… … …(記事全文15,082文字)日本は「知らなかった」から戦争を始めたのではない。昭和十六年、国家意思決定の失敗
昭和十六年の日本には、対米戦争の帰結をかなり正確に予測した人々がいた。
緒戦では日本が優勢になる。しかし戦争は長期化し、国力の差が顕在化する。物資と船舶が不足し、やがてソ連も参戦し、日本は敗北する。
結果を知っている現代人の後知恵ではない。
真珠湾攻撃の四か月前、一九四一年の夏に、日本国内でその結論に到達していた組織が実在した。
しかも、一つではない。
陸軍省の内部に「秋丸機関」があった。内閣総理大臣の直轄下に「総力戦研究所」があった。ニューヨークには、三井物産の社員になりすまして単身アメリカの国力を測っていた陸軍主計大佐がいた。欧州にはスウェーデン駐在武官がいた。
経済分析、総力戦シミュレーション、現地調査、海外諜報――。
異なる方向から集まった情報が、いずれも同じ方向を指していた。
長期の対米英戦は不可、というものである。
それでも日本は開戦した。
ならば問題は「情報がなかった」ことではない。
情報があり、分析もできていたのに、それを国家意思に変換できなかったことにある。
そして、なぜ変換できなかったのかを突き詰めていくと、最後に一つの障害物に行き当たる。
中国大陸から退けない、ということである。
秋丸機関 ―― 陸軍省自身が調べた英米の経済抗戦力
まず、二つの研究機関の性格を確認しておきたい。
秋丸機関の正式名称は陸軍省戦争経済研究班という。対外的には陸軍省主計課別班と称した。ノモンハン事件と第二次世界大戦勃発を受けた一九三九年九月、陸軍省経理局内に設置されている。陸軍省自身の研究組織だった。
設立の中心にいたのは、陸軍省軍務局軍事課長・岩畔豪雄大佐である。岩畔は満洲国の経済建設に携わっていた秋丸次朗主計中佐を関東軍から呼び戻し、仮想敵国の経済抗戦力を分析させた。秋丸中佐が率いたので秋丸機関と呼ばれる。
しかも、集められた顔ぶれが尋常ではない。
中心にいた有沢広巳は、人民戦線事件で検挙されて東京帝国大学を追われたマルクス経済学者である。宇野弘蔵も同様だ。当時の基準では思想的に「危険人物」とされた学者たちを、陸軍省が起用し、憲兵の目から庇いながら研究させていたのである。一九四一年には『英米合作経済抗戦力調査』『独逸経済抗戦力調査』などがまとめられ、陸軍首脳への説明も同年七月ごろ行われたとみられる。
秋丸機関が見たのは、単純なGDP比較ではない。資源、生産力、貿易、船舶、海上輸送、戦争継続能力である。英米との経済戦力比はおよそ二十対一。開戦から二年間は備蓄で戦えるが、それ以降は日本の戦力が下がり、相手は上がる。差は開く一方で、持久戦には堪えられない。
分析の質は高かった。問題は、そこから先である。
総力戦研究所 ― 内閣直属の「模擬内閣」
もう一方の総力戦研究所は、一九四〇年九月三十日施行の勅令第六四八号によって設置された。内閣総理大臣直轄の機関である。同年八月に閣議決定され、十月一日、企画院内で開所式が行われた。初代所長は星野直樹。
構想は企画院第一部長・沼田多稼蔵の発案とされる。モデルになったのは、英国の帝国国防大学だった。欧州に留学した辰巳栄一や西浦進らが、文官と武官を分けずに人材を育てる英国の方式に着目したのである。「国防大学」という名にしようとしたが、大学という語は文部省の所管でなければ異論が出るというので、西浦が要綱案に使った仮称がそのまま名称になった。
秋丸機関との関係を誤解しないでほしい。二つは並行して存在した別組織である。人員構成も違えば、方法も違う。秋丸機関は経済統計から抗戦力を計算し、総力戦研究所は模擬内閣による机上演習を行った。結論が出た時期はほぼ重なるが、それは相談の結果ではない。別々に調べて、別々に同じ場所に着いたのである。
だからこそ意味がある。
一九四一年四月一日、第一期研究生三十五名が入所する。官僚二十七名と民間人八名。同年七月十二日、二代目所長の飯村穣陸軍中将が第一回総力戦机上演習の計画を発表し、同日、研究生による「模擬内閣」が組織された。
模擬内閣は七月から八月にかけて、想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面を分析した。兵器増産の見通し。食糧と燃料の自給度。輸送経路。同盟国との連携。
そして到達した結論が、これである。
緒戦の勝利は見込まれる。しかしその後は長期戦が必至であり、その負担に日本の国力は耐えられない。終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能である――。
原子爆弾の登場を除けば、現実の戦局推移とほぼ合致していた。
八月二十七日と二十八日、この結論は首相官邸の「第一回総力戦机上演習総合研究会」で、近衛文麿首相と東條英機陸相以下の政府・統帥部関係者を前に報告された。
対米英開戦の三か月前である。
岩畔豪雄 ―― 二つの機関を作り、三つ目の分析を持ち帰った男
ここで、奇妙な事実に行き当たる。
秋丸機関を作ったのも、総力戦研究所が設置された時期に陸軍省の実務を握っていたのも、そして三つ目の分析を海の向こうから持ち帰ったのも、同じ一人の陸軍大佐だった。
岩畔豪雄である。
一九三九年から陸軍省軍務局軍事課長を務めた。陸軍省の実務を実質的に取り仕切った人物で、機密費を自由に使える立場にあったことから、陰で「小大臣」と呼ばれている。陸軍中野学校の創設に深く関与したのも、この男だ。
岩畔は、戦争を武力以前の段階で決着させるべきだと考えていた。だから諜報、科学技術、物流、経済力を重視した。秋丸機関の設立はその発想から出ている。
一九四一年三月、岩畔は駐米日本大使館付武官補佐官としてワシントンへ渡る。そして野村吉三郎大使らとともに、対米開戦を回避する日米諒解案の策定にあたった。
この日米諒解案の内容が、後で決定的に効いてくる。ひとまず先を急ぐ。
諒解案は松岡洋右外相によって反故にされた。交渉の行き詰まりを見た岩畔は、一九四一年七月末に離米する。
そのとき彼が携えていたのが、新庄健吉の報告書だった。
新庄健吉 ―― 公開情報だけでアメリカを測った男
秋丸機関が東京で英米の経済抗戦力を計算していたころ、ニューヨークで同じ作業をしていた日本人がいる。
新庄健吉、陸軍主計大佐である。
この男の経歴を、まず見ておきたい。
一八九七年、京都の農家の三男に生まれた。陸軍経理学校を出たあと、陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部商業科に入り、一九二八年に卒業、そのまま大学院に進んで経営経済学を修めている。修了は一九三〇年。
つまり新庄は、軍人でありながら正規の経済学教育を受けた人間である。
その後の配置も一貫している。陸軍省経理局主計課。一九三五年からはソ連とポーランドに軍事研究員として駐在。帰国後の一九三八年三月には、企画院調査官として財務部に出向している。国家の物動計画を作る中枢に、彼は身を置いていた。
素人が思いつきでアメリカを測ったのではない。訓練された経済分析官が、国家の資源計算を職業として続けてきた末に、対米調査へ送り出されたのである。
一九四一年一月、参謀本部附を命ぜられ、アメリカ出張を命ぜられた。任務は対米諜報。アメリカの国力と戦力を調べ、来るべき戦争の見通しを立てることである。
四月、ニューヨークに到着した新庄が名乗った肩書きは、三井物産ニューヨーク支店の社員だった。事務所はエンパイアステートビルの七階、三井物産支店の中に置かれている。駐在武官府など在米の陸軍機関には出入りしていない。身分を隠すためである。
注目すべきは、その手法だ。
新庄は非合法活動を一切行っていない。盗まず、買収せず、忍び込まなかった。使ったのは政府刊行の統計、業界誌、企業の年次報告書――誰にでも手に入る公開情報だけである。現代の言葉でいえばオシント、公開情報インテリジェンスにあたる。
そして、その公開情報から出てきた数字が凄まじかった。
重工業分野で、日本を一としたときアメリカは二十。化学工業は一対三。そして新庄が報告書に書いた結論は、この差を縮めることは不可能である、というものだった。
彼はこれを参謀本部へ報告書として提出している。
さらに七月、離米する岩畔豪雄にその報告書を託した。帰国後の岩畔が政府と軍の首脳に示した比率は、こうである。日本を一としたとき、鋼鉄は二十。石炭は十。電力は六。アルミニウムは六。工業労働力は五。航空機の生産力は五。自動車の生産力は四百五十。そして石油は、五百。
アメリカという国の恐ろしさは、隠されたところにはなかったのである。
公開されている数字の中にあった。渡米から三か月、休みなく働いた新庄は体調を崩す。十月頃、ワシントンの駐米陸軍武官府に拠点を移すが病状は悪化し、十一月にはジョージタウン大学病院に入院した。そして急性肺炎を併発し、日米開戦を目前にして死去する。四十四歳だった。
ここに、歴史の皮肉としか言いようのない一致がある。
新庄の葬儀が営まれたのは、現地時間の十二月七日。ワシントン市内のバプテスト派教会である。駐米陸軍武官・磯田三郎が葬儀委員長を務めた。
その日が、真珠湾攻撃の日だった。
アメリカの国力を数え上げ、この差は埋まらないと書いた男は、その差が現実の戦争として動き出したまさにその日に、敵国の首都で葬られたのである。
十二月十一日、正五位を追贈された。遺骨が日本へ戻ったのは、翌一九四二年八月二十日である。
自分の出した答えが正しかったことを、彼は確認せずに死んだ。
昭和十六年夏、同じ答えが同じ部屋に届いた
日付を並べてみたい。いずれも1941年である。
七月、秋丸機関が陸軍首脳部への報告を行う。対英米戦の経済戦力比はおよそ二十対一。持久戦には堪えられない。
八月、岩畔が新庄の報告書を携えて帰国する。そして陸軍省、海軍省、参謀本部、軍令部はいうにおよばず、宮内省にまで足を伸ばして説いて回った。数字を並べ、日米が戦って長期化すれば勝算は全くない、と付け加えている。
八月二十七日と二十八日、総力戦研究所の模擬内閣の結論が、首相官邸で近衛首相と東條陸相以下を前に報告される。
わずか二か月のあいだに、まったく別の方法で、まったく別の場所で作られた答えが、同じ人々の前に届いていた。そして、どれも同じことを言っていた。
さらに欧州からも、同じ方向の警告が来ていた。
スウェーデン駐在武官・小野寺信である。日本の中央ではドイツ軍による英本土上陸への期待が強かったが、小野寺は、制空権を奪えなかったドイツが上陸を断念したことを察知していた。むしろドイツがソ連攻撃の準備を進めているという情報を集め、中央に報告している。ラトビアのリガ時代から築いたバルト三国やポーランドの情報士官とのネットワークが、その背景にあった。
経済分析。国家シミュレーション。現地の公開情報。海外諜報。
四つの方法はまったく違う。それでも指している方向は酷似していた。
勝ち筋は、すでに消えていた
しかも、この時点で日本の戦争構想は前提を失っている。
一九四一年十一月、政府・統帥部は「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」をまとめた。ここで露呈しているのは、日本には米国を軍事的に屈服させる方法がなかったという事実である。
そこで考えられたのが間接戦略だった。
英国を先に屈服させる。米国を孤立させる。米国民の戦意を低下させる。そして講和へ持ち込む。
書類上は、たしかに成立している。南方資源地帯を確保して自給圏を作り、ドイツのスエズ・インド洋方面への進出と呼応し、通商破壊で英国を落とす。米国との直接的な決着は最初から想定していない。
だが、ここで巨大な疑問が生じる。
その英国を、誰が屈服させるのか。
一九四〇年のバトル・オブ・ブリテンで、ドイツは英国を屈服させられなかった。英本土上陸作戦は実行されていない。そして一九四一年六月、英国を倒さないまま、ヒトラーはソ連への侵攻を開始した。
日本がシンガポールを落とし、ビルマを占領し、インド洋東部から英国艦隊を追い出したとしても、英国本土そのものは残る。そして米国・カナダから大西洋を渡る英国最大の生命線は、日本海軍には切れない。それを切る役割はドイツのUボートに期待するしかなかった。
つまり「西進して英国を屈服させる」は、日本単独の必勝戦略ではない。
ドイツが優勢であり続けることを前提とする、枢軸共同戦略だった。
他力本願を戦略と呼ぶことは極めて危険で不適切である。
ならば、ドイツが英本土攻略に失敗し、ソ連との巨大な陸上戦争に入った時点で、導くべき結論は「それでも西進すれば勝てる」ではない。
勝利条件そのものが崩れた以上、米英との戦争を始めてはならない、であったはずだ。
分析は揃っていた。前提の崩壊も見えていた。
それでも、開戦した。
「幻の報告書」は焼かれていなかった
秋丸機関の報告書は、結論が国策に反するとして焼却された。長らくそう語られてきた。
これは誤りである。
一九八八年、有沢広巳の没後に東京大学へ寄贈された蔵書の中から、『英米合作經濟抗戰力調査』が現れた。焼かれていなかったのである。しかも一九四二年に刊行された秋丸機関の資料には、当班が既に刊行流布したものとして自らの報告書に言及した記述がある。機密指定はされたが、配布はされていた。
「不都合だから握り潰した」という構図ではない。
研究成果は破棄されてもおらず、秘匿もされなかった。米国から帰国した岩畔豪雄は、新庄健吉のレポートを、陸軍省、海軍省、参謀本部、軍令部、そして宮内省にまで、考えうるかぎりの部署に、自分の足で届けている。
それでも何も変わらなかった。
参謀本部での会合では「日米開戦は避けがたい」と堂々と反論され、岩畔が「勝算はあるのか」と問い返すと、「もはや勝敗は問題ではない」という答えが返ってきたという。
八月、岩畔は東條英機陸相に直談判したが、その直後に近衛歩兵第五連隊長への転出を命じられる。以後、中央に戻ることはなかった。
では、何が撤退を阻んだのか。答えは中国大陸にある。だが、その「中国大陸」が何を指していたかを知ると、この話はもう一段暗くなる。
アメリカが求めた撤兵に、満洲は含まれていなかった

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