… … …(記事全文5,782文字)今回の衆院選で、「中道改革連合」の議席が半分に減るかもしれないとの情勢予想が出回り、リベラル左派の人たちを慌てさせている。そのせいか、「なぜリベラルが嫌われるのか」「リベラルを再生すべきだ」といった投稿を、X(旧ツイッター)でしばしば見かけるようになった。まさか、私の一連の投稿が影響を与えたとまでは思わないが、現在のリベラル左派に対して、私と同じような違和感を持っている人が多いのだろう。
こうした話が出てくるのは、とてもいいことだ。敗戦の反省から生まれた日本のリベラル思想には、絶対に捨ててはいけない大切な理念がある。戦争を国際紛争の解決手段としない「平和主義」、政府の権力を国民が縛る「立憲主義(国民主権)」、個人の権利と自由を守る「基本的人権の尊重」。日本国憲法の三大原則とも言われるこれらの理念は、どんなに「ダサい」と言われようが、死守しなくてはならない。政府の批判をすれば逮捕監禁されたり、強制的に戦争に狩り出されたりする国にしたくないなら猶更だ。自民党圧勝で改憲が現実味を帯びてきた今こそ、日本にとってのリベラル的理念の重要性を、真正面から国民に問うべきだ。
それとともに、リベラル左派は自分たちが国民になぜ嫌われたのか、逃げずに自己批判すべきだ。上から目線で「正しさ」を押し付けてくるのに、自分の矛盾や間違いは棚上げする。リベラル(自由主義)を自称しているのに「個人の自由」を徹底的に守ろうとせず、不都合な言説があれば言論規制すら正当化する(コロナワクチン批判に対するファクトチェックや頭からのデマ認定が典型だ)。これだけ嫌われる理由がはっきりしているのだから、自分たちの過ちを自覚して修正すればいい。ただし、真っ先にすべきは、コロナ騒ぎでの矛盾したふるまいを見つめ直すことだ。それなくして、リベラルの再構築などありえない。
本来、「リベラル」を自称しているならば、コロナ騒ぎで起こった過剰な自粛やマスク、ワクチンの強要など、公衆衛生の名の下に行われた人権侵害に対して、怒りの声を上げるべきだった。ところが、新型コロナウイルスの不安に我を忘れてしまったのか、あるいは自分たちの支持層である高齢者におもねったか、リベラル左派政党は一斉に厳格な感染対策を求める方向へ走ってしまった。しかも、政権を批判するという意図も絡まり、政府より強い感染対策を要求するようになった。つまり、「リベラル」の理念とは、真逆の醜態を晒してしまったのだ。
それが、今日のリベラル崩壊と無関係ではないと私は思う。コロナ騒動に疑問を呈してきた評論家の與那覇潤氏も、最近、次のように指摘している。少し長いが引用したい(與那覇潤「中道改革連合を苦戦に追い込んだ『リベラルの大自爆』…挽回のために突くしかない"高市政権・唯一の急所"」 PRESIDENT Online 2026年2月3日/取材、構成=ライター・島袋龍太 https://president.jp/articles/-/108535?page=4)。
「実態があるかはともあれ、令和に高市早苗首相をめぐる“サナ活”がPRされるのは象徴的です。目立った個人とファンとが気持ちの上でつながって、充足感を得る『推し活』が政治の場に座ってしまい、国や社会の形は議論されなくなっています。
誰がいつ、そんな状況を作ったのか。2020年からのコロナ禍での『リベラル派のオウンゴール』が、最大の主犯です。
当初、保守派の安倍政権は穏当な対策を模索しましたが、野党をはじめリベラル派は強硬な行動制限に傾いていきました。自粛が『本当に必要なのか?』を問うことなく、サブスクやデリバリーがあれば対人接触なんて要らない、その代わり『金を配れ!』と唱える姿勢がもてはやされました。
結果として起きたことは、なにか? この社会は互いに口をきかず、バラバラの個人がそれぞれ別に生きてゆくだけの『群れ』に過ぎない。政治の役割は、国民に働きかけ統合してゆくのではなく、孤立したまま満足できるくらい『金を配る』ことだ。地滑りのように、有権者の感じ方が変わりました。
コロナ禍の後、2024年の衆院選で伸びたのは、『手取りを増やす』のコピーが当たった国民民主党。25年の参院選で躍進したのは、まるで渡来する感染者を恐れるかのように、増加する在日外国人への危惧を訴えた参政党。どちらの代表にも(玉木雄一郎氏と神谷宗幣氏)、『推し活』的なファンが多数います。
ポストコロナで存在感を失ったリベラル派は『なぜ彼らがウケる?』と憤りますが、そんな社会は『あなたが作ったんでしょ』としか言いようがありません。海外から来るウイルスを『もっと怖がろう』、自粛を納得してもらうために『もっと金を配ろう』と、リベラルこそ3年近く叫び続けたのですから」
コロナ騒ぎを通して、国民が求める国や政治の役割が「国民に働きかけ統合してゆく」ものから、国民がバラバラになっても生きていけるよう「金を配る」ものに変質してしまった。小異を捨てて大同につき、大きな政府に対抗するというリベラル左派的な「物語」が消失し、その代わり自分の感覚にフィットした「政治家個人」とのつながりを求める「推し活」的な政治に変わってしまったというのが、與那覇氏の見立てだ。
「推し活」的な政治に変質したかどうかはともかく、與那覇氏が指摘する通りリベラル左派が自粛の必要性を問うこともなく、強硬な行動制限と補助金をバラまく方へ国を導いたのは確かだ。與那覇氏が本文で言及しているのは「自粛」だけだが、コロナワクチンについても同じことが言える。ワクチンの確保や補助金対策が遅いことを「政府批判の道具」にしたために、ワクチンが本当に安全で有効と言えるのか、その巨費の使い方が適切かどうかといった肝心要の問いを、リベラル左派は政府にぶつけることができなくなった。そして、全体主義の共犯者になったリベラル左派は、感染対策やワクチン強要で多くの人の自由が奪われたことにも、抗議の声を上げられなかった。つまり、リベラル左派みずからが、リベラルであることを放棄してしまったのだ。
そのリベラル左派の矛盾に怒った人たちが、コロナワクチンやグローバリズム(いわば世界全体主義)に反対した参政党に取り込まれていった。この意味でも、リベラル左派の敗北と保守右派政党の伸長は、リベラル左派側の「オウンゴール」だと言える。もし、真にリベラルの理念を血肉化していたならば、今、参政党を支持している人の多くが、リベラル左派政党の支持に回っていたと私は思う。なぜなら参政党の支持者の多くが、元々はそれほど政治的な人ではなく、はじめから右でも左でもなかったからだ。それがコロナワクチンに疑義を呈する活動を通じて、参政党支持者になった人たちと多く交流があった私の実感だ。
そしてもう一つ、コロナ騒ぎにおいてリベラル左派的ふるまいの悪い部分が露骨に出たところがあった。それが前回指摘した、共産主義的思想の根底に流れる「前衛エリート主義」だ。古典的な共産主義には、科学的に正しい知識を身に付けた前衛エリートが、正しい知識を持たない民衆を教育して導けば、過不足のない生産と公平な富の再配分を達成できるという「計画経済」の考え方がある。この共産主義と瓜二つの思想が、無意識のうちにコロナの感染対策で実践された。

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