弁護士先生の事務所に出向き、ありのままをお話しし、ご丁寧にお聴きいただき、法的措置の準備に向けて動き始めた。私自身の方から、東京から preemptive に動き、問題の解決と自身の防衛を全うしたい。この3週間にご支援の寸志も何人かから頂戴した。法的対処のアクションに正しく使わないと詐欺になる。お金がかかるのはやむを得ない。人は、普通に路上を歩いていて、突然、見知らぬ誰かから因縁をつけられて暴力の襲撃を受けることがある。そのときは、すぐに正当防衛に出て精いっぱいの護身を図らないといけない。考える隙(ひま)はない。命を守る必要がある。その咄嗟の行動に挑むにあたって、自らの身体が多少損傷を受けるのは仕方のないことだ。篤志の方々のご厚情とご支援に感謝して全力で戦う。 かれこれ1か月、ウクライナ戦争も台湾有事も、少子化問題も政局も、記事の主題からすっかり飛んで消え、昔からの regular なブログ読者の皆様にはご迷惑をおかけしている。申し訳ない。いつか首尾を果たして元に戻りたい。そうする覚悟だ。けれども、人には運命のめぐり合わせというものがある。偶然のいたずらがある。運命のめぐり合わせ。そのようなものは、メルヘン的な物語の文学的表現で、ポエティックな叙情表象で、地べたを這いずって生きる庶民の人生には関係ないものだと思っていた。けれども、そうではなかった。誰にもある。誰にでも起こる。例外はない。そのとき個人は逃げられない。運命に身を任せ、神が命じる道を歩き進むしかない。運命が敷いた方向を後戻りせず前に行くしかない。 誰かかから、郷土愛の強い人だという評価が私に飛んでいる。否定する。完全に否認する。正直に、この一か月の経験で、私は、そうした郷土愛的な趣味や傾向や属性から離れ、それには無縁で、逆にそれを拒絶する人間になった。仮に土佐市長選にでも出れば、そのときは政治家の方便と口舌で違うことを言うけれど、率直に、今は、高知県も土佐市もどうなってもよく、自分がコミットし心配する対象ではない。断言する。逆に、裏切られたという怒りと憤りを抑えられない。ちょうど、今の自分が、現在の日本に対して思っている恨みと同じだ。司馬先生の国だから愛せた。日本も土佐も。司馬先生の日本と土佐は今も愛している。それは頭の中にあるもので、天国にいる司馬先生の表情やユーモアと共にあるものだ。 現実にあるものではない。正直に言う。私は、高知県や土佐市をよくしようと思って、それが目的で今回の言論活動をしているのではない。土佐市民病院や9つの小学校も守りたいけれど、私はその責任と使命のために動いているのではない。その責任と義務を持っていて、すぐに行動しなくてはいけないのは、土佐市に住む市民たちだ。私ではない。先週開かれた土佐市議会では、市民病院のリストラも、9つの小学校の半減も、保育所の統廃合も、全く討論の議題にならなかった。そうやって医療と教育のコストを削りながら、コンサルに7年間も公金を垂れ流している問題について、糾弾の質疑に取り上げる議員は一人もいなかった。市民も黙ったままでいる。われ関せず、触らぬ神に祟りなしと無関心を決め込んでいる。… … …(記事全文4,679文字)