… … …(記事全文5,922文字)前回、日米諒解案を潰した松岡洋右を見た。彼は最後に南部仏印進駐へ反対するという正しい判断に到達しながら、そこへ至るまでの自らの行動によって、その判断を実行させる資格を失っていた。
松岡ひとりの話ではない。
一九四一年の指導者たちは、ほぼ全員が、自分自身の過去の言動と矛盾していた。そして誰一人、国家全体として何を守り何を捨てるかを決める場所に立っていなかった。
日本にはグランド・ストラテジーがなかった。この一語に尽きる。
石原莞爾 ─ 自分が作った作法に殺された
一部に軍事の天才と呼ばれる石原の矛盾もまた致命的である。
一九三一年、彼は軍中央の統制を無視して満洲事変を起こし、成功させた。上官の意見に従わなくとも、結果を出せば許される。この作法を陸軍に定着させたのは石原自身である。以降、下剋上の風潮が軍にはびこる。
六年後、その作法が彼を襲う。
一九三七年、参謀本部第一部長として不拡大方針を立て、内地師団の派遣中止を主張した石原は、作戦課長の武藤章らに押し切られた。武藤は陸軍省軍事課長の田中新一に同調し、強硬路線を主張した。これはかつてあなたがやったことではありませんか、と武藤が返したと伝えられる。石原に返す言葉はなかった。
石原自身も一貫していなかった。しばしば腰砕けとなり、兵員増派に賛同している。武藤は田中に語った。石原の考えは猫の目のように変転して、まったく掴まえどころがない、と。
それでも彼は、最後の切り札を出した。
近衛首相への進言である。
北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する。
山海関の線まで撤退。万里の長城まで下がる。中国本土を手放し、満洲を守る。
後に東條英機が、そんなことをすれば満洲国も朝鮮も危うくなる、と言うことになる、その撤退案である。アメリカとの開戦を回避するためには、必要なことでもあった。
しかし、近衛首相と風見章内閣書記官長に、拒絶された。
拒絶の理由は、記録に残っていない。
残っているのは、退けられたという事実だけである。国家の進路を分ける進言が、なぜ退けられたのかを、誰も書き留めなかった。それ自体が、この国の意思決定のありようを語っている。
九月二十七日、石原が強硬に反対した上海方面への増派が決定する。同日、彼は参謀本部を辞し、関東軍参謀副長に転補された。
翌一九三八年、参謀長だった東條英機が石原を罷免する。舞鶴要塞司令官、三九年に留守第十六師団長、そして一九四一年三月、予備役編入。
アメリカとの開戦を避ける満洲死守案は「なかった」のではない。
提案され、否決され、提案者が排除された。提案したのは、満州事変を起こし、アメリカとの対決を余儀なくさせた大陸進出のきっかけを作った男である。
そして、その男を排除したのは、後に大陸からの撤兵を拒んで対米開戦を決意した男だった。
近衛文麿 ─ 軍より強硬で、軍より臆病だった男

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