「天災は忘れたころにやってくる」という言葉がある。地震や台風といった自然災害に襲われると、ときに恐ろしい思いをする。ただし、月日が流れるとその気持ちを忘れがちになるものだ。そこで、そのとき経験した怖い思いを忘れずに普段から災害や危機に備えた心構えと準備は怠ってはいけない、という戒めの言葉として受け取られている。
この戒めは、なにも自然の恐ろしさだけを想定したものではないだろう。恐ろしいのは自然災害だけではない。戦争やテロ、また貧困や暴動といった、いわば人間が生み出した"人工的災難"にも私たちは十分注意を払う必要がある。
これらの災難は予測不能な自然災害と異なり、あくまでも人工的な産物だ。そのため排除しようと思えばできないことはない。人類の勇気と英知があれば明日からでも実行可能だ。だが人間の歴史が始まって以来、それらの災難は不幸にして排除できた試しがない。いつの時代も同じ不幸を繰り返すのが人間の持つ悲しい性なのだろう。
ところで、ここに来て大阪でもまたまた同じ不幸が降ってきそうな気配である。大阪維新の会が言うところの「大阪都構想」がゾンビのように蘇ろうとしているのだ。
6月12日に配信したメルマガ『日本維新の代表が言い出した3度目の住民投票 その本音と実現の可否を探る』でも紹介したように、日本維新の会の馬場伸幸代表が3度目の住民投票を口にしたことが波紋を広げている。この住民投票、1度目は2015年5月17日、2度目は2020年11月1日だった。そして大阪では3度目の人工的災難が発生するかもしれない。
https://foomii.com/00225/20240612080000125188
どうも馬場代表は本気で住民投票をやろうとしているようだ。しかも、これまで大阪市民を対象にしていた住民投票を大阪府民にまで広げるという。そのための法改正も辞さないという態度である。
これには大阪維新の議員や支持者ですら戸惑っている者がいるようだ。中には「そんなことが可能なのか」「馬場さんはどこまで本気なのか」と訝る議員までいるという。大阪維新の吉村洋文代表(大阪府知事)も「都構想より万博」と、どちらかといえば後ろ向きである。また、世論も3度目の住民投票に関心が高まっているようには見えない。過去2度の住民投票で100億円を超える公金が投入されたことから、「そんなカネがあるのなら、市民の生活を豊かにしてくれ」(大阪市北区に住む50代女性)という声も聞こえてくる。
住民投票の対象を拡大する法改正については前回のメルマガで触れたとおり、かなりハードルは高い。加えて、法改正するだけの正当な根拠にも乏しい。馬場がどのような意図で語ったのかは不明だが、それでも国政政党代表の口から法改正の言葉が出た以上、その結果についての政治責任は問われるだろう。まあ、せいぜい頑張っていただきたい。
もっとも、馬場が主張する法改正が可能かどうかは別として、あるいは世論が盛り上がるか否かはともかくも、何度も言うようだが遅かれ早かれ3度目の住民投票は実施されると私は予測している。いずれ住民投票は強行されると覚悟はしたほうがいい。もちろん、いまから何年後に実施されるかはわからない。ただ、「天災は忘れたころにやってくる」の戒めだけは心に留めておきたいものである。
そこで私たちは「大阪都構想」という"人工的災難"に備え、そのための準備をする必要がある。ただ単に大阪市を廃止するだけではなく大阪全体を疲弊させかねない同構想の正体を見抜き、その欺瞞とインチキを訴えていかねばならない。そこで「大阪都構想」とは何かという基本から抑えておく必要がある。いわば再勉強というわけだ。
まず「大阪都構想」という名称である。名は体を表すとはいうが、この言葉ほど実態と中身が大きく離れたものはない。そもそも住民投票で賛成多数になったとしても、大阪府が「大阪都」と名乗れるわけではないのだ。これほどのインチキもない。もっとも、同構想に賛成する人の中にもこの点を勘違いしている人は少なくない。
だったら、なぜ大阪維新は恥ずかしげもなく「大阪都構想」と言うのだろうか。その理由の1つは、同構想の根拠法である「大都市地域における特別区の設置に関する法律」(通称「大都市法」)にある。同法第10条には次のように記されている。
>(特別区を包括する道府県に対する法令の適用)
>第十条 特別区を包括する道府県は、地方自治法その他の法令の規定の適用については、法律又はこれに基づく政令に特別の定めがあるものを除くほか、都とみなす。
条文に「都とみなす」という一文が記されていることから、大阪維新をはじめとする同構想の推進派は「大阪都という名称も間違いではない」と主張している。だが、この「みなす」は大阪府と「大阪都」がイコールという意味ではまったくない。
同条文の前段には、わざわざ「自治法その他の法令の規定の適用については」と断りの一文がある。これは東京都と特別区が実施している一部の制度を、大阪府も「都とみなす」ことでそのための法令等を適用するという意味である。たとえば、現在において東京都と都の23区との間で行われている都区財政調整制度などがそうだ。これを大阪府と府の特別区との間にも適用するということである。
大阪府を「都とみなす」ことで、現行の政令市・大阪市に比べて権限や財源が著しく劣る特別区のために、東京都のように都区財政調整制度を導入するということなのだ。大阪府を「都」とみなして法令を適用しないと、特別区の財政がバックアップできなくなる。そのための「みなす」であり、ましてや大阪府が首都東京と同格になるという意味では決してない。
法律でいう「みなし規定」には様々なものがある。たとえば民法第31条には「失踪の宣告を受けた者はその危難が去った時に、死亡したものとみなす。」とある。この規定により失踪宣告を受けた者が実際に亡くなったのかどうかは別として、遺族らの間で相続その他の手続きが開始される。「都とみなす」も同様で、大阪府と特別区との間で発生する手続き上の観点からの文言にすぎない。
もし大阪府を「大阪都」に名称を変えるのならば、別の法律が必要になってくる。大阪府を「大阪都」に変更する特別法を衆参両院で可決し、その後、憲法第95条の規定により大阪府民を対象にした住民投票を実施する必要もあるだろう。
>日本国憲法第95条 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。
「大阪都」の名称を使うには多段階の法的プロセスを踏む必要があり、それ以前に「都とはなにか」の議論も必要になってくる。
一般的に「都」とは首都として位置づけられ、そこに天皇の居所である皇居があり、政府や中央官庁が集中する場所であると捉えられている。ただ、明確な定義はないと言われており、ましてや副首都の定義もない。そうなると、議論を深めれば深めるほど「大阪都は『都』なのか、『副首都』なのか」といった疑問と矛盾が出てくるだろう。また大阪府を「都」にする特別法の制定といっても、それほど簡単な話でもない。そのあたりの説明をすっ飛ばして住民投票で賛成多数になれば「都」を名乗れるかのようなワンフレーズで実態をごまかすのは、じつに不誠実な態度だろう。
このように、「大阪都構想」という名称は大阪維新による政治的スローガンが含まれたものであることを理解しなければならない。では維新の政治的スローガンとは何か。これは大阪維新のHPに載っている。下記URLの「綱領」には「3.政策マニフェスト」が明記されている。これが、かれらが言う「大阪都構想」の政治的スローガンだ。
https://oneosaka.jp/about/outline/
大阪維新は政党であり、みずからの政治的スローガンを掲げるのは当然であり、そこに不思議はない。だが、その政治的スローガンの塊のような「大阪都構想」という名称を一般化するのは問題がありすぎる。マスコミも安易にこの用語を使いすぎてはいないか。あまりにも実態とかけ離れた言葉には違和感しかない。
先にも記したように、住民投票で賛成多数になったとしても、大阪府がたちまち「大阪都」になるわけではない。単に、大阪市を廃止して代わりに複数の特別区を設置するものでしかないのだ。
同構想の推進派の中には、「大阪都構想の本質は二重行政を解消し、大阪を成長させてニューヨークやパリのように世界的な大都市を築くことだ」と訴える人は少なくないが、それは「本質」ではない。それらは大阪維新の政治的スローガンであり、極端にいえば維新の希望的観測にすぎない。本質というならば「大阪市の消滅」であり、「権限も財源も制限される特別区の誕生」でしかない。そう考えると「大阪都構想」とはじつに羊頭狗肉な名称ではないか。実態と中身に即して言うならば、「大阪市廃止・特別区設置制度(構想)」こそが正確であり、かつふさわしい。
大阪市民は過去2回にわたって住民投票を経験した。そこで問われた賛否とは何か。これは「大阪都構想」という政治的スローガンの是非ではないのだ。大阪府と大阪市が作成した「特別区設置協定書」に賛成するか反対するか、そのどちらかである。
https://www.city.osaka.lg.jp/fukushutosuishin/cmsfiles/contents/0000513/513358/kyoteisho01.pdf
その特別区設置協定書には大阪維新が主張する政治的スローガンは見当たらない。当然だ。あるのは政令市・大阪市を廃止して代わりに複数の特別区を設置するということと、特別区の区議会議員の数や、廃止した大阪市の財源や事務を大阪府と特別区との間でどう分担調整するかといった事務的な内容の羅列である。
過去2度の住民投票は、大阪市民に「大阪都構想に賛成か反対か」を問うたものではない。同協定書の内容に賛成か反対かの二択を問うたのだ。もし3度目が実施されても、この部分は変わらない。まずはここをしっかり抑えておく必要がある。
「大阪都構想」の実態は、特別区設置協定書に記された無味乾燥のものでしかないが、かといって、大阪維新の政治的スローガンに触れないのもフェアではない。せっかくだから、この点も解説しておこう。
維新が言う「大阪都構想」の柱は大きく分けて3つある。1つは「経済成長戦略」、次に「住民に近い基礎自治体(ニアイズベター)の実現」、そして「二重行政の解消」である。維新の主張は、大阪市が廃止されて特別区が誕生すれば、この3つが実現するというものだ。果たして本当なのか。
まず経済成長戦略である。結論からいえば、大阪市を廃止して特別区を設置しても経済成長とは直接結びつかない。
大阪市が持つ広域行政機能を大阪府に統合すれば、その権能の多くは大阪府知事が持つことになる。このとき大阪市長はすでにいない。ならば、これまでのように大阪府と大阪市がムダな公共事業などに分散投資することはなくなり、大阪府知事1人が広域行政や公共事業に集中することができる。その結果、効率的な投資が生まれ、国内外から企業や人を呼び込める - 。これが維新の主張する経済成長戦略の大きな枠組みである。ただし、特別区設置協定書には「大阪全体の成長」という言葉はあっても、「大阪の成長戦略」の具体的な中身といったものは書かれていない。当然だ。これは「大阪都構想」の政治的スローガンだからだ。
大阪府知事にとって目障りな存在だった大阪市長が消えてくれたら、広域行政の権限は府知事に集中する。企業誘致のための都市整備や交通・情報インフラなどに集中した投資もやりやすくなるだろう。その一方、府知事は地方自治の根本である二元代表制に縛られている。要するに議会の意思は無視できないのだ。いくら府知事がバラ色の政策を掲げて予算をやり繰りしても、肝心の議会が「ダメだ」といえばすべてパー。一歩も前に進まない。つまり、大阪市がなくなって特別区が生まれたところで、大阪府と府議会の関係はいまの状況と変わらないのだ。
おまけに、大阪のトップが府知事1人になったところで効率的な公共投資ができるとは限らない。需要の予測が甘ければムダな投資となり、かえって巨額の赤字を生むことにもなりかねない。あるいは正しいはずの政策を実行しても、バブル崩壊やリーマン・ショックのように突発的な経済事件が発生するか、あるいは新型コロナウイルスのような社会的脅威に襲われたら、結果的に大阪府は赤字や借金を抱えることにもなるだろう。
それより何より、そもそも都市制度と景気のメカニズムは別次元の話ではないか。互いに影響し合うことはあるだろうが、経済は都市制度と無関係な別の要因が働く場合が多い。たとえば80年代末から始まったバブル景気のときである。
当時、大阪には巨額の不動産投資などが集中し、民間企業や夜の酒場の景気が良かったのは確かである。サラリーマンの給料やボーナスは右肩上がり、就職は売り手市場で、企業は学生の囲い込みに苦労したものだ。サラリーマンやOLは毎夜のように高級レストランで食事し、深夜の帰宅はタクシーを使う。高級車や宝石など嗜好品の買い物が増え、億ションと呼ばれるマンションが飛ぶように売れた。では、この当時、大阪維新が言うところの「大阪都」は完成していたのか。もちろん、違う。大阪府と大阪市は存在し、行政の形はいまと変わらなかった。
1980年代後半に国内でバブル経済が発生した直接のきっかけは1985年のプラザ合意である。これが発端となって金利は下がり、土地や株への投資が刺激されたといわれている。なおバブル崩壊後の大阪では金融破綻が起きるなど、かなり強烈な副作用が発生した。
バブル経済はあくまでも極端な事例にすぎないが、都市制度と景気の変動は異なった要因で動いているという見本だろう。逆に言えば、大阪市が廃止されたところで景気が良くなる保証などまったくない。重ねていうが、都市制度と経済とは別のメカニズムで動いている。大阪に経済成長を促したいのなら、いまの制度のままでも可能だろう。
次に「ニアイズベター」はどうか。これは住民に近くて優しい自治体という意味である。
住民に近い自治体とは「基礎自治体」と呼ばれ、早い話が市町村や東京23区のことを指す。対して東京都や大阪府のように広い地域の行政を担うものを「広域自治体」という。大阪市は基礎自治体であると同時に政令市であることから、区域を超えて広域行政も担う。そこで特別区にすることで純粋な基礎自治体として機能させようというのがニアイズベターの考え方である。
現在の大阪24区を4つか5つの特別区に再編し、それぞれの区に公選区長と公選区議を設置する。人口約270万人の大阪市を廃止して、代わりに約50~70万人の基礎自治体(特別区)を複数作れば、特別区長と住民との"距離"は近くなり、現在の大阪に比べて区役所はより民意を反映しやすい。人口の多い大阪市では市長が市民の声を直接聞くことは難しいが、約50万人から約70万人の特別区の区長なら区民の声を聞くことができる。特別区なら「家の前の道路が陥没しているので修理してほしい」「市民が憩う公民館を建ててほしい」といった要望を区長や区役所に届けやすく、行政も住民の声を広く聞き、それらの声を素早く具現化することが可能となる - 。これらが維新の主張するニアイズベターの意味であるが、はて、本当だろうか。
数字の比較で言うならば、市長1人に対して約270万人の市民に対するよりも、1人の特別区長が約50万人の区民と接する方が行政トップと住民との距離は縮まるように思える。実際、大阪維新の市議の中にはニアイズベターをこのように訴え、かれらが言う「大阪都構想」のメリットの1つとして訴えていた。だが、現実はどうか。特別区であっても区長が住民1人ひとりの声を直接聞くことは、まあ無理だろう。
これは一種の数字のマジックにすぎない。地球から天王星までの距離は約29億kmもあるが、木星は約7億5000万kmである。この数字の比較から、「天王星より木星のほうが距離が近いから木星に行きやすい」と言っているようなものでしかない。実際は、現在の人類の科学技術ではどちらの惑星もはるかに遠い。天王星も木星も、人類が降り立つのは共に困難である。ニアイズベターも同じことが言えるのだ。
以前、人口が約50万人規模の大阪府下の某市を取材し、そこの市長に同じことを聞いてみたが、市長は「市民の声を聞く努力はしているが実際は不可能だ」と断言していた。行政トップが住民の声を直接聞くことができるのは、せいぜい人口約1万人以下の自治体だろう。たとえば福井県の某町は人口が約9000人いる。この町の町長にニアイズベターについて話を聞いたことがあったが、「私は全町民と対話をする努力を続けているが、それでもしんどい」と語っていた。
もっとも、人口の規模に関わらず、行政トップが市民の声にまったく耳をかさないということはないだろう。特別区の区長が区内を回って住民の声に真摯に耳を傾けるかどうか、あるいは早いレスポンスで応えるかどうかは、区長の政治姿勢やキャラクターに左右される。そう考えると、これまでの大阪維新所属の大阪市長が市民1人ひとりに向き合ったという話など、とんと聞かない。維新主催のタウンミーティングには熱心に通っても、市民の輪の中へ積極的に入っていくことはなかったのではないか。ニアイズベターは人口規模の問題ではなく、あくまでも行政トップの政治姿勢の問題なのだ。
だったらニアイズベターは難しいことなのだろうか。人口が1万人以下の町村でなければ不可能なのか。いや、そうではない。それは住民の声が行政に届くプロセスを見れば理解できる。
そもそも個々の市民が「道路を補修してほしい」「条例を制定してほしい」といった要望を大阪市長に直接届けることはない。これは特別区でも同じだろう。市民や区民としての要望は、本庁か近くの区役所に電話をするか、直接出向いて担当者と話をするかではないか。あるいは身近な議員に頼むことも多い。むしろ議員に話を聞いてもらう方が効率的かもしれない。役所も、選挙で選ばれた議員から「住民の声だ」という要望を受け取れば耳を傾けざるをえないからだ。そう考えると、ニアイズベターの真の担い手は議員や役所の担当者であり、政令市か特別区かといった自治体の形ではないことが理解できる。
最後に二重行政である。
二重行政とは、国の出先機関と都道府県、あるいは都道府県と市区町村との間で類似の事務やハコモノが同時に存在することにより無駄な行政コストが発生することである。ここで大切なことは、無駄な行政コストが発生するかどうかである。単に類似の事務があるからといって、たちまち「二重行政が問題だー」とはならない。同時に存在しても、それぞれが役割分担しているのならとくに問題はない。
なお大阪府と大阪市では、大阪維新が大阪府・市の行政と議会を牛耳った直後、二重行政の事業仕分けなどを推進する「大阪府市統合本部」を立ち上げた。この会合で有識者らが検討を重ねた結果、二重行政と思える事業は統合か縮小し、現在はほぼないと言われている。むしろ大阪市が廃止されて特別区が誕生すれば、府立体育館があるのに新たに区立体育館を建てるといったように、大阪府と特別区との間で新たな「二重行政問題」が起こる可能性がある。
ときに政治家は、難しいと思われる政策であっても比喩などを使って簡単な話に落とし込むことがある。聞いている側は、説明が容易なだけに理解もしやすい。これは決して悪いことではない。だがその反面、「なるほど、よくわかった」と納得することで、その後の思考が停止してしまう恐れがある。私たちが最も注意しなければならないのは、わかったような気持ちになることだ。政治家の説明にコロッと騙されて、本当に大切な問題や本質を見失う。これが一番怖い。
「大阪都構想」という政治的スローガンも、その1つではないか。「都構想で大阪は発展する」「世界に誇る大都市に成長する」などと無邪気に喜んでいると、あとで手痛いしっぺ返しを受けることになりかねない。「天災は忘れたころにやってくる」の戒めを胸に、いまから眉に唾をつけて「大阪都構想」とやらを冷ややかに見たほうが無難である。(文中・敬称略)
<なお、この記事ついては出典(注・吉富のメルマガ)さえ記せば転載はOKですが無断転載は固くお断りいたします。>
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