━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 板垣英憲(いたがきえいけん)情報局 ~マスコミに出ない政治経済の裏話~ 2021年11月14日 ◆─── - - - - - - - - ───◆ 世界の政治・軍事・経済・金融を支配するパワーエリートの動きやその底流で 行われている様々な仕掛けなどを中心に、重要情報(特ダネ)をキャッチして速 報する。 政治評論家 板垣英憲 ◆─── - - - - - - - - ───◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆「猶太思想及運動」〈下〉四王天延孝陸軍中将著 附録第一 支那猶太の悲劇 (米國猶太雑誌所載)―1 ─────────────────────────────────── 不可思議な猶太の歴史は素ばらしい何章かを持って居るが、支那猶太の歴史の如く興味あるものは稀である。ウォルター、フックス氏は指摘した。之は世界歴史の中で最も奇妙なものの一つであって、英國の中にインカス二千年来の殖民地があり、諾威(ノルウェー)の中にアラビヤの殖民地があるよりも驚くべきことである。 支那猶太の起原又は最初の歴史に就ては確定的の史實は知られて居らぬ。併(しか)し度重る研究、周到な調査は吾人に大体の輪廓を與(あた)ヘて居る。ソロモン王時代に猶太の事は既に支那に知られて居ると云ふ事は信じて善い理由がある。其の頃既に猶太人は極東の凡ての有名な港に船を出して居る。そして其の往復には三年かゝつたものもあるので、相当長い距離を航行したことが明かである。猶太民族がバビロニア〔註 波斯即イラン附近〕の捕虜になって居る間に、バビロニア人から支那のことを聞き知つたらしい。それでバビロニア人と共に、既に判って居る陸路を通り中央亜細亜経由で駱駝(ラクダ)隊を支那に送つた。支那との通商は甚だ利盆があったので、多数の猶太人が自然と支那に定住する様になつた。 第二のイザヤが猶太人が捕虜からゼルサレムヘ帰へることを預言した時に次の如く述べた。"見よ或者は遠方から來る、見よ或者は北からと西から而(しかし)て或者はシニムの國から来る"研究権威者の説は此のシニムと云ふのが支那を言ふのだと云ふことに一致を見て居る。 之に由て見るも支那はバイブル時代から猶太に知られて居った。假令(たとい)猶太人が右イザヤの頃既に支那に居住して居なかったにしろ、居住すべきことがイザヤには預想せられて居たことは明である。併し實際に支那に其頃入り込むだことも明である。なぜならば歴史を語る石碑の一つには猶太人が周時代に支那に這入ったと記録されて居る。周朝はキリスト紀元前千二百二十年から同二百二十年に至る九百年間続いたのであってバビロニアの虜はれ時代が其の間になるのである。支那人が希職人、羅馬人と絹の貿易をした時に、支那人自らが國外に出て商売をしたと云ふ証拠は上りそうにもない。凡ての事實は西方の仲介者に依って貿易が行はれたことを信じさせるのであって、支那の書き物によると或る程度ではあるが、右仲介者中に猶太人があることを示して居る。 又多くの権威者の説は猶太人が支那に這入ったのは種々のグループで、種々な時代に於てしたのだと云ふことを認めて居る。其内の最も早いのが前述べた所の時代である。其後猶太移民は漢の「ミン」帝の統治中にやって来た(漢は基督紀元前二百〇五年から紀元二百二十年迄で、「ミン」帝は紀元五十八年から七十五年迄)千九百年發行の"支那猶太"著者アドラー氏は紀元三十四年の後で直き に他の猶太移民が来たこと及び其の頃はバビロニヤで多数の猶太人が惨殺されたことを引証して居る。又歴史家グレーツは紀元二百三十一年頃、波斯(ペルシャ)の猶太迫害の結果多数の猶太人が支那に来たと言って居る。チヤヴエンネス教授は紀元九百六十年と千百二十六年の間に別の措太の殖民が印度から支那に来たと考へて居る。グレーツは其の殖民団は船で来たので、陸路では無いと強調して居る。エルカン、アドラーは興味ある文献を提供し次の如く書いて居る。 "ボカラ猶太は彼等自身其の祖先が波斯(ペルシャ)の種々な地方に居住し殊にメシエツドから二日行程のザブザワーと云ふ所に住(すま)つてゐた。そして千二百二十年征服者成吉斯汗(チンギスハン)の下に其處(そこ)からバルクーとサマルカンドに移住した。而(しかし)てサマルカンドがバビ、メヘメット、カンの下に千五百九十八年滅亡させられた時に、猶太人等がボカラに赴いてそこの猶太殖民地に落付いた。其の内の若干がそれから支那のチェーン、パッチェーンに移民したが、間も無く母國と交通を断つた、併し系圖(図)書は自身に持って行って居る。… … …(記事全文4,078文字)
板垣英憲(いたがきえいけん)情報局 ~マスコミに出ない政治経済の裏話~
板垣英憲(政治評論家)