤と呼ばれ,支持率約は70%(52才)
12月 日中国交正常化
1973年10月(中東戦争)~1977年 第一次オイルショック → 狂乱物価
12月 支持率が下落為,20%を下回る
1974年
10月 立花隆・文藝春秋「田中角栄研究」にて田中金脈問題を追及
11月 支持率12%にまで下落.総辞職 以後,「影の総理」へ.
1976年 ロッキード事件
1983年 第一次公判 有罪判決 即日控訴
1985年 脳梗塞で倒れる
1990年 政界引退
1993年 死去(刑事被告人のまま死去したため、位階勲章は与えられなかった)
農家の子として生まれ,16才で上京し,土木工学を学び,25才で建設会社を設立し,その四年後の29才にして国会議員として初当選.その10年後の39才の時には郵政大臣として初入閣を果たします.郵政大臣として民放・NHK各局の全国展開を推し進め,日本に「テレビの時代」をもたらしました.そしてさらにその4年後の43才の時には大蔵大臣となります.その時,今では想像しがたいことですが,テレビ「冠番組」をつくり,国民に直接自らの政治理念を番組を通して語りかけました.
その後,46才の時に自民党幹事長に就任し,50才にして「都市政策大綱」をとりまとめた上で,52才にして,自民党総裁・総理大臣の地位にまで上り詰めます.
この総裁選の直前に発表したのが,日本における過疎や過密,貧困や格差などの全ての問題を解消しつつ,日本の戦後を終わらせ,押しも押されぬ先進国に押し上げるための構想である「列島改造論」でした.
角栄はこの構想に基づいて全国で様々な開発を手がけ,日本全国を実際に飛躍的に成長させていきました.
さらには,総理就任後5ヶ月にして,戦後日本における長年の懸案だった日中国交正常化を果たします.
こうして,角栄は敗戦によって焼け野原になった日本を,先進国へと導き,アメリカの「奴隷国家」ではない,自主的な外交ができる国への道を切り開かんとしたのです.
しかし,田中角栄の躍進は,ここまで,となります.
その後,様々な不幸な出来事が重なり,総理就任後わずか2年数ヶ月で退陣を余儀なくされます.
その不幸な出来事とは…
藤井聡・クライテリオン編集長日記 ~日常風景から語る政治・経済・社会・文化論~
藤井聡(京都大学教授・表現者クライテリオン編集長)