… … …(記事全文7,189文字)国内政治からトランプ政権の動向、ウクライナ、中東の戦火まで。複雑なはずの国際情勢が、私たちの言論空間ではいとも簡単に「正義か悪か」へと整理されていく。
なぜ私たちは、これほど二項対立に陥りやすいのか。
これは日本人の知性が劣っているからではない。二項対立への傾斜は、人間という生き物に普遍的な性癖である。差が出るのは、その性癖を社会が是正する装置を持っているかどうかだ。日本には、その装置が育たなかった。理由は、私たちが誇ってきた地理そのものにある。
「で、あなたはどっち派なのか」
現代の日本の言論空間やSNSを眺めていると、ある共通の現象に気づく。国内の政治対立から、トランプ現象、ウクライナや中東の紛争に至るまで、本来であれば複雑なはずの国際情勢が、驚くほど素早く「賛成か反対か」「善か悪か」へと回収されていく。
この傾向は、なにも遠い国際情勢に限った話ではない。むしろ国内政治でこそ、より生々しく現れる。
たとえば、高市早苗首相をめぐる「親高市」か「反高市」かという対立だ。本来なら、経済政策、安全保障、減税、財政規律、移民政策といった論点ごとに、是々非々で賛否が分かれてよいはずである。ところが、ある政治家を「敵か味方か」で色分けした途端、その人物が掲げる政策は、まとめて支持か不支持かに振り分けられてしまう。「この政策には賛成だが、あの政策には反対だ」という当たり前の態度が、居場所を失う。
私は二〇二五年十月二十四日に行われた高市首相の所信表明演説を聞いて、即座にいくつかの政策の危うさを指摘した。批判ではない。一歩間違えれば致命傷となりうるリスクの指摘である。
ところが、私はたちまち「反高市」のレッテルを貼られた。やっと首相になれたのに、今、批判めいたことを言うな、というわけだ。応援団にとって、個別の政策の検証など野暮であり、足を引っ張るに等しい。「応援するなら責任ある応援をしなくてはならない。盲目的で感情的な応援は無責任だ」といくら言っても、聞く耳を持たない。
「お前は敵なのか味方なのか。味方なら批判は控えろ」
ウチかソトか。ただそれだけである。
気がかりなのは、冷静な分析を提供すべき立場にあるはずのジャーナリストや評論家までもが、「どちらの陣営が正しいか」という道徳の議論に引き込まれていくことだ。そこには、国際政治の核心であるはずの戦略的リアリズム、すなわち感情を排した国益の計算と利害の見積もりが入り込む余地がほとんどない。
こうした空気の中では、議論は本題に入る前に終わる。相手の主張の中身を吟味するより先に、その人物が「どの旗の下にいるのか」というラベル貼りが始まり、貼られたラベルに応じて賛否が自動的に決まっていく。
中身ではなく所属で評価が決まる。この順番の逆転こそが、私たちの議論を空回りさせている正体だ。
「ウチ」と「ソト」―中根千枝が半世紀以上前に書いていたこと
この「所属で決まる」という現象を、社会人類学者の中根千枝は一九六七年の『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)で正面から論じている。
中根は、人間の集団を構成する原理を二つに分けた。「資格」と「場」である。資格とは、性別や血縁、あるいは学歴・地位・職業といった、個人に属する属性を指す。対して場とは、地域や所属機関のように、資格の違いを問わずに一定の枠が人をくくる仕組みを指す。
そして日本社会は、圧倒的に「場」に比重を置く。中根が挙げた例は今なお生々しい。日本人は自分を「記者です」「エンジニアです」と名乗るより先に「A社の者です」と名乗る。他人もまず、その人がどの枠に属しているかを知りたがる。
半世紀以上前に指摘されたこの構造が、そのままタイムラインの上で反復されている。
伝統的な村社会で何より重んじられたのは、「ウチ(仲間)」の秩序を保ち、「ソト(よそ者・敵)」との境界線を明確にすることだった。この構造のもとでは、議論の内容が客観的に正しいかどうかよりも、「お前はウチの仲間なのか、それともソトの人間なのか」という属性の確認が優先される。
だからこそ、どちらにも与しない中立的な分析は座りが悪い。議論の場が、国益を最大化するためのシミュレーションではなく、「私はこの集団に属しています」と表明し合うための同調圧力の場へと変質する。
村の中だけで完結していた時代には、この規範はうまく機能した。限られた仲間内で結束を固め、裏切り者を出さないことが、共同体の生存に直結したからだ。
だが、向き合う相手が顔の見える隣人ではなく、国境の向こうで自国の利益のために動く諸外国となったとき、同じ作法は途端に通用しなくなる。「誠意は通じる」「話せば分かる」という美徳は、利害が真正面からぶつかる外交の場では、致命的な楽観に変わる。
「最後に正義が勝つ」物語の心地よさ
この「ウチ・ソト」の規範に拍車をかけているのが、私たちが慣れ親しんできた勧善懲悪の物語である。
水戸黄門からアニメまで、「最後に正義が勝ち、悪が滅びる」という分かりやすい筋立ては、確かに心地よい。混沌とした現実を、善玉と悪玉のドラマへときれいに整理してくれるからだ。こうした物語を愛すること自体は、何ら悪いことではない。人間にとって自然な営みである。
問題が生じるのは、その図式をそのまま現実の国際政治に持ち込むときだ。
実際の国際政治は「正義と悪の戦い」ではない。「利害と利害の衝突」である。どの国も自国の生存と利益のために動いている。それでも複雑なマクロの因果関係を解きほぐすのは骨が折れる。だから私たちは、つい世界を「ヒーローと悪党」の物語に仕立てて消費してしまう。
ニュースを物語として受け取るとき、私たちは無意識のうちに登場人物に役を割り振っている。あの国は悪役、この指導者は主人公。配役さえ決まれば、あとは結末を応援するだけでよく、思考は驚くほど軽くなる。(イランはテロを支援する悪者だからやっつけろ!)
だが、現実の国際社会に脚本家はいない。誰かがあらかじめ用意してくれた筋書きなど、どこにも存在しないのだ。
欧米も同じ病にかかっている―違うのは制度だ
ここで、当然の反論が出る。二項対立など日本の専売特許ではない、と。
その通りである。米国の民主党対共和党の対立、英国のEU離脱をめぐる亀裂。近年はむしろ欧米の方が激しく見える場面すらある。
いや、もっと踏み込んでいい。米国では、同じ政策が誰の口から出たかによって賛否が反転する光景が日常化している。党の主流に異を唱えた議員には、次の予備選で対立候補が立てられる。村社会の遺産など持たない社会で、純度の高いウチ・ソト現象が起きているのだ。冒頭で述べた通り、二項対立は人間の性癖であって、日本人の欠陥ではない。
ではどこに差があるのか。制度である。
欧米社会には、この性癖を強制的に是正する仕組みが、何世紀もかけて埋め込まれてきた。
第一に、対審制の法廷。弁護人は依頼人に共感するから弁護するのではない。反対の立場を代弁することが職業上の義務だからだ。人と主張の分離が、制度として強制されている。
第二に、行政から独立した議会。ここが日本と決定的に違う。米国の議会公聴会では、与党である共和党の議員が、共和党政権の閣僚を公然と、しかも容赦なく追及する。議員が忠誠を誓う先は政権ではなく、自分を選んだ選挙区と議会という機関だからだ。日本の国会で、与党議員が自党の政権を本気で問い詰める場面をどれだけ見ただろうか。ほとんど記憶にないはずである。
第三に、政権の外に独立して存在するシンクタンク群。政府に雇われず、政府を批判しても飯が食える分析者の層が、厚く存在する。
この三つのどれもが、「集団への忠誠」と「分析の正しさ」を切り離すための装置だ。だからこそ欧米では、「この点では手を結ぶが、あの点では断固として争う」という是々非々の立場が、堂々と居場所を持つ。
日本は、この三つがいずれも弱い。法廷は対審色が薄く、与党議員は政権を守ることを職務と心得、シンクタンクの多くは省庁の外郭にある。性癖は同じでも、ブレーキがない。
だから、こう問い直さなければならない。なぜ日本には、そのブレーキが育たなかったのか。

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