… … …(記事全文8,672文字)学生時代、ジョン・ロックを読んだ。ルソーを読んだ。
王の権力は神から授かったものではない。人は生まれながらに自由で平等である。政府は人民の同意によってのみ正統性を得る。
宗教的伝統の重い扉をこじ開け、理性の光で世界を照らそうとした思想家たち。名誉革命、アメリカ独立、フランス革命。近代を切り開いた理念の源泉が、そこにあった。
西洋文明は大したものだ。正直、そう思った。
だが、いま冷静に年表を並べてみると、まったく別の光景が浮かび上がる。
ロックが『統治二論』を世に出したのは1689年。ルソーの『社会契約論』は1762年。アメリカ独立宣言は1776年。
17世紀から18世紀。それは大航海時代に始まった西洋による地球規模の征服と略奪が、頂点に達した時代そのものだった。
彼らは内側で自由を語りながら、外側で鎖を締めていた。
しかも、それは「同時代の別の誰か」がやったことではない。同じ人間が、同じ手でやっていたのである。
「奴隷制は卑しく惨めだ」と書いた男の、もう一つの署名
まず、ロックがどんな思想家だったのかを確認しておこう。
ジョン・ロック(1632〜1704年)。イギリス経験論の祖であり、近代自由主義の父と呼ばれる人物だ。
その政治思想の骨格は、こうだ。
人間はもともと、国家も政府もない「自然状態」に生きていた。そこでは誰もが自由で平等であり、神の定めた自然法のもとで、生命、自由、財産という権利を生まれながらに持っている。
だが、自然状態には、権利を侵す者を公平に裁く仕組みがない。そこで人々は互いに同意し、契約を結んで政府をつくる。政府の役目はただ一つ。人々の生命、自由、財産を守ることである。
だから、政府がその信託を裏切り、人民の権利を踏みにじるなら、人民は政府に抵抗し、取り替えることができる。
王の権力は神から授かったという王権神授説を、真っ向から否定した。権力の正統性を「人民の同意」に置いた。『統治二論』は名誉革命を正当化する書として読まれ、のちにアメリカ独立宣言の思想的な土台となる。ジェファーソンが書いた「生命、自由、幸福追求」は、ロックの「生命、自由、財産」を下敷きにしたものだ。
学生時代の私が感銘を受けたのも、まさにこの部分である。
では、その『統治二論』を開いてみよう。
『統治二論』の冒頭、ロックはこう書き出している。奴隷状態とは、あまりにも卑しく惨めな人間の境遇であり、わが国民の寛大で勇敢な気質とは正反対のものだ、と。
見事な宣言である。
ところが、その20年前の1669年3月1日。北米カロライナ植民地の基本法「カロライナ憲法(Fundamental Constitutions of Carolina)」が採択された。起草に深く関わったのは、植民地領主たちの秘書を務めていたロックその人だ。
その第110条にはこうある。
「カロライナのすべての自由民は、その黒人奴隷に対し、いかなる信条・宗教であれ、絶対的な権力と権威を有する」
奴隷主に生殺与奪の権を与える条文である。
それだけではない。1672年、イングランドの奴隷貿易を独占するロイヤル・アフリカン会社が設立されると、ロックは創設時の株主に名を連ねた。同社は1672年から1731年までに、自社船で18万7697人のアフリカ人を英領カリブと北米に運んでいる。
ロックは後年、通商植民委員会(Board of Trade)の委員として植民地行政にも携わった。
ロックを擁護する論者もいる。条文を書かせたのは領主たちで、ロックは秘書として筆を執ったにすぎない。株も1675年には売却している、と。
なるほど、そういう見方もある。だが、問題の本質はそこではない。
ハーバード大学の歴史家デイヴィッド・アーミテージは、19世紀以前の主要な政治思想家のなかで、ロックほど自らの理論を植民地の実務に適用した者はいないと指摘している。
思想と実務は、別々の引き出しにしまわれていたのではない。同じ机の上にあったのだ。
では、なぜ彼の中で、この二つは矛盾しなかったのか。
答えは、ロック自身の理論の中にある。

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