■昨日(5/3)は、ブログの過去ログを追って憲法記念日に書いた記事を読み直した。毎年、必ず何か雑文を書き綴っている。今年はウクライナでの戦争があり、その悲惨な実態を見て、あらためて9条の価値と意義を噛みしめた。戦争で命を落とすなどバカらしい。兵隊になって人を殺すとか、逆に殺されるとか、何でそんなことをしなくてはいけないのか。そんな目に遭わなくてはいけないのか。これほど無意味なことはなく、人のやることとして悲しく辛く愚かなことはない。 戦争は絶対悪だと確信する。国家の主権や正義のために死ぬなどあり得ない。たぶん、年をとり、先の人生が短くなったから、余計にその気持ちが強くなるのだろう。志位和夫が、ロシアに9条があったら歯止めになったはずだと言っている。改憲派の罵倒を浴びているが、素朴にその意見に賛成してよい。ロシアも、ウクライナも、憲法に9条の原則の明記があれば、戦争になる前に、国民が9条守れと言い、議論になり、戦争以外の方法で問題解決できないかという方向に政府を動機づけただろう。 ■今年のマスコミの世論調査では、例年になく憲法改正に賛成の声が多く、9条改憲に同意する数字が高くなっている。ウクライナ戦争の報道で、改憲派の論者ばかりが登場して、武力を持ってないと攻められるとか、平和を守るために軍事力が必要だとか、その種の主張を喚きまくったものだから、必然的にこの結果になったのだろう。政治家だけでなく、松原耕二のようなマスコミの人間が9条改憲に舵を切る論調と態度になっていて、「放送の中立」の座標軸を改憲派に合わせている。影響が出ないわけがない。 その状況を見て焦燥する気分にならないわけではないが、一方の感覚として、世論がどうなろうが自分の護憲派の立場は不動だという達観のようなものがある。以前とは違う、雲烟過眼の醒めた心境に向かう。その原因と正体は何かというと、要するに、残りの人生の時間意識であり、健康寿命の刻限まであと8年ほどだという自覚だ。じたばたしても10年もない。あと8年の健康寿命なのに、何で今さら護憲派の立ち位置を変える必要があるだろう。世間は勝手に動くがいい。自分は少数派に踏み止まり、戦後民主主義の土に還る。… … …(記事全文3,412文字)