… … …(記事全文3,307文字)淡路島は、古代より四国と同じ「南海道」に所属し、江戸時代は徳島藩(蜂須賀家)の領地でしたから淡路島は廃藩置県の際に阿波(徳島)と共に徳島県になるはずでしたが、御維新直後に起きたある大事件のせいで事情が変わってしまいました。
まずは蜂須賀家が徳島藩を統治した経緯からおさらいします。
天正13年5月、秀吉の四国攻めに目付として参加した蜂須賀正勝(小六)は讃岐国屋島から讃岐を制圧し、阿波国に進んで木津城を攻囲し、正勝が東条関之兵衛を説得して東条関之兵衛を降伏させ、総大将・羽柴秀長と共に一宮城を包囲しました。7月に、秀長は守将・谷忠澄に白地城に赴いて長宗我部元親を説得するように勧め、それによって和議が成立しました。
この四国攻めは、阿波木津城攻め、一宮城攻めなどで武功を挙げた戦功により秀吉は蜂須賀正勝に対して阿波一国を与えようとしましたが、正勝は秀吉の側近として仕える道を選んで辞退し、秀吉はやむなく息子の蜂須賀家政に阿波一国(16万3千石)を与えました。
関ヶ原の戦い後の大坂の陣で戦功をあげた正勝の子は蜂須賀至鎮は淡路一国を与えられ、家康から25万7000石に加増されます。
蜂須賀氏の家臣、徳島藩筆頭家老だった稲田家は大坂の陣に稲田植元、稲田示植、稲田植次の3代で出陣し、徳川家康より感状を受けています。
ここに出てくる稲田植元は蜂須賀正勝とは義兄弟の契りを交わした間柄で、共に秀吉(後の豊に仕えました。
余談ですが秀吉が論功行賞で蜂須賀正勝に播磨龍野5万3千石を与え、稲田植元に河内国2万石を与えようとしたとき、稲田植元は「拙者は小六正勝と兄弟の契りを結び、ともに働かんと約せり。然るに今大封を給はれりとて、河内に赴いては正勝との約束を果たすことが出来ぬ。希くば拙者の請を許され」と固く辞しました。これを聞いた秀吉は潔白なる義を重するものとして、感銘し、領地ではなく多くの引出物を植元に与えたといわれています。
天下人から直接領地を賜ることを固辞して、蜂須賀正勝のみに扈従する稲田植元の姿勢は「終生陪臣」の道を宣言したことになります。
稲田植元は蜂須賀小六率いる蜂須賀党の一員で兄弟の契りを交わした関係という、江戸時代の一般的な主従の関係とは少し違った特殊な関係だったとも言えます。
そういう関係から主家の蜂須賀家は稲田家を一般の家臣とは違う待遇で接し、稲田家も蜂須賀家に対して、主従関係ではなく客分に近い扱いを求めたのかも知れません。とくに大坂の陣では豊臣寄りの蜂須賀家とは違い、稲田家は前述の通り親子孫三代の活躍で徳川方の覚えがとくに目出度く、徳川幕府から藩主蜂須賀至鎮に対して、稲田示植を由良城代とするように命じています。
元和6年には藩主蜂須賀忠英の将軍徳川秀忠への御目見の際に陪臣の身でありながら家老の稲田示植が同席しています。
これがどれだけ破格の扱いであるのかはご理解いただけると思います。
正保3年(1646年)、稲田示植の隠居により、子の植次が家督相続することになり。徳島藩から1万4197石という大名並の知行を給され、洲本城代を務めることになります。
以後、淡路島は徳島藩の一部でしたが、藩主蜂須賀家の筆頭家老だった稲田家が洲本城代を継承し「淡路仕置」として事実上統治することになります。
蜂須賀家は、稲田家を客分として扱い淡路国を任せていたはずだったのですが、幕藩体制下で次第に対等の関係から主従関係へと変化していき、蜂須賀家が稲田家を家臣として扱うようになっていきます。
これに稲田家が反発し、蜂須賀家と稲田家との間に軋轢が生じるようになります。
淡路島の稲田家の家臣というのは「本藩」である徳島の城下では徹底的に差別されていて、「島の者」呼ばわりされ、侍扱いもされなかったといいます。
こうした差別構造があったために、江戸時代の阿波(徳島)と淡路の藩士は「同じ藩でありながら不仲」という良くない構図が完成してしまいます。
さらに徳島本藩と淡路(稲田家)の対立の構図は、幕末の争乱時に鮮明になります。

