以下のメルマガはいまから3年前の2021年6月9日に配信した記事である。自民党や公明党、また維新など各政党の組織について、その組織を統治(ガバナンス)している本質的部分について触れたものだ。なお、記事は3年前のものであるため時制等は当時のままであることをご了承願いたい。
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政治と人の生活が密接に関係している以上、私たちが政治と無縁でいられることはない。住民票の交付や年金制度といった役所の住民サービスから始まり、また法律や各種制度を整備するなど、政治は行政を通じて私たちの暮らしや行動を細かくコントロールしている。政治の手から逃れたければ、この国から遠く離れた誰も知らない無人島で自給自足の生活を送るしかない。だが、それが現実的ではないことは誰もが知っている。私たちが政治の手から逃れることは不可能なのだ。
ただし、幸いなことに現在の私たちは徳川幕藩体制のような専制国家に生きているのではない。選挙という手段で政権政党を選ぶことができる近代民主主義国家の中で暮らしている。しかも日本には複数の政党が存在するので、原理的には一党独裁が長期に渡ることはない。A政党がダメならB政党を選ぶといった政権交代は可能である。
ならば、問題はどの政党を選べばいいのかということなのだろう。そのためには「信頼できる政党とは何か」という素朴な疑問を解決しなければならない。信頼できる政党とできない政党、どこをどう見極めればいいのだろうか。
この難問を解くことは容易ではないが、目安はある。政党の「本質」を知ることと、その政党に参集する人の「レベル」を見極めることだ。この2つを知ることで、その政党が信頼できるか、果たしてそうでないかがある程度はわかる。
もちろん党として掲げた政策や公約の実行も大切である。だが、概してそれらは政党の良し悪しと一致するとは限らない。後で記すが、第一次大戦の敗戦でボロボロになったドイツ経済の立て直しと失業対策のため、ヒトラーが率いるナチス党はアウトバーンの建設という大規模公共工事を実行した。この公共投資によって失業者は確かに減った。だが、その後のドイツの行き着く先をみればわかるように、政策の中身と政党の良し悪しは必ずしも一致しないことはわかるだろう。
そこでまず、日本の各政党を眺め、その本質や特徴を探ってみたい。この本質を知るには、その政党が持つ"求心力"とは何かを理解することが大切だと思っている。なお、この求心力のことを私は「接着剤」と呼んでいる。
引力や電気力が原子核と電子を強固に結びつけているように、組織的な"接着剤"が政党を1つの有機体として統合する働きをしている。しかも、その接着剤は政党によって性質が違う。"粘着力"の強いものもあれば、逆に弱いものもある。"透明"な接着剤もあれば、"色"が付いたものまである。この接着剤を知ることで、各政党の本質を知ることができると考えている。
例えば、先にも書いたヨーローッパ戦線時代のナチス党である。ナチス党の接着剤とは概要、他国民に比べてドイツ国民は優秀であるという民族の優秀・唯一性と、反ユダヤ主義といった排他性だろう。これらの歪んだイデオロギーが接着剤となり、ナチスという組織を形作った。さらに、ナチズムを当時のドイツ国民に浸透させたヒトラーが持つカリスマ性も存在した。また社会的背景として、当時のドイツには第一次大戦の敗戦で疲弊した経済的困窮もあった。これらの相乗効果によってドイツ国民はヒトラーとナチス党に熱狂したわけである。
一方、現在の日本はどうか。日本には自民党、立憲民主党、公明党、共産党、維新などがあり、それぞれの政党にはそれぞれの求心力、すなわち接着剤がある。この接着剤こそが各政党の本質的部分であり、その政党を見極めるための1つの要素になる。なお、この接着剤は一般的には思想や理念、イデオロギーと呼ばれているが、それらは表面的なもの、いわば対外的な"化粧"にすぎない。接着剤はイデオロギーよりも、もっとどろどろとした、より深い組織の構成要素である。
まずは自民党だ。自民党の接着剤とは何か。
自民党が掲げるイデオロギーは自由主義的保守であり、この保守を形作る接着剤の粘着性は案外、緩やかである。その証拠に、自民党支持者でありながら選挙では維新に票を投じる人がいる。いわゆる大阪都構想の是非を問う住民投票では、自民党は反対の方針なのに賛成票を入れる支持者が数多くいた。おまけに自民党大阪府連に所属しながら「都構想に賛成する」と公言して憚らない府議まで現れた。これらは自民党が掲げるイデオロギーとは無関係に、組織にとってより本質的な接着剤の粘着性が緩やかであることを示している。
自民党の組織は巨大な派閥の集合体である。各派閥の考え方は千差万別で、党としては保守のイデオロギーを掲げながら各派閥は右派から左派、そして中道と多種多様である。それでいて、考え方の異なる派閥が1つにまとまっているのが自民党なのだ。
だが、よく考えてみればこれは不思議なことだろう。考え方の異なる複数の派閥がバラバラにならず統合されているのだ。戦後日本のほぼすべての期間、長期に渡って政治の中枢に居座ってきたのだ。これは保守というイデオロギーだけでは説明がつかない。理由は、やはり自民党の接着剤にある。
では、派閥の集合体である自民党を1つの組織体に統合している接着剤とは何か。それは「利」である。ただし、この「利」はカネや利権といったものに限らない。国家権力と官僚を意のままに動かすことも「利」といえる。戦後から長期政権を続けてきた自民党は、その過程でこの「利」を獲得することができた。党内で考え方の異なる派閥がいくつも存在できるのは、党外に出るよりこの利を享受できる"旨味"があるからだろう。社内の雰囲気が悪くても、高給とネームブランドがあれば簡単に会社から離れない一流企業のサラリーマンの感性と似たようなものかもしれない。
ただし、派閥という集合体を持つ政党は自民党だけではない。旧民主党もそうだった。同党の中には右派もいれば左派もいた。自民党系や社会党系に労組系、また改憲派から護憲派まで様々だった。
この民主党が一時は政権を取りながら短命に終わったのは、派閥同士をくっつける接着剤が弱かったからだろう。特に自民党に比べて「利」の求心力がゼロに等しかった。それまで民主党は長期政権を経験したことがなかったので、官僚を意のままに動かす国家権力を掌握できなかったのだ。利という接着剤を持たない民主党は政権から転がり落ちた途たん、立憲民主党と国民民主党といった複数の政党へと空中分解することになる。
次に公明党である。公明党は表向き、平和や福祉の看板を掲げているが、党を一本化している接着剤は「信仰」である。公明党の支持母体は創価学会であり、議員の大部分も創価学会員であることから、信仰こそが同党において重要な意味を持つことは理解できると思う。
公明党の根本は日蓮の教義から派生したもので、つまり同党の理念は宗教をベースにしたものである。そこに信仰という接着剤が加わって党を1つに形成している。信仰が議員と党を結びつける求心力となり、同党支持者(≒創価学会員)らとの連帯感を生み、支持者らの布教活動のエネルギーになっている。
しかも、自民党の「保守」や「利」と異なり、この信仰という接着剤の粘着力は強い。ちょっとやそっとでは剥がれない。この強さこそが公明党の組織的強靭さである。
公明党の持つ接着剤はまた、支持者らが同党に不信感を持たせない強制力もあわせ持つ。例えば、前回2020年11月1日投開票の住民投票がそうである。このとき公明党は、それまで反対だった都構想に対して突如、「賛成」と言い出した。公明党候補が立つ衆院大阪選挙区を取引材料に維新から揺さぶられたためだが、この手のひら返しに一般の有権者は不信に思っても、公明党の支持者は違っていた。大半の支持者は一応、納得はしていた。創価学会幹部から、あるいは公明党議員からそれらしい説明を聞き、納得せざるを得なかったのだろう。公明党と支持者との関係は「信仰」の二文字で結びつく同士である以上、同党に疑いを持つことは自己の精神として許されないからである。
もっとも、この接着剤の粘着力も近年は弱くなってきている。学会の活動家が減り、昔と違って多種多様な情報が学会員の耳にも入り、公明党に疑いの目を向ける支持者が増えてきたからだ。前回の住民投票で公明党は形ばかりの街頭運動をしていたが、居並ぶ同党幹部たちに面と向かって文句を言う支持者の姿を私も見かけた。信仰の二文字に依存するのではなく、自分の頭で考える支持者たちが明らかに増えている。今後、公明党が組織力を維持するためには「信仰」という接着剤で支持者を縛るだけでは限界が来る。一般の有権者を取り込む別の要素が必要だろう。
なお、共産党も共産主義をベースにしたイデオロギー政党だ。宗教か政治思想かの違いはあっても、共産党と公明党はコインの裏表のような関係にある。もちろん政策はそれぞれ異なっている。その理由は、両党のイデオロギーがそれぞれの党の思考と行動を規定しているからで、本質的には公明党と共産党は似た者同士である。両党が犬猿の仲なのは、近親憎悪だと考えれば納得できる。
そして最後は維新である。維新の幹部らは「維新は民主的な組織。何事も多数決で決める」と胸を張るが、実態はあまり民主的でもない。いくら理不尽なことでも、上が決めたことに個々の議員は逆らうことは許されない。逆らうと組織の外へと放り出されてしまう。2013年12月の大阪府議会で、米投資ファンド・ローンスターに泉北高速鉄道などを運営する第3セクター「大阪府都市開発(OTK)」の株式を売却する議案に一部の維新府議が堂々と反対したが、その後の彼らが維新にいられなくなったことがよい事例である。
また維新では、上が決めた活動は確実に実行することを求められる。そのためのノルマもある。以上のことからわかるのは、維新の体質は民主主義的な組織ではなく体育会系か軍隊の組織によく似ていることだ。
維新の接着剤は「忠誠を尽くす」か「命令による支配」といってもよい。そのため維新では指令系統と責任の所在が明確で、個々の議員は上からの命令があれば従わざるをえない。つまり維新の議員たちは、本質的に兵隊アリなのだ。ただし、この軍隊組織にも似た維新において兵隊アリたちは、"戦争"でこそ力を発揮する。言うまでもなく、現代の戦争は選挙である。維新が選挙戦に強いのは、余計なことを考えない兵隊アリたちが猪突猛進するからだ。
一方、この責任の明確化と命令の厳守は組織維持と支持基盤の拡大のためのもので、個々の議員が起こす不祥事は別の論理が働く。この場合、組織としての責任はたちまち霧散し、責任の所在はあくまでも不祥事議員に帰せられてしまう。表の顔と裏の顔があまりにも違いすぎるのが維新という政党である。
以上が、ざっと見た各政党の本質的部分である。政党を組織として一本化している接着剤は自民党なら「利」であり、公明党と共産党は「信仰」と「イデオロギー」、旧民主党は中途半端な「利」、維新は「支配」といえる。もちろん、それぞれ一長一短があり、どの政党が特に優れているというものではない。
ただし、例えば自民党の議員が利権に敏感だったり、あるいは利権まみれだったりするのは、同党の組織が「利」という接着剤で構成されているからかもしれない。維新にトラブル議員が多いのは、維新に人を見る目がないからだろう。維新の政治戦術は「数こそ力」であり、そして接着剤は「支配」である。組織の発展のために質より量を重んじる維新にとって、議員は議会で席を温める無個性な「数」にすぎない。
ざっと見た各政党の特徴と本質。どの政党を選ぶかは有権者の判断だが、私にすれば、いずれの政党にも魅力を感じない。魅力どころか、よくもまぁ、こんな政党に所属して恥じない議員がいるものだと逆に感心したりする。あえて言えば、どいつもこいつもいい加減にしやがれ、が、私の個人的な意見である。
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