… … …(記事全文2,555文字)前回は元旦の江戸城について書きましたが、今回は翌日、翌々日です。
元旦の祝賀はいわゆる親藩、譜代大名、直参旗本などの将軍から見た身内の家臣らが主役でしたが、二日目は外様大名が主役となります。
その前に、ここに一枚の絵があります。
年始の江戸城の登城風景ですが、何かお気付きにならないでしょうか。
これって、1月1日、真冬なのですが、行列の供侍の脚はむき出しになっています。
現代風に考えるとおかしいのですが、江戸時代では常識で、「股立(ももだち)」といって、歩行時は真冬でも袴のすそをたくし上げるのが正装とされていました。裾をたくし上げることで歩きやすくしたり着崩れを防いだりしていたのです。
供侍の脚はあまりの寒さで変色して白くなっていたと記録に残されています。
それを思うと冬場の庶民は「股引」を着用していたのでかなり温かったと思います。
この行列はどこの行列をモデルにしたものなのかわかりませんが、槍三本道具(先道具2、跡道具1)で、金紋先対箱なので史実では薩摩藩か仙台藩ということになります。
両者とも四位の少将か中将なので乗物の中の主君の装束は直垂(前号をご参照ください)だと思われますが、移動中は股立が正装です。
直垂は長袴なので股立を取ると相当な長さ(2m近い)の生地をたくし上げていたことになります(^_^;)
さて、年始二日目の将軍はまた早朝の白書院からスタートします。
五つ刻(午前八時)白書院で御三家の嗣子の賀儀を受け、大広間に移動、国主、準国主、喜連川(後述します)、その他の外様大名からの賀儀を受けます。
まともな独礼が許されるのは喜連川までであり、その他の外様大名は3人ずつの披露で土器をもらって(お流れ頂戴)で退出します。
その後、表高家(無役の高家)、布衣の役人、五番方の役人の賀儀を受け、白書院次の間に控えている代官、奥医師、連歌師、神道方などの賀儀を受け、山吹之間で座頭の元締めである総検校の年賀を受ける流れとなっていました。
大手門、桔梗門前の橋には下馬の高札があり、多くの供連れはこれより先は行けないので、下馬先で待機することになり、年始初日は親藩、譜代大名、旗本など、2日目は外様大名の供連れで下馬先は大渋滞することになります。
主君が登城している間、下馬先に集結している数千人の供連れが暇つぶしに交わす興味本位の噂話や無責任な情報交換などが現代に言う「下馬評」と言われるものになっています。
下馬所から先の下乗所(大手三之門)まで供連れには人数制限があり、四位の国持大名の場合、最大 13名(供侍6名、草履取1名、挟箱持2名、駕籠かき4名)で、その先、下乗所から大玄関までは3名(供侍3名、草履取1名、挟箱持1名) でした。
大手三之門の下乗所を駕籠のまま通過できるのは勅使、院使、日光御門跡、徳川御三家、加賀前田家(中之門前まで許可)だけであり、例外(三位以上の公卿格を認定されているため)です。



