… … …(記事全文5,437文字)前回、私は日本を敗戦に導いたものとしてサンクコストの罠を挙げた。中国大陸で流した血が、中国大陸からの撤退を不可能にした。
だが、それだけではない。
一九四一年、日本には対米開戦を避ける道が確かにあった。しかもそれは、日本にとってこれ以上望みようのない条件で用意されていた。
それを潰したのは、外務大臣である。
日米諒解案 ─ これ以上望みようのない条件
一九四一年初頭、メリノール会のウォルシュ司教とドラウト神父というアメリカ人聖職者二人が、日米関係の打開に動いた。背後にいたのはルーズベルト大統領の側近、フランク・ウォーカー郵政長官である。帰国した両師はハル国務長官とウォーカー、そして大統領本人に報告し、大統領と国務長官は両師が私的に日本側と接触することを容認した。ここに元大蔵官僚の井川忠雄、陸軍の岩畔豪雄大佐が加わって案が練られる。日米諒解案と呼ばれる。
四月十六日、野村吉三郎駐米大使とハル国務長官が会談する。ハルはこの席で四原則を示した。すべての国家の領土保全と主権の尊重。他国の内政への不干渉。通商上の機会均等を含む平等の原則。平和的手段によって変更される場合を除く、太平洋の現状維持。
抽象的な原則であって、具体的な条件ではない。核心は軍事行動の否定である。ただしハルは、この原則が縛るのは今後の日本の行動であって、すでに存在している満州国の地位を遡って問い直すものではない、と野村に説明していた。
そのうえでハルは述べた。日本政府がこれを承認してわが方に提案すれば、われわれの交渉開始の基礎ができることになろう、と。
諒解案はアメリカ政府からの提案ではなく、民間ルートで作られた草案であり、四原則を踏まえて日本側から正式に提案すれば交渉が始まる、というのがハルの立場だった。
諒解案そのものの中身は、これとは別である。満州国の承認。汪兆銘政権と蒋介石政権の統合。そして日本軍の中国撤退。
ただし、この撤兵は無条件ではない。蒋介石が日本の条件を受諾して和平が成立し、その協定に基づいて撤退する、という組み立てになっていた。アメリカが蒋に和平を勧告し、応じなければ援蒋を停止する、という条項もついている。
日本が勝った形での撤兵である。だから陸軍も呑めた。
日本にとって、これ以上望みようのない条件である。満洲は、不問だったのだ。日本政府は諒解案を歓迎し、陸軍も海軍も基本的に賛同していた。当時の陸相は、東條英機である。
外務大臣が、陸海軍より強硬に書き換えた
しかし、四月二十二日、日ソ中立条約を締結して帰国した松岡は、この案に難色を示す。
そして何をしたか。
大本営陸軍部戦争指導班が記した『機密戦争日誌』の五月三日の項に、その日の連絡懇談会の様子が残っている。この席で松岡は二つのことをした。
一つは、日米中立条約の締結を提案したこと。全員が不同意。それでも執拗に主張したという。
もう一つは、諒解案を大幅に修正した案を提示したこと。同誌はその内容をこう記録している。
「陸海軍案ヨリ更ニ強硬」
陸軍と海軍が受け入れていた案を、外務大臣が、陸海軍よりも強硬な内容に書き換えたのである。
変更点は四つある。

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