… … …(記事全文4,965文字)ようやく動く?「総量規制」
自民党がやっと動く気配か。
10月16日、総裁直属の「人口戦略本部」が初会合を開いた。外国人政策や少子化対策など12項目の提言を、11月末にも政府に出す。主要な論点は、外国人受け入れの総量規制だ(読売新聞、10月17日)。
思い出してほしい。今年1月23日、政府が取りまとめた外国人政策の基本方針は、総量規制を見送った。2月の衆院選の最中、他党の党首がこの問題に触れても、高市首相は一切説明しなかった。
あれから9カ月。ようやく、である。
だが、問うべきはもっと根本だ。国を滅ぼすのは移民なのか。それとも別の何かなのか。
答えは、ローマ帝国の歴史に書いてある。
ローマは「移民国家」だった ― 異民族を飲み込んで強くなった帝国
まず通説を疑おう。ローマは蛮族の流入に耐えきれず滅びた。よく聞く話だ。
しかし、ローマは何世紀にもわたって外から人を入れ続けた国である。
紀元48年、クラウディウス帝は元老院で演説し、ガリア(ローマの属州)の有力者に元老院の門戸を開けと説いた。その演説はリヨンの青銅板に刻まれ、今も残っている。
皇帝の顔ぶれを見ればさらに明らかだ。トラヤヌスはヒスパニア出身。セプティミウス・セウェルスは北アフリカのレプティス・マグナ出身。属州出身者が帝国の頂点に立った。
212年、カラカラ帝は帝国内のほぼすべての自由民に市民権を与えた。
蛮族の受け入れも珍しくなかった。ただし、作法があった。降伏した部族はばらばらに分けられ、ローマ人将校の指揮下に置かれ、各地の農地に入植させられた。条件を決めるのは、常に受け入れる側だった。
ここが肝心だ。
ローマにとって、移民そのものは毒ではなかった。むしろ帝国の血液だった。
376年、ドナウ河畔 ― 門が壊れた日
この時点で、ローマ帝国は東西二人の皇帝が分担して治めていた。帝国が大きくなりすぎ、北のゲルマン諸部族と東のペルシアという二つの前線を、一人の皇帝では指揮できなかったからだ。ただし、帝国はまだ一つだった。
376年。フン族に追われたゴート族が、ドナウ川の北岸に押し寄せ、帝国領内への移住を願い出た。そこは東の皇帝ウァレンスの持ち場だった。
ウァレンスは許可した。兵力不足を補えると踏んだのだ。
だが、受け入れ態勢は何もなかった。
現地のローマ軍司令官たちは、ゴート人に回すべき食糧を横流しした。飢えたゴート人に犬の肉を売りつけ、その代価として子供を奴隷に差し出させた。同時代の歴史家アンミアヌス・マルケリヌスが、この惨状を書き残している。
武装解除も徹底されなかった。
何より、ゴート人は分散されなかった。自前の指導者の下、集団のまま帝国に入った。何世紀も守られてきた作法が、ここで崩れた。
378年8月9日、アドリアノープル。飢えと虐待に耐えかねて反乱を起こしたゴート軍が、東の軍を打ち破った。ウァレンスも戦死した。
東には、もうゴート族を追い出す力がなかった。382年、東はゴート族と条約を結び、領内のバルカン半島に住まわせた。自前の王の下に置いたまま、同盟軍として扱う。前代未聞の妥協だった。
帝国の中に、帝国の命令に完全には服さない武装集団が生まれた。国家の中の国家である。
395年、帝国は東西に完全に分かれた。以後、二度と一つに戻ることはなかった。
門を壊したのは東だった。だが、最後に滅びたのは西である。なぜか。
同じ蛮族、違う結末 ― 東ローマはなぜ千年生き延びたのか

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