━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 板垣英憲(いたがきえいけん)情報局 ~マスコミに出ない政治経済の裏話~ 2021年11月21日 ◆─── - - - - - - - - ───◆ 世界の政治・軍事・経済・金融を支配するパワーエリートの動きやその底流で 行われている様々な仕掛けなどを中心に、重要情報(特ダネ)をキャッチして速 報する。 政治評論家 板垣英憲 ◆─── - - - - - - - - ───◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆「猶太思想及運動」〈下〉四王天延孝陸軍中将著 附録第一 支那猶太の悲劇 (米國猶太雑誌所載)―3 ─────────────────────────────────── 前回からのつづき https://foomii.com/00018/2021112007000087615 千六百四十二年開封の支那猶太人等には突発的の事件が起って、それから猶太人等が別のグループを造って居ることを打壊す運動のスピードが増すことになった。印ち暴徒が起って開封を攻囲した。暴徒の首領李ツーチエンに開封を攻略せられない為に、守者は市街に氾濫を設けた。猶太寺院と其の聖書は破壊され、多数の猶太人及支那人は死んだ。猶太人等は開封(かいほう)附近の町へ逃れた。十年を経て猶太人の支那官吏チヤオ・イン・チェンが市街復旧の為に派遣され、猶太寺院を再建し、以前の通り開封に戻る様猶太人を説き伏せた。それで猶太人は助け得た聖書や宗教本を持って帰つて来た。併(しか)し取返しの出来ない損害が與ヘられて仕舞った。猶太団体に属する子供達は十年にも亙つて宗教教育を受けられず、猶太教の教理を書いた本は無くなり、共同墓地は水で洗ひ去られて仕舞った。 シンシナチのヘブリウ・ユニオン・カレージ圖(図)書館にある書類を見ると、ズツト以前から如何に廣く猶太人が支那住民と雑婚したかが判る。各方面から非難攻撃され、弱められた猶太団体は最早圧倒的に迫って来る脅威に對向する力は無くなった。年寄り株の連中が死んで仕舞ふと、過去との繋がりが共に死滅した。それでも猶太人は割割礼の儀式丈は保存し陰茎に手術を施すことはやって彼等の間に識別出来る様にした。尚豚を食はない事もやって居たが、宴會の儀礼は全く忘れて仕舞った。十世紀の始めに最後の猶太僧侶が死亡し、団体は精紳的指導者を失ひ、ヘブライ語に親しむものが一人も無くなった。 其の内に支那猶太と連絡を取る試みは幾度びも企てられた。千七百六十年、倫敦(ロンドン)の葡國猶太人が開封に居る同胞に手紙を出した處、支那語とヘブライ語で書いた返辭(へんじ)が来て、其を英語に譯(訳)した、が返辞の原文は紛失し、譯(訳)文に就ても何等傅(伝)つて居らぬ。オツキスフオードのケンニコツトは千七百六十九年に通信を開かうとした。オラフ・テイシェンは千八百七十七年と千七百七十九年とに、バタヴイヤの友人にやる手紙を開封の猶太民團(団)宛に送った。千八百十五年にもロンドンの猶太民團から一通の手紙を出した。その手紙は渡したけれども、使者は内乱が近着いて居るので返辭(へんじ)を待たずに立去ったことも傅へられて居る。唯一つ返事を得たのは千八百四十四年ジェームス・フイン氏の送つたもの丈である。千八百七十年になって非常に遅れて返辭(へんじ)が来たが、それは猶太民團(団)生活上の苦闘に就ての悲むべき記事であって、永久に忘却すべく運命附けられたに過ぎない。… … …(記事全文3,545文字)
板垣英憲(いたがきえいけん)情報局 ~マスコミに出ない政治経済の裏話~
板垣英憲(政治評論家)