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天木直人のメールマガジン ― 反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説

天木直人(元外交官・作家)

天木直人

私と一緒に物語をつくって世の中を変えよう
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□■□■【反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説】 ■□■ □■ 天木直人のメールマガジン20141年6月25日特別号 ■   ==============================================================   私と一緒に物語をつくって世の中を変えよう  ==============================================================  いくら政治的なメッセ―ジを書き続けても、このままでは世の中を変える事は出来ない。  そう思って私は入院中に短編小説集を七編書いて一冊の本にして世に問う事にした。  しかし、私は考えを変えた。  その原稿をひとつひとつ読者に私のこの有料メルマガで配信し、読者と一緒にそれを完成させようと考えた。  一編は短いもので5000字、長いもので3万字ほどだ。  うまくいくかどうかわからないが以下に張りつけて送るので、関心のある読者は一読しご意見をお聞かせ願いたい。  もしうまく配信出来なければ、配信会社を通じ、あらたに配信する事を考えたい。  最初に送るのは、中東和平をテーマにした近未来小説である。  この物語を書いた時点では、今日のイラク情勢はまったく考えられなかったが、こうしてイラクの混乱が起きた事を考えると、まさしくイラク情勢の解決策は、米国がこれまでの中東政策の誤りを認め、正しい中東政策を行うしかない事がわかる。  果たしてこの物語が現実となって米国がその誤りを正すようになるのだろうか。  ぜひ一読のうえ、ご意見をお聞かせ願いたい。  以下 作品紹介  手塚治虫の膨大なすばらしいマンガ作品のなかで、「きりひと讃歌」という作品があるのを読者はご存じだろうか。  私はこの作品が好きだ。  主人公が仕事の旅先で事件に巻き込まれ、突然外部から一切の連絡を絶たれる。  ひと言、自分はまだここで生きているんだと教えたいが、それが100%できない。  そんな絶望的な状況に自分が投げ込まれたらどうしようと不安に思って夢中で読み進めた記憶がある。  しかし、私があの作品で強烈な感動を覚えたのは、過去にきっぱりと決別し、自分をそのような状況に置いた不条理に向かって敢然と戦う主人公の姿であった。  それよりも私の欲情をとらえたのが、その主人公と、未知の土地で助けてくれたその村の謎の美少女との出会いと愛である。  思春期にさしかかった私は、なんとも言えない性的興奮を覚えたものだ。  これから始まるお話もそういう話である。  読者が、主人公や登場人物の数々を、どういう役者に演じさせたいか、あれこれ浮かべて読み進むようになれば、作者として大成功だ。  もちろん、その役をあなた自身が演じてもよい。    アマル  その日の朝、ケンシローはいつものように、けたたましい目覚まし時計の音に起こされ、寝ぼけ眼で出勤の支度をしていた。  月曜日の朝はとくにおっくうだ。  洗顔もそこそこに、焼きたてのトースト一枚を口にくわえ、シャツに腕を通しながらカーテンをあけて新宿の高層ビルから昇る太陽に目を細めた。  「きょうも暑くなりそうだなあ・・・」  その年は、季節はずれの早い夏がやってこようとしていた。  島健志郎。日本で有数の総合商社「大和商事」入社8年目の商社マンである。  職場は新宿から地下鉄を乗り継いで10数分ほどの東京駅の近くに新たに建てられた本社の大部屋だ。  最近の東京駅界隈の再開発はめざましいものがある。  首都移転が叫ばれて久しいのに、そして近年これだけ大災害の危険が叫ばれているのに、地方分権どころか、人も権力もどんどん東京に集中するのはどうしたことか。  技術と欲望にまかせ、こんなに深く、こんなに激しく、地球を掘り返して大丈夫なのか。  悲鳴が聞こえるようだ。  こんなに高くビルを林立させていいのか。  まるでバベルの塔のようだ。  どこにいても自由に連絡できるIT時代であるというのに。  日本はこれだけ美しく、豊かな自然が、全国にあまた存在し、おいでよ、みんな帰って来いよ、と呼んでいるというのに。  その声が聞こえないのだろうか。  日本はいつまでたっても、国家権力と金融資本が、自分たちに都合のいいように決める国に違いない。  そして、それに黙ってつき従う従順な国民の群で出来上がっている国に違いない。  海外プラント事業部の大部屋の末端に、ケンシローの机はある。  「おはようございます」  お茶を運んで来てくれた女子職員が教えてくれた。  「さっき部長からお呼びの電話があったわ」  「課長が急いで行ったわ」  駆けつけて見ると、すでに部長の前で課長が神妙な顔をして聞いている。  「ああ、島君、ちょうどいいところへ来た。詳しいことはすべて課長に伝えてあるから後で聞いてくれ。久々に大型プロジェクトを受注したんだ。さっそく来週には君にも中東に飛んでもらう」  そう言い終えて部長は時計に目をやり、「おお、もうすぐ役員会が始まれる」と言って、用件はこれで終わりだと、に二人に退室を命じた。  後で課長から聞かされた話はこうだ。  欧州事業本部から、サウジアラビア王国が発注していた大型海水淡水化事業を落札したとの吉報が入った。  サウジアラビア王国によれば、なんでも来年の夏までに是非とも完成させなければいけない納期が迫っていて、確実にその納期までに完成させる事が絶対条件ということで、当社に有利に働いたという。  サウジの王様のことだからカネはいくらでも出すという。  本来はそんな短い納期などでは、どんなに金を積まれても無理なのだが、主要な工事はフランスの大手ゼネコンがあらかた終えていて、それを買い取った後、重要な部分が未完成のまま放置されていた。  そこを完成させて納期までに納めることができれば、工事代金の全額を支払う。是非大和商事にお願いしたい、という。  こんなうまい話はない。  ケンシローが呼ばれたのには理由がある。  サウジアラビア王国が重視しているプラントのコントロール部分、つまりシステム全体を起動、制御するブラックボックスの部分が決定的に重要で、それを要求通りつくれる精緻な技術を持っているのが「大和商事」だという事を知っていたのだ。    そしてその開発にケンシローは重要な役割を果たしていた。  ケンシローは普段は営業部の凡庸なセールス担当である。  しかし彼は大学で純粋理論数学を選考し、首席で卒業したほどの頭を持ちながら、これ以上大学に残って研究するのはまっぴらごめんだと、海外に自由に行けそうなチャンスのある商社マンを選んだ、いいかげんな男だ。  しかしその頭脳は大和商事で思いがけなく活かされることになる。  特殊技能開発・研究部の隠れスタッフとして営業のかたわら無給でこき使われていたのだ。  それがケンシローの人生の運命を変えるとはもちろんケンシローは知る由もなかった。  それから一週間後、ケンシローはレバノンの首都べイルートめざし、ドバイ経由で飛び立った。  課長はパリの欧州総支局で出打ち合わせたのち、別の便で遅れで来る事になっていて、それまでにケンシローがホテルの準備や翌日からの交渉の段どりを整えることになっていた。  5月のベイルート。  それはレバノンでは一年で一番いい季節だ。  日によっては冬と夏をわずか1時間ほどの違いで味わえる、世界でもたぐいまれな観光地である。  すなわち、標高3000メートルを越えるレバノン山脈は年によっては夏でも雪が残る時があり、スキーを楽しむことができる。  その一方で、1時間ほど車をとばしてベイルートまで降りてくると、そこには太陽が降り注ぐ地中海の真夏の海が広がっている。    ベッカー高原でとれるワインも格別だ。  ベイルートの風光明媚さを「中東のパリ」とか、「中東の真珠」とたとえて呼ばれるゆえんである。  実際のところ、レバノンが内戦に次ぐ内戦で今日にような危険な国になる前は、ベイルートは世界の社交場だった。  地中海に面したサン・ジョルジュ・ホテルのロビーには、世界から集まってくる、ハリウッドスターから、芸術家、一流ジャーナリスト、さらにはスパイ、大物指名手配者まで、あらゆる著名人が、肩をぶつけながら行き交っていたという。  ドバイを飛び立った飛行機は、7時間ほどでベイルートの上空にさしかかった。  空からみるベイルートの景色は印象的だ。    パリやローマの町並みを彷彿させる豪華な店やレストラン、ホテルが集まっているそばに、爆撃や銃弾で破壊され、葬りさられたがれきの山がそのままの形で放置されている。  モスクとコバルトブルーの地中海の青さが、やけに美しく、悲しい。  荷物を取り出して検閲のゲートを出たら、そこに名札を持った褐色で長い黒髪の女性が笑顔で待っていた。  光によってその色が緑や青や灰色に微妙に変わる瞳がケンシローの心をとらえた。  中東の男女は美男美女と相場は決まっている。  とくにレバノンの女性は、ハリウッドスターのジョージ・クルーニーの新たな恋人である人権派女性弁護士がそうであるように、聡明でとびきりの美人が多い。  アンジェリーナと名乗るこの娘も例外ではない。  「おつかれさま。ホテルのチェックインまでまだ時間があるのでしばらく街を案内するわ。ベイルートは初めてでしょう?」  そう言ってアンジェリーナは有無をいわさずケンシローの手を引いて、待ちかまえていた古い、ヘビーデユーティのランドクルーザーにケンシローを乗せた。  鋭い目をした毛深い精悍な男が運転手だった。  まるでケンシローを煙にまくように、街中を迷路のようにを走り回った後、ホテルで素早くチェックインをすませるや、アンジェリーナはこう言って立ち去った。  「このあと会社の若い娘がくるから、後はその娘の言うとおりにすればすべてが予定通りに進むことになっているわ。交渉は明日の午前十時からこのホテルでよ。私の担当はここまでよ。後はその娘の仕事になるので、私はここでおわかれ。今度いつ会えるかわからないけど、それまでお元気でね。交渉の成功を祈るわ」  その素早さが妙に気にかかった。  ケンシローは部屋のベッドに横たわったまま、何も考えずにぼんやり天井を見つめていたが、やがてまもなく眠り込んでしまった。  若いとはいえ、やはり異国の長旅は疲れた。  それに、無事にホテルについて、明日の準備ができそうだという安心がケンシローの心をゆるませた。  どれくらいたったろう。    ベルに起こされたケンシローは、時計をみて、まだ小一時間ほどしか経っていないことに気がついた。  アンジェリーナの言うとおり、相手先から派遣されたと思える若いビジネススーツに身を包んだ女性が現れ、てきぱきと明日の段取りを教えてくれた。  打ち合わせが終わった頃には、夕陽がホテルの広い豪華なロビーに長く差し込んでいた。  その日の夜おそく課長がホテルについた。  ケンシローをロビーのバーに呼び出した課長は、ウイスキーをオンザロックで飲み干した後、ケンシローをねぎらった。  「ごくろうさん。ところでいい娘は見つけたか。おもしろい場所は探しておいたか。今夜はおごるから・・・」  そうからかった後、「冗談だよ。明日は話を早くまとめてすぐ帰ってこい、あらかじめ交渉は本部ですませてあるから、おまえは契約書に署名して持って帰って来るだけでいい、だってさ。まったく人使いがあらい会社だよ。もっとも出張旅費の無駄づかいをしなくて小遣いがたまるからそれはそれでいいんだが・・・」  課長は善良な日本のサラリーマンの典型のような憎めない男であった。  翌日交渉が無事終わり、契約書を持って課長が日本へ飛び立った夜、ホテルでは盛大な歓迎パーティが開かれた。  ケンシローは大和商事の代表としてそのパーティの主賓としておおわらわだった。  もっとも、歓迎パーティと言っても、社交好きのレバノン人のことだ。  その名を借りた現地の著名人や著名企業の、情報交換をかねた社交が目当てだ。  世界一社交の好きなレバノン人はパーティとなると皆が出かけていき、そこで人とのコネをつくり、情報を持ち合って儲けをたくらむ。  あわよくばその夜の相手を見つける。  男も女も、妻や夫や恋人がいても。  知り合いのいない心細さにケンシローはアンジェリーナの事を思い出して会場をくまなく探したが、どこにも見つけることはできなかった。  そんな社交の雰囲気に、日本の大和商事を代表して一人放り込まれ、すっかり飲み過ぎたケンシローは、翌日の出発が早いことを思い出して、パーティを切り上げて部屋へもどろうとした。    飲み過ぎのせいで、パーティ会場を出たとたん急に気分が悪くなり、エレベーターの後ろにあるトイレに駆け込んだ。  その時、ケンシローの人生を大きく変える運命的な事件にケンシローは巻き込まれることになる。    洗面台に覆い被さるやいなや、食べたもの一斉に吐き出したケンシローは、一息ついて顔を洗って体を起こそうとした。  そのとき後ろから強い衝撃を受け、ケンシローは暗闇の底に突き落とされた。  どれくらい時間がたっただろう。  気がついたら、ケンシローは、廃墟の中の薄暗い部屋に寝かされていた。  まわりには髭をはやし、迷彩服を着た覆面の男たちが複数いる。  その中には、飛行場で出迎えに来た車の運転手もいた。  やっと落ち着いてまわりを見渡せば、なんとそこにアンジェリーナの姿があった。  すべてに合点が行った。  取引先の社員を装ったアンジェリーナたちは、はじめからケンシローを拉致し、みずからの武装抵抗組織の戦いに利用しようとしていたのだ。  筆頭格と思われる白い宗教服の男が静かに口を開いた。  ハッサン師と皆があがめたてるこの組織の長である。  彼は顔を隠さず、武器も持たず、きれいに洗濯された白く、長い服にすっぽり身を包んでいた。  手には数珠を持ち、たえず片手の指でそれを巧みにもみながら、話し出した。  「私たちの戦いは、いま最後の絶望的な段階にさしかかっている。 どんなに正義のために戦ってきても、巨大で不条理な国家ぐるみの暴力には勝てなかった。 しかし滅びる前に彼らに教えなくてはいけない。その暴力が、結局は彼ら自らを滅ぼすことになることを。しかも人類をすべて巻き込む悲劇をこの地球上にもたらすことになることを。それは神をおそれぬ、おろかな人間のおごりの報いなのだ・・・」  ここでいう正義とはパレスチナ人の解放である。  ここでいう不条理とはイスラエルのパレスチナへの非人道的な弾圧と、それを誰もとめられない、とめようとしない、国際社会の不条理である。  そしていまそれに抵抗するイスラム武装抵抗組織が「テロ」という絶対悪にされて、この地球上から殲滅させられようとしている。  パレスチナ問題。  この解決不能と思われる、戦後の国際政治の最大で、最難問と思われる国際紛争の本質は、実は簡単である。  いまから2000年ほど前、国を失ったユダヤの民は世界の流浪者となって、行く先々で不当な差別を受け続けた。  その行き着く先がナチスのホロコーストだ。  もはや自らの祖国を持つことしか安寧はないと、持ち前の知恵と、カネと、情報力と政治力と、そして、それでも不十分だといわんばかりに暴力で、世界を動かし、1948年に今のイスラエル国家を建設した。  しかしそこには先住民のパレスチナ人が平和な生活を送っていた。  ともに仲良く共存すればよかったのに、そしてユダヤ人もパレスチナ人も、多くは共存をのぞみ、共存してきたのに、政治がそれを阻んだ。  イデオロギーと政治的指導者の野心が、平和を拒んだのだ。  世界に紛争が絶えないのは大抵がそうだ。  国民は常に平和を願っている。  世界の大国のエゴがその対立に拍車をかけるのだ。  そして強者の論理と軍事力と情報操作が、弱者のパレスチナの一方的犠牲の下で覆い隠され、問題を封じ込め、世界の良心に見えにくくしている。  それだけだ。  「これで恨みをどうかはらしてください」  親の不条理な死の復讐のために、娘が身を売ってためたカネで仕置き人に依頼する。  ドラマでは感動的な話だが、現実にそれが起きれば、これほど悲惨なことはない。  暴力は許されない。  暴力では問題は決して解決しない。  しかし、人を、少女を、子供を、赤ん坊を残した母親を、自爆に追い込む事こそ、真っ先に責められるべきではないのか。  しかも、今日の必殺仕置き人が手にする武器の行き着く先は、究極の大量破壊兵器、そう核兵器だ。  それは、核兵器をミサイルに積んで落とし合う核戦争のことではない。  核物質を爆発させて放射能で人類を滅ぼす、いわゆる汚い爆弾(ダーティ・ボム)だ。  放射線被曝のおそろしさを、我々は福島原発事故で目の当たりにした。  運転手役を務めていたアリと名乗る男が、いまは立派な聖戦士の一人になり、マスク越しにケンシローに向かってこう言った。  「おまえたちは腰抜けだ。ヒロシマ、ナガサキに原爆を落とされ、あれほど米国に人間性を奪われたというのに、文句ひとつ言わず、いまでは米国の手先となって弱いものいじめしている。俺たちは戦う。自分たちだけのためではない。悔しい思いをして死んでいった世界の弱者のために喜んで戦う。  おまえたちはいかさまだ。神風特攻隊をいまでも美化する。しかし彼らは泣きながら為政者に命じられて死んでいった。俺たちは違う。みな喜んで死んでいく。弱いものを助けよという神の声に従って。そこに何のおそれも、ためらいもない。  おまえたちは言うだろう。核兵器を使うのは悪魔の所業だと。その通りだ。しかしその核兵器を作ったのは誰だ。それを人間に使ったのは誰だ。不必要だったのに人体実験としてつかった奴はだれだ。抑止力と称して独占し続け、差別的に使ってきたのは誰か。それを許し、荷担してきた国は被爆国である日本じゃないか。平和国家などと偽善面するんじゃない。我々は核爆弾を手にしたら、何のためらいもなく使う。そんな俺たちを非難する権利は誰にもない。もちろん、唯一の被爆国を売り物にする日本も・・・」  読者は、パレスチナ問題なんて難しい。国際政治なんて学者や外務官僚にまかせておけばいいと思っているかもしれな。  しかし違う。  パレスチナ問題の本質は簡単だ。  いや世界の紛争の本質は簡単だ。  争いは世の中になくならない。  どちらが悪いか正しいかは結論は出ない。誰もわからない。  それを無理に決めつけようとすれば、争いはますます激しくなる。  ましてや力で答えを出そうとすればなおさらだ。    そして力では強い奴がいつも勝つ。  しかも理不尽な形で。  それでは争いはなくならない。  重要なことは、争いを本当の戦争に発展させないことだ。  この世の中は矛盾だらけだ。  その矛盾と共存し、ともによい結果になる方法を見つける努力をする。  それが共存だ、それしかない。ただそれだけだ。  それを妨げているのは、エゴであり、利権であり、野心や保身や見栄だ。  それをかなぐり捨てれば解決しないはずがない。  人間はそれができない悲しい存在であるのだけれど・・・  こうしてケンシローのイスラム武装抵抗組織との緊張した、生き残りをかけた生活が始まるのであった。  ケンシローに期待された任務はただ一つ。  イスラム武装抵抗組織が実用化にこぎ着けた、小型核放射性物質を爆発させる特殊発火装置の完成だ。  誰もまだつくったことない。  ケンシローの他にだれもつくれないし、操縦できない。  あの、世界最強のイスラエルの秘密情報工作機関であるモサドでさえ見抜けない。  そんな装置の完成こそ、ケンシローに期待されていたのだ。  外部からの操作では決して動かない。  いかなる操作妨害も受けない。  武装組織だけが意のままに動かせ、間違って外部の手に渡っても誰も解読できない。操作できない。  爆破しても作動しない。  言い換えれば、それを作動させることができる者だけが作動させられる。  爆破はもちろんできる。  しかし作動して臨界状況におかなければ核爆発しない。  単なる放射線の散乱では人類は破滅しない。    不条理が不条理のままに終わり、イスラムの正義の実現が叶わずに絶滅させられるのなら、もろともに人類を破滅に道ずれにする。そのときこそ作動させる。究極の核兵器になるはずのものを彼らはつくろうとしていた。そしてケンシローの手を借りてそれを完成しようとしていた。その開発の最終段階にあった。究極の核自爆テロである。  これが完成した時はじめて、イスラム武装抵抗組織は世界で最強の立場に置かれることになるのだ。  それを察知したイスラエルが、その前にイスラム武装抵抗組織を、今度こそ皆殺しにして地球上から葬りさろうとしていた。  どちらが生き残れるか。その鍵をケンシローが握ることになる。  その最終戦の時期を、イスラエルは長くてもここ三ヶ月以内と決めていた。  ケンシローの任務は遅くともそれまでにブラックボックスを完成させなければならなかった。  ケンシローの消息が消えた時、もちろん大和産業は大衝撃を受け大騒ぎになった。  ケンシローの心配より、目の前にぶらさがっていた数百億円の莫大な商談が水泡に帰すからだ。  サウジアラビア王国との信頼関係が壊れ、今後のビジネスに大打撃を受けるからだ。  大和産業から極秘の一報を受けた日本政府もまた大衝撃を受けた。  日本の民間人がテロの犠牲になり、その原因が日本外交の失敗だということになれば、時の政権の責任問題に発展する。  だから、大和商事も日本政府も、曖昧にしたまま、こっそりと解決しようとする。  解決できそうもなければ、真相を隠したまま、風化させ、国民が忘れるようにし向ける。  これまで日本で起きた不可解で、未解決の事件の多くは、そういうものが少なからずあるのである。  自分で独自の情報をさぐって国民に教えるという本来の仕事を忘れ、政府に追従して、安易に政府の発表する情報をたれ流すメディアも、 だから今度のケンシローの消息不明事件を、単なる旅行中の邦人の行方不明か?、といった小さな記事で終わりにし、従ってケンシローのことは、すっかり忘れ去られてしまった。  ケンシローは、イスラム武装抵抗組織に協力する振りをしながら、必死で無事に脱出できる方策を考えていた。  その時のケンシローは、イスラム武装抵抗組織の主張に納得できず、従ってまた協力する気もなく、なんとか抜け出して、大和産業のことなどもはやどうでもよかったが、無事日本に帰りたかった。  なんとか毎日、必死になって脱出方法を見いだそうとしていた。  しかしその方法を見つけるのは至難の業であった。  なにしろイスラム武装抵抗組織が最後の戦いを勝つために、すべてを投げ打って成功させようとしている計画だ。  その動きが外部に漏れないために、あらゆる手段を二重にも三重にもはりめぐらし、少しでも裏切る様子を察知されれば、たちどころに処刑される。  こうしてケンシローは出口がまったくみえない閉塞の生活を強いられる中でいつしかイスラム武装抵抗組織の大義に同情的になりつつあった。  そして、それは、必ずしも、閉塞状態に長く置かれた故の「洗脳」のためだけではない。  それまで何の知識も関心もなかったパレスチナ問題について少しずつ、本当のことが見えてきたのだ。  その影響を与えたのはあのアンジェリーナであった。  アンジェリーナと再び会った時から、ケンシローは彼女に、はじめて飛行場で出会った時の愛やその魅力を、もはや持てなかった。  それはそうだろう。  だましたのだ。  そしてケンシローをかくも過酷な運命に突き落としたのだ。  しかも、つねに戦闘服のアンジェリーナは、緊張感を片時も失わず、ケンシローに接する時も、いささかの媚びを売るようなしぐさは見せなかった。  話すことといえば、いかにイスラエルのパレスチナ人に対する政策が理不尽で非人道的であるかということばかりだ。  はじめは正直言ってケンシローは、多くの日本の国民がそうであるように、パレスチナ問題にはほとんど関心なく、無知だった。  せいぜい、どちらも悪い、自爆テロを続けて無辜の人を巻き込むイスラム過激派は許せない、という思いで、遠い世界の出来事だ、と突き放してみてきた。  しかし、アンジェリーナの語るパレスチナ問題はまったく違った。  話を聞くにつけ、そして絶対的弱者が絶対的強者に一方的にいじめられ、しかも非人道的なやり方で弾圧され、それを皆が黙ってみている、そういう状況が、パレスチナの地にイスラエルが建国されて以来、一瞬たりともやむことなく数十年以上も続いている。しかも状況は悪くなる一方だ。それをケンシローは知ったのだ。    知らずにいたらよかった。  しかし知ってしまった。    知っても知らない顔をしてやりすごせばなんとか生き延びる道はあったかも知れない。  しかしケンシローは知ってしまった。  ほかの人はどうであれ、ケンシローは見逃すことはできなかった。  弱いものいじめ。  ケンシローがもっとも許せないことだ。  それでも、しかし、ケンシローの葛藤は続く。  その葛藤は、イスラム武装抵抗組織の大義に殉じるべきかという大義と、同時に、自分の為に生き延びるかという、ケンシローにとっては、より個人的な、しかし、やはり等しく大きな価値との、葛藤になって行くのだった。  そうした毎日が続き、拉致されてから一ヶ月ほど過ぎ、ケンシローの作業もめどが立ちつつあった時、ケンシローは一大決心をする。  究極のブラックボックス完成の約束の期日まで、まだ少し余裕はある。  ケンシローは大きな賭に出た。  日本に生きて帰りろう。  そしてもとの平凡な生活にもどろう。  いまの俺は夢を見ているのだ。  しかも、とんでもない悪夢を。  イスラム武装抵抗組織か、なんだか知らないが、こいつらは悪だ。  人類の平和とか、正義なんか、俺には関係ない。  そう自らに言い聞かせて、ハッサン師に会わせろとケンシローは要求した。  そこでケンシローは次のような取引を持ちかけた。  「私はパレスチナの解放という大義に賛同できる。これは本心だ。しかしその大義を実現するためにも、最後の自爆テロの前に、できればそれをしなくてすむ正しい解決を目指すべきだ。おれをここから出してくれ。必ずパレスチナのために世界を動かす。さもなければ俺を殺せ。しかしブラックボックスは完成しないまま終わることになる。俺がいなくなれば誰も作れなくなる。作戦は遂行できず、イスラム武装抵抗組織は、世界に散らばっている仲間ともども、抵抗できないまま、根こそぎ永久に地球上から抹殺される。それでいいのか。もし俺が世界を説得できなければ、そのときは核自爆を行って世界を道連れにすればいい。そのときは俺は同志になって核自爆に協力する。被爆を唯一体験した日本人のおれが核自爆に協力するのだ。その意味がどれほど重いかわかるだろう。どっちに転んでもおまえたちは破滅だ。しかし万が一俺が成功すれば、おまえたちの勝ちだ。滅びる前にイスラムの正義を実現できる。決して損のないディール(取引)ではないか・・・」  見事な賭けである。  黙って聞いていたハッサン師は、ケンシローが話終わったあともしばらく沈黙していたが、やがてケンシローの目を直視して次のように言い渡した。  「いいだろう。三日間の猶予を与える。何をしてもいい。しかし、もし約束の時刻に、おまえの言った通りの成果を持ってここに戻ってこなけば、アンジェリーナの命はない。そして、もしおまえが脱出中にパレスチナの大義を裏切ることになれば、核爆弾がなくても、俺たちは最後のインテファーダ(抵抗)を決行して世界を大惨事に突き落とす。その責任はお前にある。我々ではない」  ハッサン師らしい。  すべての事態を想定している。  最悪の事態さえも。  もちろんケンシローの思いつきの必死の賭にも一縷の望みを託している。  これまでのハッサン師であったならば、このいうな、ケンシローのとっさの思いつきの脅しは絶対に通用しなかった。  しかし、イスラエルの最後のテロ殲滅作戦の本気度を知っていたハッサン師は、今度こそ事態は、自分たちイスラム武装抵抗組織にとって深刻なものになると覚悟していたいた。  イスラエルは本気だと。  だから生き延びる為には、自分たちはあらゆる手段を使う必要があると決めていた。  ハッサン師は、ケンシローの言ったことを冷静に認め、しばらく沈思した後、ケンシローの思いつきの賭けに賭ける事にしたのだ。  ここまでアラーの神の教えを信じて多くの若者に聖戦(ジハード)の犠牲を強いて来て、それでもイスラムの正義を貫けない、罪のないパレスチナ人ひとり救えないならば、アラーの神を見捨てて最後の闘いを自らの死に場所にしよう、ハッサン師は、すでにそのときそう覚悟しつつあった。  「日本からきた客人よ。私のこれまでやってきたすべてをおまえの賭に賭ける。勝って見ろ 勝ってくれ。お前のために。そしてアラブの正義のために」  ハッサン師は、ケンシローの平和を求める思いに託した。    ここに至るまでにハッサン師は、すべてを犠牲にしてきた。  愛する妻も、すべての息子も、そしてなにより無数の若者たちを、犠牲にしてきた。  最後はイスラエルのミサイルや砲弾に倒れる。  パレスチンの正義、アラブの正義が実現されても、されなくても死ぬ。  しかも壮絶な死に方で。  それが、みずから追いやった数しれない多数の殉教者への償いである、と。  しかし、アラーの神に誓ってハッサン師を代弁すれば、ハッサン師のその生き方には、いささかの私心や下心はなかった。  アラブのあらゆる指導者はもとより、世界のすべての指導者が、私心とエゴと強欲の固まりであるというのに。  こうして、ケンシローは、自分の言った言葉から逃げることができなくなった。  日本に帰りたい一心で思いついたかけであったがこのハッサン師の言葉を聞いてケンシローはふるえた。    大げさに言えば、ケンシローの平和を願う賭けに、世界の永続的平和の実現か、あるいはまたそれとは逆に、人類の破滅かが賭かってきたと感じたのだ。  ケンシローが真っ先に向かったは、ベイルートのレバノン政府の近くにある日本大使館だった。  大使館についたケンシローは、詳しい事情は一切言わず、大和商事職員として無事生存していること、つまらない事で現地でトラブルにあい、大きな商談を失った責任を感じて辞職覚悟で逃げていたが、少なくとも生きていることを伝え本社にわびたい、そのメッセージを、日本大使館を通じて本社に伝達してもらいたい、取り次いでほしい、と領事に頼んだ。  ただでさえ不親切な日本大使館だ。  おまけに面倒な仕事からは一切逃げて、保身をはかることばかり考える。  そのような官僚の固まりのような公使が出てきて、やはりこれも保身のために、最終的には大使の責任で対応してもらおうと、ケンシローを伴って大河原在レバノン国日本国特命全権大使の部屋を訪れた。  公使から事情を聞いた大河原は、公使の判断を尊重しながら次のように言って引き下がらせた。  「公使の判断は正しい。中東情勢に関してはテロに関与するいかなる情報も、よほど慎重に確認して判断しない限り、日本の外交を見誤ることになる。保身的であるべきだ」  「しかし・・・」  大河原は続けた。  「その保身が人類の運命を左右する判断を奪うこともある。ここは私の判断に任せてくれ」  ケンシローと二人になった大河原は、名前を聞いた上で、何を日本大使館に求めているか、あらためてケンシローに確かめようと考えた。  そして島健志郎という名前を聞くや、大河原はとっさに次の質問をケンシローに発した。  「君は、もしかして島元海軍中将のお孫さんか?」  それはまったくの思いつきのテストであった。  島という名前を持つ日本人はごまんといる。  しかし、島中将は確かに実存の人物で、大河原大使は、大使の父を通して、存命中の島中将を少しだけ知っていた。  ケンシローがその孫の可能性などとは、思いつきも甚だしい。  しかしである。  万が一にも、ケンシローが「そうです」と即答し、祖父の事を詳しくしゃべりだすようなら、ケンシローは少なくとも本物である。  大河原の思いつきは見事に奏功した。  大河原大使の父は、やはり旧日本帝国の軍人で、島中将とは軍隊幹部学校の同期生だった。  そして海軍とはライバルの陸軍の出世頭で、陸軍大将や陸軍大臣を歴任した人物であった。  その大河原大使の父が、最後まで戦争回避を主張し続け、失意のうちに中枢からはずされていった島中将のことを高く評価していた。  島中将は軍人中の軍人だと大河原大使は父親からよく聞かせられたものだ。  そういえば、どことなく面影が残っている。  うっすらとした大河原の記憶の中で、島中将の勇姿がよみがえった。  しかしケンシローの話を確認するすべはなく、大和商事へのメッセージだけは伝えることを約束して、大河原はケンシローを帰した。  別れ際、想い出したようにケンシローを呼び止めた大河原は、ケンシローにパスポートの提示を求め、そこに何か走り書きをし、署名して、こう言いながら渡した。  「もしレバノンに戻る際、出国でトラブルが起きた時、これが役にたつかもしれない」  時間を寸分も無駄にはできない。  日本大使館を出たケンシローは、その足ですぐに今度はサウジアラビア大使館に向かった。  何としてでもサウジアラビア国王に直訴しなければいけないのだ。  その日、サウジアラビアの国王はベイルートにお忍びで来ていた。  レバノンのハマダン首相は、サウジアラビア国王が気を許した数少ないアラブの朋友で、彼を信頼してレバノンの世界的心臓外科医に定期検診にきていたのだ。  イスラム武装抵抗組織の情報網でそれをケンンシローは知っていた。    サウジアラビア大使館で門前払いを食わせられようとしたケンシローは、とっさに財布に入れて持ち歩いていた一枚の写真を撮りだして見せた。  汗に湿って汚れたその写真は、しかし、サウジアラビア国王(当時はまだ王子だったが)と、まだもっと若かった頃のケンシローが笑顔で握手している姿をはっきり見せていた。  私に会いたいときはこの写真を見せろ、そう王子に言われた事をケンシローは覚えていた。  サウジアラビア大使館の門衛の顔が一変した。  サウジアラビア大使に面会を許されたケンシローは理由を告げて、今夕までにひとめ国王に会えないかと懇請した。  その写真を見た大使は、国王がハムダン首相と夕食に出かける前の一瞬を利用して、挨拶はできるかもしれないと協力してくれた。  いまから国王の滞在している山岳の避暑用の別荘で待機するしかない。  そういって大使はベンツ1000の大使車にケンシローを乗せて車を急がせた。  キングファイサルアブドラ3世  「砂漠の獅子」と呼ばれた初代キングアブドラジーズ(別名イブン・サウド)の49人の異母兄弟の第二子である。  第一氏のサルタン2代国王が急逝し、三年前から、第三代サウジアラビア国王としてその地位にある。  「ファイサル国王様、日本から若者が表敬したいと参っております。いかがしましょう」  大使はケンシローの持参した写真を見せて、とてつもなく広い応接間で、支度をすませて迎の車を待っていたファイサル国王の返答を恐縮して待った。  その写真をみたファイサル国王は、威厳な表情をこころなしかなごませたように見えた。  「通せ」  こうして3年ぶりの劇的な再会を果たしたケンシローは、挨拶もそこそこに、思いをぶつけた。  いまから3年前、ケンシローは、まだファイサルが王子のころ、ファイサル王子が大和商事との大規模な油田開発契約で訪日し、そのときの通訳をまかされたことがあった。  付け焼き刃で学んだ文語体のアラビア語がさっぱり通じず、米国生活の長いファイサル王子に英語でいいよと言われた。  その英語も十分通じず、ファイサル王子を苦笑させたことがあったのだ。  そんなこともあって、ケンシローはファイサル王子に気にすっかり気に入られ、日本滞在中はお世話係として同行して各地を案内したことがあった。  写真はそのときの一枚である。  私に会いたいときはその写真をみせるがいい、とその時に言われたのだ。    「王様!パレスチナが大変なことになっています。イスラエルがまもなく掃討作戦を仕掛けてこようとしています。そうなればアラブ全体がハルマゲドン(大惨事)になります。イスラエルの暴挙を止められるのは米国しかありません。そしてその米国を動かせるのは世界最大の石油を持ち、イスラムの総本山であるメッカを抱えているサウジアラビアの王様、あなたしかいません」  ファイサル国王は初代イブン・サウドの直系であり、異母兄弟の兄サルタンが病弱であった後に、待望されて国王になった。  その指導力と人柄によって、いまサウジアラビア王国として、サウジアラビア国民はもとより、世界の指導者から尊敬と信頼を得つつあった。  文字通りサウジアラビア国王の地位にふさわしいアラブの盟主になろうとしていた。  静かに聞いていたファイサルは、豪華な王座をゆっくりまわし、ケンシローに背を向けるかたちで、砂漠に沈みゆく夕陽をみつめながらこう語った。  「日本から来た若者よ。いま、おまえだけに開かそう。お前がたった今私に語ったその通りの事を、私はサウジアラビアの国王になった時から、この三年間、ずっと考えていたのだ・・・」  時計は日本向け最終便出発の時刻が近づいていた。  サウジアラビア大使館を出たケンシローは、目の前を通りがかったボロタクシーに手を挙げて呼び止め、ポケットに残っていたリアル紙幣をすべて渡して、ベイルート空港めざして急がせた。  そして搭乗が終わりかけていた関西空港行きのエミレート便に倒れ込むように乗り込んだ。  飛行機が轟音をたてて急上昇した時は、すでにケンシローは深い寝息をたててシーツに沈み込んでいた。  それからおよそ10時間後、ケンシローは京都の実家で祖母タミと向かい合っていた。  ハッサン師の言葉を聞いた時から、ケンシローは、日本に帰る目的は祖母を訪れることだけになっていた。  「おばあちゃん、約束してくれよね。僕が結婚するときは、おばあちゃんが着た花嫁衣装をくれるって。それが必要になったんだ。いますぐほしいんだ。それを取りに帰ってきたんだ。ごめん、時間がないんだ。それをもってすぐ引き返さなければならないんだ。こんどは相手をつれてもっとゆっくりするから・・・」  タミがケンシローを最後に見送ったのは三年前にケンシローがサウジアラビアのファイサル王子を連れて京都を案内をしたときだった。  仕事が終わった夜おそく、時間を見つけて会いに来てくれたのだ。  タミは夫の島中将が死んでからは、ほとんど家を出ることなく、一人で静かに家を守る生活をしてきた。  息子は菅原道真の研究に没頭して九州に行ったきりだ。  一緒に住もうと息子に強く求められても、ここがいい、ここを出ない、とかたくなに言い張って、90すぎのきょうまで一人で凛と生きてきた。  久しぶりにあった孫なのに、そしてもう少し話をしたかったのに、タミはケンシローのその時の身なりとあわてぶりからすべてを察知し、タンスの奥に眠っていた、島中将に嫁いだ時に来た花嫁衣装をわたし、黙って見送った。  ケンシローがあわただしく去った後、タミは仏壇の夫に手をあわせこう語りかけた。  「おじいさん、約束どおり、ケンシローは平和を愛するたくましい大人に成長しました。これで私の役目はおわりました。よくやったとおそばに呼んでください・・・」  タミが眠るように死んでいたのを、近所のひとたちが発見したのは、ケンシローがあわただしく飛び立った翌朝であった。  ケンシローは急いだ。  実家を出て全力で走ればJRの最寄りの駅である円町まで約10分でつく。  そこから京都駅まで駅三つ。時間にして数分。  嵯峨野線は15分おきに走っているから、最悪のタイミングでも実家を飛び出してから30分ほどでつく。    タクシーで渋滞させられるより確実だ。  そして京都駅からJR特急はるかで関空に向かう。  これも車を借り上げて行くより計算できる。  パリ行きの全日空最終便には間に合う。  ドゴール空港でレバノン航空に乗り換えてベイルート入りする。  その日はそれが中東経由の最短ルートより早くつく。  約束の日時までに帰るにはそれしかない。  その組み合わせと、その行動しかなかったのだ。  しかし、ケンシローは家を飛び出して西大路通りに向かう路地で計算外の出来事に遭遇する。  小さな男の子が泣いていた。  かまってはいられない。  耳を塞いで一目散に走り抜けようとしたが、どうしてもそれができず、途中で引き返した。  聞けば、たったいま母親を見失って迷子になったという。  その界隈で育ったケンシローだから、その近辺は手に取るようにわかると思った。  その自信が災いした。  迷子になったばかりならなんとか見つけられる。  母親のゆく方向は限られている。  そう思って、母親が見つかりそうな場所を、男の子を片手に、花嫁衣装をもう一つの手に抱え、走りまわったが、界隈の様子が一変していた。  そういえばこのあたりは子供の時以来久しくこなかった。  まったく別の町に生まれ変わっていた。  まよった末に見つからず、結局、祖母とよく通った老舗のそば屋のおやじに後を託して、走り去らざるをえなかった。  途中で花嫁衣装をそば屋に置き忘れ、あわてて引き返したロスも致命的だった。  もはや一刻の猶予もゆるされない。  なんとかケンシローはパリ行きの全日空に間に合うように関空に到着できた。  幸い、最終便も予定どおり出発することになっている。  機内に乗り込めば思い切り飲むぞ、そう決めて搭乗口に急いだ。  その時、どこからともいなく、明らかに警察関係者らしき者が複数で近寄ってきて、搭乗口に向かう旅行客と見られるひとりひとりに、有無をいわせず、手荷物を取り上げようとしてきた。  パリに到着したらそこで引き渡されるという。  なんでも、あらたな法律が最近成立し、飛行場の警戒体制が強化されたという。  最近はこういうことがやたらに多くなった。  国民の知らないところで、どんどんとあらたな法律がつくられ、国民に十分知らせないままに、どんどんと実施され、国民の自由を奪っていく。  安全のためには、国民の基本的人権の一部が制約されてもやむえないというわけだ。  おまけに一人一人ボディチェックをすませなければ搭乗できないと、あとからあわてて搭乗口めがけて走ってくる数名と一緒に、ケンシローを別室につれて行こうとした。  今度こそ間に合わない。  パリに着けない。  乗客はみな文句を言って、もし乗り遅れるようであれば、そのことによって生じる様々な損害をどう損害賠償をしてくれるのか、などと詰め寄った。  しかし現場の政府職員に何を言っても通用しないことはみなが知っている。  自分たちに判断する裁量はない。  上から命じられたまま動くしかない。  そう繰り返すだけだ。  そして、「上からの命令」、つまり国家権力の命令は、どんなに理不尽でも常に絶対である。  ケンシローは、とっさにあのときの大河原大使の言葉を想い出した。  ケンシローはふところからパスポートを取り出して開いて、見せた。  「これを読んでください」  そこには大河原大使の筆跡でこう書かれていた。  「このパスポートを携行する者が日本を出入国する際は、あらゆる便宜を払われたし。 日本国特命全権大使大河原一郎」  特命全権大使とは、天皇陛下の認証を受けて日本政府の全権をゆだねられた人物である。  その権限は政府の上に立つ。  すべての公的機関にはその名前が通知、徹底されている。  大河原大使の名前も末端の職員まで知っていた。  知っていなければならない。  ケンシローは直ちに搭乗口に案内され、機中の人となった。  飛行機は、ケンシローを待っていたかのように、間もなく凄まじい爆音を響かせて夜空高く舞い上がった。  ケンシローがハッサン師と約束した時刻にかろうじて間に合う形でイスラム武装抵抗組織のアジトに戻った時には、アジトの雰囲気は一変し、以前よりもはるかに重苦しく、緊張した雰囲気に覆われていた。  イスラエルはイスラム武装抵抗組織全滅作戦を着々と進めており、しかもその時期を早めようとしていたのだ。  悲劇はもはや避けられない事態に向かっていた。  ハッサン師は、ケンシローの話を聞いてうなづくと、いつもと変わらず静かに話したが、その声は、重く、鋭く、あたかもケンシローを批判しているようだった。  「3日後に帰ってくるという約束は確かに果たした。しかし、もうひとつの約束はどうやら果たせなかったようだな」  それはケンシローを責めるというよりも、何もできないみずからの非力と悲運に腹を立てているかのように聞こえた。  イスラエルの最後のパレスチナ大掃討作戦は着々と進められていた。  その情報を、ハッサン師は世界中のイスラム同胞の情報網からつかんでいた。  しかし、そのハッサン師も、サウジアラビアの国王が動き出したことは夢にも知らなかった。  実は、ケンシローが国王を訪れた時、その2週間後にダラス米国大統領がサウジアラビアを公式訪問することが、決まっていたのだ。  断食祭(ラマダン)とならぶイスラムの恒例の最大の行事である巡礼(ハッジ)に敬意を表する形で訪れる米国とサウジアラビアの年中外交行事である。  誰も知るよしもなかったが、ファイサル国王は、ケンシローと別れたあと、みずから米国大統領とのホットラインをとって、こうダラス大統領に伝えていたのだ。  「大統領、今度の公式訪問の行事の間に、私と二人だけの、誰にも気づかれない時間を私にくれませんか。日没前ならいつでもかまいません。少しの時間で結構です。サウド家伝統の鷹狩りに案内したいのです」  本物の首脳同士の話は、話が早く、結論はすぐに出る。  サウジアラビアの国王に、ここまで直接請われて米国大統領が断れるはずがない。  ファイサル国王が動いたのだ。  その電話からおよそ10日後の6月中旬、予定通り米国大統領の公式訪問が国際政治の注目の下で行われた。  首脳会談や共同記者会見など主要な公式日程がとどこおりなく終わり、それがニュースとして世界をかけめぐった。    そして、ほぼその日程が終わったことを誰もが疑わなかった。  当然ながらメディアは取材を終えて一仕事終えたあとのゆるみがあった。  その一瞬の空白をつくかのように、その日の夕方に二人だけの「鷹狩り」は行われた。  ファイサル国王が操縦する小型ジェットは、米国大統領を乗せてサウジアラビアの聖都メッカの上空にさしかかっていた。  はるか下にはカーバ神殿の巨大な黒い固まりが浮かび、それが、どんどん、大きく迫ってくる。  読者も一度は何かの写真でみたことがあるだろう。  イスラム教の始祖であるモハメッドが祀られている長方立体型の巨大な黒い神殿である。  イスラム教の総本山である。  毎年一度、老いも若きも、富める者も貧しい者も、身分の高い者もいやしい者も、健康な者も瀕死の者も、すべて世界中から白い衣装に身を包んで集まってくる敬虔な信者がそこにいる。  生涯のうちで一度、この巡礼を果たした者だけがコーランの教えに従った真正のイスラム教徒になれるのである。  いわゆる巡礼(ハッジ)である。  その時もまさにハッジのまっただ中であった。  ジェットがその真上に近づき、はっきりと眼下の模様が見えるようになったとき、ファイサル国王は操縦桿の手をゆるめることなく、顔を前方にむけたまま、大統領に語りかけた。  漆黒のカーバ神殿のまわりには白い巨大な人の群が、まるで大きな河の流れがゆっくり旋回し続けているかのように動いている。  夕闇のなかに青白い照明で照らし出されたモスク(寺院)の高く細長い塔からはコーランの読経が繰り返し流されていた。  その光景は、ジェットの中まで聞こえてきそうなコーランの響きとともに、ダラス大統領の胸に迫った。  「大統領!ご覧ください。彼らが神の子たちです。イスラムの守護神をあずかる私は、この子らの安寧と命を守らなければなりません。たとえそのために砂漠に眠る無限の宝を失おうとも、たとえ米国との良好な関係を失おうとも、そしてあなたとのかけがえのない信頼と親交を失おうとも。もはや今の私は、サウジアラビア国王として持てる世俗的なあらゆる権限と財力とその名誉のすべてを失っても、何の悔いもない。この子らを救うためには。サウジアラビアの民ととも砂漠に帰ればいいだけです。ベドウィンに戻ればいいだけなのです。それがベドウィンの矜持です」  ファイサルのこの覚悟は、米国大統領にもまた覚悟を迫った。  そして米国大統領はファイサル国王の打った鎚に、大きな響きで、見事に応えるのである。  そのときは米国大統領は黙って聴いていただけであったが。  その頃、ベイルートのイスラム武装抵抗組織のアジトは、さらに緊迫の度合いをましていた。  ケンシローは核爆弾のブラックボックスの一日も早い完成を急がされた。  アンジェリーナは、ハッサン師から、監視をかねて付きっきりでケンシローのそばにいて、ケンシローに協力をするよう命じられていた。  しかし、もはやケンシローには監視はいらなかった。  ケンシローは、残りの人生をパレスチナ和平の実現に捧げようと決心していた。  たとえ和平が叶わず、正義のための戦いが大惨劇に終わって人類が滅亡しても、ケンシローはその時はイスラムの正義の側に立って、ともに聖なる闘士たちと楽園に行こうと考えていた。  そしてその思いは、口にださずとも、毎日ケンシローに接してきたアンジェリーナには伝わる。  二人は急速に愛を高めて行った。  ついにブラックブボックスが完成する、そうケンシローが確信し、それをアンジェリーナに伝えたその夜、ケンシローと二人だけになったアンジェリーナは衝撃的な告白をケンシローにすることになる。  しばらく二人だけになる頃合いをみはからっていたアンジェリーナはその時がきたと見るや、からだを寄せて耳元でケンシローにこうささやいた。  「ケン、驚かないで、怒らないで。私はCIAのスパイなの・・・」  言葉を失ったケンシローを見ながら。アンジェリーナは止めずに話し続けた。  「私と兄は米国人とパレスチナ人の間にうまれたアラブ系の米国移民なの。幼い頃、両親は戦火を逃れて米国に移り、そこで我々二人は米国人として育ち、米国政府に職を求めたの。アンジェリーナは私の米国名。私には母親がつけてくれたアラブ名がある。それはアマル。「希望」という意味よ。兄はCIAから派遣されて、いまイスラエルの首都テルアビブでモサドの一員としてワシントンーテルアビブ間の情報連絡役をやっている。私はCIAからここにスパイとして密かに送り込まれてきた。このイスラム武装抵抗組織で行われていることはすべて筒抜けよ。もちろんあなたがいることも、あなたがやっていることも。それを伝えるのが私の役目だった。いま、この時までは・・・」  そしてアマルはさらに続ける。  「でも、日本から帰ったケンシローを見ているうちに私は変わった。あなたは過去のすべてを捨てて、本当の平和の実現のために殉じようとしている。弱い者の味方になろうとしている。イスラエルはイスラエルの宗教を信じ、その宗教が教える正義を実現しようとする。米国はそんなイスラエルを信じ、その正義の実現を信じる。イスラムは、そしてその教え子であるパレスチナ人は、コーランの正義を信じ、それを説くハッサン師は、その正義の実現をかなえようと呼びかける。それを神の名の下にイスラムの善男、善女に教える。でも私はいま気づいたの。宗教の教える正義は、すべてどれも正しくない、と。というよりも、宗教の教える正しい正義を、人間が、それぞれ自分たちの都合にいいように解釈して教え込み、利用してきたのだと。宗教の教えはただひとつ。それは人類への愛よ。弱者へのいたわりよ。それが神の心なの。そしていま私はケンシローに神をみたの。私はきょうからダブルスパイとなってケンシローが賭けに勝つように命を捧げることにした。これからは私のことをアマルと呼んで。もう一度言うわ。これはアラブ語で希望という意味よ。私はあなたのアマルになる。それもあと二日ほどの短い間だになるけど・・・」  そういってアマルはイスラエルが極秘裏に計画している最後の大掃討作戦の日時を、その作戦の詳細とともにケンシローに打ち明けるのだった。  それによればこうだ。    モサドはもはや世界中に拡散しててしまったイスラム武装抵抗組織に対し、不意をついて巡礼の期間中の最後の隙に一斉に行う。  この攻撃は米国には通報済みで了解を得ている。  しかしその掃討作戦の時期を早めて巡礼期間中に行うことは米国にさえも知らせていない。反対されるからだ。しかし米国を欺いてまでも敵の意表を突かないと武装抵抗組織を全滅させることは出来ない。全滅させない限り、またテロがはびこる。こんどこそこの地球上から一人残らず全滅させる。後で米国が怒っても、いつものように追認するしかない。米国にとってもテロが全滅することに異存はないはずだ・・・  見事なイスラエルの作戦だ。  レバノンにあるイスラム武装組織だけが、しかし、その奇襲作戦が近づいていることを知っていた。  もっとも、正確な攻撃開始の時刻と作戦までは最後までつかめなかったのだが。  そしてイスラエルが奇襲してきたら、その瞬間に、イスラエルの心臓部である首都テルアビブに向けて、持てるすべての武器と聖戦闘士を放ち、ともに滅ぶ、核自爆がその時の究極の抵抗になる、間に合えばそう態勢を整えようとしていた。  イスラエルが、米国が、そして世界がもっともおそれていた「汚い爆弾」(発火式小型放射性爆弾)が世界で初めて使われる。  人類は、そんな絶望の淵に立たされていたのだ。    そして今、アマルはその時が一両日中にくる事をケンシローに、そしてイスラム武装抵抗組織に教えたのだ。  アマルは、これまでの人生のすべてを裏切って、これをケンシローに伝えた。  唯一の肉親であり、朋友である兄さえも裏切ってケンシローに教えたのだ。  アマルもまた、ケンシローの平和の賭に賭けた一人となった。  その賭けは何か。  それはもちろん、このイスラエルのイスラム武装抵抗組織の全滅大掃討作戦を思いとどまらすことである。  その為にアラブとイスラエルに大きな影響力を持つサウジアラビア国王と米国大統領の、心を響き合わせた、私欲を捨てた、平和実現への関与(コミットメント)と実現力が必要だ。  しかし、より重要な事は、たとえイスラエルの大掃討作戦が防げなかったとしても、そして、その犠牲が人類の良心が悲鳴をあげるほど、これまでのどの犠牲より大きくても、それを核爆発をともなった人類の破滅にさせないことだ。終局の戦いにさせない事だ。  そして、一番重要な事は、人類が生き残り、そのような大掃討作戦の良心が悲鳴をあげるような犠牲の反省を生かして、今度こそ、本物の、公正、公平で、永続的な、中東和平が実現されること、これである。  これがケンシローの願いであり、賭けであった。  ケンシローは自爆装置を何があっても、誰の手に渡っても、作動しない、させられないように設計しようとしていた。  ファイサル国王は首都リヤドへ向かってジェット機を飛ばしながら、ダラス大統領に、もう一カ所、是非、その目で見てもらいたいものがあると言って、ジェット機を砂漠の中の秘密滑走路にしばし停め、あらかじめ用意させておいた車でオアシスに囲まれた高台に大統領をつれて行き、はるか遠くの光景を、超好感度の望遠鏡で見せた。  そこに写し出されたものはパレスチナから追われてきたものたちの難民キャンプであった。  周りを銃を持った無数のイスラエル兵で囲まれ、出入り口を完全にふさがれた、生きる監獄のような集落である。  水も、食糧も、医療さえも十分にとどかない。  ときおりパレスチナの若者が抵抗し、それを射撃が迎え撃っている。  天に向かってなきさけぶ女の声や、幼子を抱いて怒る男の姿が見える。  だが誰にも届かない。  これはこの世の地獄だ。  「こんなことが行われいることは知らなかった」  「こんなことが放置されていることを知らなかった」  米国大統領がはじめてパレスチナ問題の真実を知った瞬間だった。  米国の大統領はすべてを知ることができる。  そして知っていることになっている。  しかし、その実は、本当のことを何も知らないのかもしれない。  だから米国の外交は、時として狂ったようなことを平気でしでかすのだ。  そうに違いない。  権力を握ったものが、何も知らずに、わからずに、その権力を使っているとしたら、罪深い。  はたしてダラス大統領はそのことに気づいたのだろうか。  知った事を活かせるだろうか。  活かそうとするだろうか。  その夜、ケンシローとアマルは初めて体を重ねた。  はじめてで、そしてこれが最後の「性愛」となるだろうことを、二人はそれぞれに、知っていた。  もうすぐ始まるイスラエルの大掃討作戦を誰も止める事はできない。  それを、アマルは誰よりも知っていた。  おそらくもうすぐ、大轟音とともに作戦は始まる。  その夜のアマルは、もはや戦闘士でも、スパイでもない、ケンシローへの恋におちた一人の女だった。  敬虔なイスラムの女性も女だ。  いや、アラブの女だ。  そのベールの下に隠された欲望は無限の強さと広がりを持つ。  隠され、抑圧されているからこそ、解放された時、激しく燃える。  そう、ケンシローに感じさせるほど、その夜のアマルは激しく、切なかった。  全裸のアマルにケンシローは花嫁衣装をかけた。  そして文字どおりアマルにとってその夜は初夜だった。  家族のすべてを失い、兄と二人だけになって戦い続けたアマルのこれまでの人生には、およそ「性愛」に接する気持ちも、それを感じる愛も、そして愛をぶつける男もいなかったのだ。  「はじめて?」  うなずくアマルにケンシローはやさしく言った。  大丈夫だよ。  自由になるんだ。  みずからを解放するんだ。  もうすぐ僕たちは天国へいく。  なにもかも忘れ、楽しさだけが残る。  そうケンシローが言ったその瞬間、轟音が地響きを立てて鳴り響いた。  予定を早め、そして、さらに意表をつくように、その予定をさらに早めて、イスラエルのイスラム武装抵抗組織の壊滅作戦は、夜がまだ明けきれない、赤紫の砂漠を染めるようにして始まった。  時を同じくして、世界中で同時にイスラム武装抵抗組織のすべてが襲われた。  その中には、もちろん、米国とイスラエルがおそれる本物のパレスチナ解放イスラム武装抵抗組織が含まれている。  しかし、まったく関係のない多くの組織が、いや、善良な組織までもが、「テロ」の名のもとで十把一絡げにして処刑されるのである。  今度のイスラエルの大掃討作戦の最重要のターゲットは、もちろんベイルートのそれである。  そしてそれには理由がある。  ハッサン師の存在である。  イスラエルにとってもっとも手強い知恵をもち、その言葉は、世界中の反米イスラム抵抗者の心をとらえ、闘争心を鼓舞し、そして誰をも自爆テロに誘う。  ハッサン師さえ殺せば、世界中のイスラム武装抵抗組織は雲散霧消する。  しかし、ハッサン師を殺せば、世界中のイスラム武装抵抗組織の闘士たちが一斉に蜂起する。  そういうジレンマをイスラエルはハッサン師に抱えていた。  しかし、もうイスラエルにとって、そんな心配をする必要はなくなった。  すべてを破壊すればいいだけだ。  その時が来たのだ。  なにもかも、「テロ」を根こそぎ、この地球上からなくせばいいのだ。  ケンシローが現れ、イスラムの正義の側につき、自爆核物質の最後の抵抗が差し迫った。  アマルが裏切った。  すべてを一刻もはやく地球上から抹殺しなければならない。  ハッサン師を屠り、怒り狂う戦士をまとめて迎え撃ち、汚い爆弾を、使われないうちに叩き潰す。  あとはイスラエルの天下だ。  そういう目的の大掃討作戦であった。  その時、イスラエルはまだ知らなかった。  ケンシローのブラックボックスはまだ完全に完成していなかったことを。  そしてケンシローはたとえそれが完成しても、自分の意志で不発のまま封印しようと考えていたことを。  ケンシローが生きている限り、誰もブラックボックスを機動させることができず、従ってまた核自爆テロは起こりえないのに、ケンシローが生存してイスラム武装抵抗組織のメンバーにいるからこそ、核自爆テロが起きる。  そうイスラエルは思い込んでいた。  あのモサドでさえも気づくことのできなかったケンシローの技術であった。  しかし実際はその逆であった。  ケンシローしか持たない技術だからこそ、そのケンシローがそれを封印するつもりなら、誰も核爆発を起こせない。  核爆発を起こしたくないなら、ケンシローを殺してはいけないのだ。  こうしてこの話は劇的な最終局面に入っていくことになる。  ケンシローとアマルがまだまどろみの中にある夜明け前に始まった、いわゆる「衝撃と恐怖」の作戦は、瞬く間にイスラム聖戦士側の反撃にあい、壮絶な戦いとなった。  人間を、この上ない衝撃と恐怖にいきなり突き落とし、戦っても無駄だとあきらめさせる「衝撃と恐怖」の作戦。  なんという傲慢で、非人道的な攻撃だろう。  じつは広島、長崎の原爆投下はこの作戦だったといわれている。  まさか同じ原爆投下を、いま再び中東で繰り返すわけにはいかないだろう。  たとえ虫けらのようなパレスチナどもであってもだ。  そのかわりあらゆる砲撃と銃弾を、あたりが真昼になるほど激しく、長く続ける。  そしてねらった獲物は決して逃がさない。  無人偵察機で地の果て、地中の底まで追いつめ、無人ミサイルでピンポイントの標的まで射止める。  それをポロシャツを着た若い男が、まるでテレビゲームを楽しむように、遠く離れたカリフォルニアの快適な部屋の中で、指先一つでやってのける。  これはゲームの戦争ごっこの世界だ。  そして米国は無人の兵器、ロボットの兵士を使うことが常態となる。  もはや戦争に歯止めが利かなくなる。  先制攻撃が始まったことを知るや、いつもは決して動かないハッサン師が、戦闘士たちにの先頭に立って戦った。  もはやイスラムの正義がかなわないと悟ったハッサン師は、みずから教えた楽園の道へ、わびとともに卒然と赴いたのである。  たちどころにハッサン師は形相をとどめない無惨な姿でおびただしい戦士の亡骸の上に重なって死んだ。  あとはイスラエルは最後の目的を達成するばかりだ。  すなわちケンシローとブラックボックスの始末だ。  ハッサン師の死後もたえまなく続くイスラエルのミサイル攻撃と砲撃は、アジト一帯をまるで津波のように総ざらいし、ついにケンシローとアマルが身を潜めていた場所に及んだ。  危うい!  そう感じた瞬間、すさまじい暴風が吹き、ケンシローが抱えていたブラックボックスが宙に高く舞い上がった。  ブラックボックスが完全に完成していれば問題はなかった。  どのような衝撃を受けても、破壊されても、爆発しないことになっている。  核臨界がおこらないことになっている。  核爆発さえ起こらなければ、放射線汚染の拡散は人類の破滅までには至らない。  しかし、その最後の作業が残されていたのだ。  このままでは爆発する。  「ケンシローが死ねば爆発させられない」  のではなく、  「ケンシローが死ねば、誰も未完成の起爆装置の誤作動を止められない」のだ。  それを唯一知っていたのがケンシローだった。  モサドさえも思いもつかないパラドクスである。  危ない!  そう叫んで、ケンシローは宙に舞い上がったブラックボックスに飛びついた。  その体を無数の銃弾が射抜く。  もうろうとする意識の中で、ケンシローはブラックボックスの最後の暗号を入力して永久作動停止操作を終え、それが確かに完了したことを見届けて、その瞬間にケンシローは絶命した。    この出来事を知るものは一人もいなし。  アマルのほかは。  こうして、イスラエルの大掃討作戦の重要な目的は一瞬にして終わったが、聖戦士たちとイスラエルの戦闘はその後も続き、世界の知るところとなる。  「衝撃と恐怖」の作戦が始まった事を知ったダラス大統領は激怒した。  作戦そのものをイスラエルが実行することは、以前から知らされていた。  そしてそれをいったんはダラス大統領は了承し、それを安全保障スタッフを通じてイスラエル側に伝えていた。  しかし、サウジアラビア公式訪問中に、その見直しを決め、それを伝え、そして近日中にイスラエルを訪れて、中東和平について、もう一度イスラエルと話合いたい、それまでは大掃討作戦を見合わせてほしい、少なくとも、巡礼が終わるまでは絶対に行っては行けない、そう伝えていたのだ。  それをイスラエルはことごとく無視した。  世界が大掃討作戦が始まったことを一大トップニュースとして流した形ではじめてこのイスラエルの大掃討作戦を知ったダラス大統領は、激怒し、直ちにホットラインにイスラエルの首相を呼び出し、激しく命じた。  「いますぐ攻撃を停止せよ」  歴代の米国大統領が、イスラエルの対テロ攻撃の一報を受けて、ここまで素早く反応し、しかもイスラエルに激怒したのは例がない。  ダラス大統領の怒りは本物だった。  そして、それにはもちろんわけがある。  ファイサル国王との二人だけの会話と、その後に目にしたパレスチナ難民の実状は、ダラス大統領にもまた、自らの正義を見つける機会を与えたのだ。  米国のパレスチナ政策を根本的に見直そうとしたのだ。  イスラエルに対する米国の外交を根本的に見直おさなくてはいけないとダラス大統領は決断したのだ。  米国外交史上の一大転換が行われようとしていた。  イスラエルは、しかし、たかをくくっていた。  どうせ最後は米国大統領はユダヤロビーに屈する。  イスラエルの安全保障政策に口出しできない、と。  ダラス大統領の激しい物言いに驚き、不快感を覚えたイスラエル首相のヤーロンは、こう反論した。   「イスラエル首相に攻撃を止めろ、などと命令した米国大統領はいませんでした。いや、できなかった。その理由はおわかりでしょう。ダラス大統領、大丈夫ですか?」  ダラス大統領はきっぱりこう答えた。  「私の命令を聞かないなら、米国とイスラエルのこれまでの関係を見直さざるを得ない。イスラエルは米国と戦うことになるかも知れない」  そう言った後、ダラス大統領はこう言い残してホットラインを切った。  「ヤーロン首相。あなたはイスラエルの首相にすぎない。私は米国の大統領だ」  この歴史に残る名言を、ケンシローは米国大統領に言わせたのだ。  ケンシローの考えは、一言でいえばこうだ。  世界最強の圧倒的軍事力国家である米国は、世界で一番悪い事をさんざん世界中でやってきたほどの最大の悪の国だ。  そして同様の中悪国、小悪は世界にあまたある。  そういう国が世界の紛争を繰り返す。  だから紛争はなくならない。  しかし、紛争をなくすことは中悪国や小悪国にはできない。  なぜならば、中悪国や小悪国は、せいぜい、中善か小善しかできないからだ。  恒久平和の実現という大善ができる国は、大悪のできる米国しかない。米国は、その気になれば大善をなし得る唯一の国なのである。  問題は米国が大悪から大善に変わることができるか、その事にきづくかである。  それは分からない。  しかし、そのことを米国に気づかせる事のできる唯一の国は、米国が理想を掲げて日本に押しつけた憲法9条を、今日まで守ってきた日本とその国民なのである。  これがケンシローが祖父と祖母に教えられて育った原点であった。  米国とイスラエルの外交関係を語る時、よく「しっぽが犬を振り回す」ということが皮肉を込めて語られる。  イスラエルと米国とどちらが本当に強いのか。  最後の政策決定権を握っているのはイスラエルと米国のどっちか、と。  そして、米国のあまりのイスラエル寄りのパレスチナ政策ゆえに、イスラエルが米国を動かしていると思われがちである。  それを皮肉った言葉だ。  しかし本当は違う。  米国がそう判断したら、イスラエルといえども従わざるを得ない。  米国の政治家が、そして大統領までもが、保身のあまり、そうしないだけだ。  戦後の米国の大統領の中で、それをなし得た大統領が一人いると言われている。  圧倒的な国民的支持を受けた軍人大統領のアイゼンハワーだ。  彼だけが、あのスエズ動乱の時、兵を動かしたイスラエルに軍事停止を命じた。  そしてイスラエルは従わざるを得なかった。  米国の大統領の決断次第でイスラエルの行き過ぎは制止できる。  そして、世界がそれに従う。  それほど米国大統領の権限は強大なのである。  問題は、そのような米国が、まだ一度も大善を成し得ていない事だ。  正義のために、すべてを犠牲にして正しい事を出来ないでいる。  だからといって、米国にかわる平和を実現できる国がこの世界にあるのか。  ありうるのか。  中国か。ロシアか。国連か。  違うだろう。  米国ができなければさせるのだ。  我々世界の平和を望む国々が、平和を願う米国国民と一緒になって、平和を守る強い大統領と、その大統領を選び、支持する米国をつくるのだ。  そんな平和な軍事大国である米国を、我々の共有する世界の大国に、我々の手で、世界の国民の手で、実現するのだ。  核戦争の危機がが差し迫り、原発事故が起きたという人類滅亡のいまこそ、米国が核廃絶にこんどこそ本気で動かなければいけないのだ。  ダラス大統領もまたみずからの「正義」を見つけ、それに従う賭けに賭けたのだ。  イスラエルの攻撃はやがて中断され、中東はとりあえず平和をとりもどし、何事もなかったかのように世界のニュースから消えた。    それから約3ヶ月の間、米国とサウジアラビアとイスラエルの間で極秘裏に激しい外交交渉がくりひろげられた。  そして米国に美しい秋が訪れ、その秋が深まりはじめたある日、世界に電撃的なニュースが走った。  「世紀の中東和平実現か」    「ダラス大統領の仲介奏功」  「こんどこそ、永続的で公平は和平が見られるか」  燃えるような紅葉に囲まれたワシントンの迎賓館で、ダラス大統領を挟んで、イスラエルとパレスチナの代表団が向かい合って席についている。    パレスチナ代表団は、みな名もない聖戦士の生き残りだ。  ハッサン師の遺志を正しく引き継いだ精鋭ばかりだ。  その末席に、スーツ姿に身を包んだアマルの姿があった。  アマルは流れる涙を拭おうともせず、そっと自分につぶやいていた。  「ケンシロー。あなたはみごとに勝ったのよ。あなたの賭けに。あなたの正義を実現する賭けに見事に勝ったのよ。そしてその賭けにサッサン師もファイサル国王もダラス大統領も賭け、あなたは勝たせた」  その時、アマルのお腹の中には、ケンシローの新たな命が胎動しはじめていた (完) ──────────────────────────────── 購読・配信・課金などのお問合せやトラブルは、 メルマガ配信会社フーミー info@foomii.com までご連絡ください。 ──────────────────────────────── 編集・発行:天木直人 ウェブサイト:http://www.amakiblog.com/ 登録/配信中止はこちら:https://foomii.com/mypage/ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

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