… … …(記事全文17,573文字)米国が、日本人のICC所長を制裁した。日本政府の反応は「大変残念」だった。
本稿では、この事件を糸口に三つのことを論じる。米国はなぜ法廷ではなく制裁を選んだのか。ICCという制度は本当に公平なのか。そして——日本政府は、北朝鮮による日本人拉致について、ローマ規程が与えた権利を本当に使ったのか。「大変残念」で済ませてよいのか?
国際刑事裁判所――ICCを巡って、奇妙な事態が起きている。
トランプ政権は二〇二六年八月十八日、ICCの赤根智子所長を制裁対象に指定した。同時に指定されたのは、セネガル出身のICC上級法廷弁護士アブドゥライェ・セエ氏である。根拠は二〇二五年二月付の大統領令だ。
制裁により、対象者の米国内資産は凍結され、米国への渡航は禁止される。米企業や米国民との取引も禁じられる。クレジットカード一枚が使えなくなる可能性すらある。
理由の中心にあるのが、ICCがイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相とヨアブ・ガラント前国防相に対して二〇二四年十一月二十一日に発付した逮捕状である。米兵の戦争犯罪捜査を巡る決定も理由に挙げられている。ルビオ国務長官は、ICCの管轄権に同意していない国の政府関係者の訴追に関与したことを問題視する声明を出した。
米国はICCに加盟していない。イスラエルも加盟していない。
それにもかかわらずICCがイスラエルの首相に逮捕状を出すのは主権侵害であり、越権行為だ、というのが米国側の基本的な主張である。
制裁は赤根氏一人にとどまらない。報道によれば、これまでにICCの裁判官と検察官ら計十一人が制裁対象となっている。ICCの裁判官定数は十八人だ。裁判官の相当部分が、特定の一国から金融制裁を科されている。
戦後の国際秩序の歴史において、常設の国際司法機関の長が一国から名指しで制裁されるという事態は、前例を探すのが難しい。
では、日本政府は何と言ったか。
高市早苗首相は八月十九日、首相官邸で記者団にこう述べた。
「大変残念に思っている。これからも米国を含む関係国と意思疎通を継続しながら対応していく」
これに先立ち、外務報道官談話も出ている。日本はICCを一貫して支持してきた立場から今回の措置は「大変残念だ」とし、引き続き関係国と意思疎通を取りつつ法の支配の強化に取り組む、という内容である。
「遺憾」ですらない。「残念」である。
日本語の外交文法において、「遺憾」と「残念」の間には明確な段差がある。前者は抗議の入口に立つ言葉であり、後者は感想の域を出ない。日本が送り出した人物が、日本が最大の資金を出している国際機関のトップとして、同盟国から資産凍結を科された。それに対する言葉が「大変残念」だ。これはかなり弱い。
一方で、強い言葉を発したのは政府ではなかった。
超党派の「人権外交を超党派で考える議員連盟」共同代表を務める中谷元・前防衛相らは同じ十九日、緊急声明を出し、今回の措置を法の支配に対する重大な侵害として最も強い言葉で非難した。声明は日本政府に対し、首相や外相の名で明確な抗議と制裁の即時撤回要求を表明するよう求めている。そのうえで、日米同盟の堅持と法の支配の擁護は二者択一ではない、と釘を刺した。
政府より、議員団のほうが踏み込んでいる。
しかし、である。
私はここで、単純に「米国が悪い」「ICCを守れ」という話に持ち込むつもりはない。
なぜなら、この問題を掘り下げていくと、戦後の国際秩序そのものが抱えてきた巨大な矛盾が浮かび上がってくるからだ。そして日本自身が、その矛盾の前で長年何もしてこなかったという不都合な事実も、同時に浮かび上がってくる。
順を追って説明したい。
そもそもICCとは何なのか ── ICJと混同してはならない
しばしば混同されるが、ICJ=国際司法裁判所と、ICC=国際刑事裁判所はまったくの別物である。
ICJが基本的に「国家対国家」の紛争を扱う国連の主要司法機関であるのに対し、ICCが裁くのは「個人」だ。
大統領であろうが、首相であろうが、軍司令官であろうが関係ない。ジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪、侵略犯罪という四つの中核犯罪について、個人の刑事責任を追及する。
その根拠となる条約が「国際刑事裁判所に関するローマ規程」である。一九九八年七月十七日に採択され、二〇〇二年七月一日に発効した。締約国は現在百二十五か国。
ここが極めて重要である。
ICCは「世界政府が作った裁判所」ではない。ローマ規程という国際条約に参加した国々が、条約によって作った常設刑事裁判所である。
条約である以上、その効力は原則として当事国にしか及ばない。この当たり前の法理が、以下すべての議論の土台になる。
日本は二〇〇七年七月十七日に加入書を国連事務総長に寄託し、同年十月一日に正式な締約国となった。
ICCは世界中の犯罪者を自由に裁けるわけではない
「人道犯罪が犯されたら、世界中どこにいてもICCの追求の対象になる」
そう考えている人がいるかもしれない。
そう単純ではない。ICCには三重の壁がある。
第一に、対象犯罪の壁。ICCが扱えるのは前述の四類型のみである。
第二に、時間の壁。ローマ規程が発効した二〇〇二年七月一日より前の犯罪は原則として扱えない。加えて、後から加入した国については、その国について規程が発効した日より後の犯罪に限られる。
第三に、場所と国籍の壁。原則として、犯罪が締約国の領域で行われたか、犯罪者が締約国の国民であるかのいずれかが必要になる。非締約国が特別に管轄を受け入れた場合も含まれる。
ここで早くも巨大な問題が発生する。
中国はICC加盟国ではない。北朝鮮も加盟国ではない。米国も加盟していない。ロシアも加盟国ではない。イスラエルも加盟国ではない。
つまり、国際社会で最も大きな軍事力や政治力を持つ国家のかなりの部分が、ICCの外にいる。
「世界で最も重大な犯罪を裁く常設裁判所」という壮大な看板を掲げながら、肝心の大国に司法権を直接及ぼせない。
これだけでも、ICCという制度に根本的な弱点があることが分かる。そもそも、加盟国は人権犯罪を許さないという立場にある国々である。その加盟国にしか管轄権が及ばないシステムに最初から限界があるのは自明の理である。
ではなぜネタニヤフには逮捕状を出せたのか
当然の疑問が生じる。
イスラエルがICCに加盟していないなら、なぜネタニヤフ首相に逮捕状を出せたのか。
ICC側の論理はこうだ。
被害国のパレスチナがローマ規程の締約主体だからである。
ICCは、ガザとヨルダン川西岸、東エルサレムについて自らの領域的管轄が及ぶという立場を取っている。
したがって、「イスラエル人だから裁く」のではない。
「ICCの管轄が及ぶ領域で犯罪が行われた疑いがあるから、行為者が非加盟国イスラエルの国民であっても裁ける」
という理屈である。
前節の「場所と国籍の壁」を思い出していただきたい。壁を越える条件は二つあった。犯罪地が締約国領域であるか、犯人が締約国国民であるか。ICCは前者を援用しているのだ。
もちろんイスラエルは激しく反論している。
そもそもパレスチナに、イスラエル国民に対する刑事管轄権をICCへ委譲する権利があるのか。国家性そのものが争われている実体に、他国民を裁く権限を渡す資格があるのか。
さらに、イスラエル自身に独立した司法制度がある以上、国内司法を補完する機関にすぎないICCが介入する条件――補完性の原則――を満たしているのか。
この論争は現在も法廷で続いている。
したがって、「ICCの逮捕状が出た。だからネタニヤフは犯罪者だ」と短絡するのも、「イスラエルは加盟国でない。だからICCには何の管轄権もない」と断定するのも、どちらも問題を単純化しすぎている。私個人はガザで行われていることは戦争犯罪だと思っているが。
いま日本人が注目すべきは、この論争の勝敗ではない。
ICCが採用した論理そのものである。
「犯罪が行われた場所が締約国の領域なら、犯人が非締約国の国民でも裁ける」
この論理を、そのまま日本に当てはめてみたらどうなるか。
同じ論理を、日本人拉致に当てはめる
北朝鮮はICC加盟国ではない。
しかし、日本は加盟国だ。
そして、横田めぐみさんをはじめ、多くの日本人が日本国内から北朝鮮工作員によって連れ去られた。日本政府が公式に認定している拉致被害者は十七名。うち五名が帰国し、十二名がいまだ帰らない。加えて、拉致の可能性を排除できない失踪者として八百七十一件が調査対象となっている。
日本領内で行われた犯罪である。
ネタニヤフ逮捕状を支えている論理をそのまま適用すれば、ICCの対象になり得るのではないか。
これは日本人にとって、極めて重要な問いである。
ところが、ここに別の壁が立ちはだかる。
時間の壁である。
日本がローマ規程を受け入れたのが二〇〇七年十月一日。一方、日本政府が認定している拉致事件の多くは一九七〇年代から八〇年代に起きている。
ICCは原則として、自らの管轄権が発生する以前の犯罪を遡って裁くことができない。
つまり、「日本国内で拉致された」という領域的条件だけを見ればICCとの接点はある。しかし「拉致された時期が日本のICC加盟以前」という時間の壁が立ちはだかる。
ここで一点、付言しておきたい。
ローマ規程第十一条二項は、後から加入した国について、その国に規程が発効した後の犯罪しか扱えないと定めている。ただし、この条文には但し書きがある。当該国が第十二条三項に基づく宣言を行った場合は、この限りでない。
つまり、加入国は宣言によって、二〇〇二年七月一日まで遡ってICCの管轄を受諾する道が制度上開かれている。実際ウクライナは非締約国のまま、二〇一三年十一月以降の自国領域内の犯罪について管轄受諾宣言を行い、それによってICCの捜査が可能になった。
日本は二〇〇七年の加入に際して、そのような宣言を行っていない。
二〇〇二年から二〇〇七年の五年間を取り戻したところで、一九七〇年代の拉致には届かない。だが、日本がローマ規程に加入する際、この制度を最大限に使い切るという発想を一切持たなかったという事実は、記憶しておく価値がある。
「拉致」は一瞬の犯罪なのか、今も続く犯罪なのか
しかし、ここで議論は終わらない。
拉致された瞬間にすべての犯罪が終了した、と考えるべきなのだろうか。
家族には所在を明らかにしない。本人を帰国させない。生死すら明らかにしない。国家が本人を法の保護から切り離した状態を、何十年も継続する。
国際人権法では、これを「強制失踪」(enforced disappearance)という極めて重大な人権侵害として扱う。
国連の強制失踪作業部会は、強制失踪を「典型的な継続的行為」と位置づけ、国家が拘束を認めるか、被害者の運命・所在に関する情報を明らかにするまで犯罪は継続する、との立場を示している。
そしてローマ規程第七条は、広範または組織的な攻撃の一部として行われる強制失踪を「人道に対する罪」として明記している。
国連の北朝鮮人権調査委員会(COI)は二〇一四年、北朝鮮による国家政策としての大規模な拉致・強制失踪が人道に対する罪を構成すると認定した。
ならば、こう考えられるはずだ。
一九七〇年代に始まった拉致であっても、強制失踪という犯罪状態が二〇〇七年十月以降も継続しているなら、ICCの時間的管轄に入るのではないか。
ローマ規程の「犯罪の構成要件」(Elements of Crimes)は、人道に対する罪としての強制失踪について、それが広範または組織的な攻撃の一部として行われることを要件とする。そして、その攻撃そのものが規程発効後に存在していなければならない、と解釈する余地がある。
拉致が広範でかつ、組織的な攻撃の一部であることは明らかである。時間的制限についても、被害者団体などは「強制失踪は現在も継続しているのだからICCには時間的管轄がある」と主張する。
一方、構成要件を厳格に読めば、拘束の開始そのものがICCの時間的管轄発生後でなければならない、という解釈も成り立つ。
議論は決着していない。
つまり拉致問題について、「日本は加盟国だから当然ICCで裁ける」とは言えない。
だが同時に、「昔の事件だから絶対に無理だ」と切り捨ててよいほど単純でもない。
法解釈が割れているということは、争う余地があるということだ。
そして、割れた法解釈を決着させる場所は、外務省の内部資料ではない。法廷である。
問題は、誰がその法廷に立つのか、である。
民間はすでに挑戦している。では政府は何をしたのか
ここで、あまり知られていない事実を紹介したい。
拉致問題をICCに持ち込む試みは、一度もなかったわけではない。
特定失踪者問題調査会は平成三十年――二〇一八年一月、ICCへの申し立てを行った。その際、失踪者のリストを提出している。
被害者側は、動いていたのである。
しかし、捜査は開始されていない。
ここで多くの人はこう考えるだろう。
民間が挑戦して駄目だったのだから、政府がやっても同じではないか。
それは違う。
同じ「ICCに訴える」という言葉を使っていても、民間団体がやったことと、日本政府にできることは、法的にまったく別の行為である。
民間団体にできるのは、情報を提供することまでだ。
日本政府にできるのは、「付託」である。
そして日本政府は、二〇〇七年の加盟から今日まで、北朝鮮による日本人拉致をICCに付託していない。
この差が何を意味するのか。
そこを理解しなければ、この問題の核心には届かない。
「付託」とは何か ── 引き金であって、告発ではない
まず、最も多い誤解を潰しておく。
付託とは、起訴ではない。
告発でもない。誰かを被告席に座らせる手続きでもない。
ローマ規程が定める「付託」(referral)とは、ICCという機械のスイッチを入れる行為である。国際法学の世界では、これを「トリガー」――引き金と呼ぶ。
ローマ規程第十三条は、ICCが動き出す契機として三つの引き金を定めている。締約国による付託、国連安保理による付託、そして検察官の職権による捜査開始の三つだ。このいずれか一つが引かれなければ、ICCは一歩も動かない。
そして、付託の対象は「事態」(situation)であって、「事件」でも「人物」でもない。
たとえばウクライナの事態を付託した国々は、プーチン大統領を名指しで告発したわけではない。「ウクライナ領域で起きている一連の出来事」という事実を検察官の前に置き、判断と行動を委ねたのである。その枠の中で誰を捜査し、誰に逮捕状を請求するかは、ICCの検察局が独立して決める。
つまり付託国は、被告人を選べない。裁判の結論もコントロールできない。
これは弱く見える。だが同時に、付託という行為は、政治的コストを下げる仕組みでもある。国家は「この地域で重大犯罪が起きている疑いがある」と申し立てるだけでよい。個人を名指しする責任は負わない。
「特定の個人を刑事訴追するなど外交上できない」
日本の政治家がしばしば口にするこの躊躇は、付託の仕組みを理解していれば的外れである。
付託は、個人の名指しではない。
付託とは、検察官に「なぜやらないのか」を書かせる権利である
ここからが、本稿で最も重要な部分である。
付託の真の価値は、捜査を始めさせることではない。
付託した国は、検察官が動かなかったときに、その判断を裁判所に審査させる資格を得る。
ローマ規程第五十三条には次のようにある。
一項は、付託を受けた検察官に対し、捜査を開始する合理的な基礎があるかを検討する義務を課す。
二項は、訴追しないと判断した場合、その結論と理由を予審裁判部および付託国に通知することを義務づける。
そして三項(a)。第十四条に基づき付託を行った国の請求があれば、予審裁判部は検察官の不開始決定を審査し、再考を要請することができる。手続規則第百七条一項により、付託国は決定の通知から九十日以内に審査を請求できる。
これが何を意味するか。
付託した国は、検察官の「やりません」という判断を、独立した裁判官の前に引きずり出せるのである。
理由を書かせ、審査させ、誤りがあれば再考を命じさせることができる。ただし、これは誰かを訴える権利ではない。検察官が動かなかったこと自体を、裁判官に審査させる権利である。日本の刑事手続で言えば、公判ではなく、不起訴処分に対する不服申立てに近い。国家がICCの手続の中で発言権を持つ、唯一の入口がここにある。
そして―ここが致命的に重要なのだが―この資格は、被害者にも民間団体にも与えられていない。
個人や団体もICC検察官に情報を提供できる。ローマ規程第十五条に基づく通報(communication)である。
しかしこれは、法的には郵便物にすぎない。ICC自身の説明でも、個人や団体からの通報は締約国や安保理からの付託と混同されるべきではない、と明記されている。実際、開設から二〇一〇年九月末までにICC検察局が受け取った通報は八千八百七十四件にのぼり、初期審査の段階で四千件超が「明白にICCの管轄外」として退けられた。
そして通報者には、その判断を争う手立てがない。予審裁判部に審査を求める資格がないからだ。
整理しよう。
民間の通報――検察官が読む。読まないかもしれない。「管轄外」の一行で終わる。反論できない。記録も残らない。
国家の付託――検察官は検討義務を負う。結論と理由を書面で通知しなければならない。不服なら九十日以内に予審裁判部の審査を請求できる。裁判官が誤りを認定すれば、検察官は再考させられる。すべてが公開記録に残る。
同じ「ICCに訴える」でも、この二つはまったく別の行為である。
片方は手紙。もう片方は、国家が国際法廷の扉を蹴り開ける行為だ。
人口八十万の島国が、三度も検察官を屈服させた
これは机上の理屈ではない。
二〇一三年五月、インド洋の小国コモロ連合が、ある事態をICCに付託した。二〇一〇年五月、ガザに向かう人道支援船団に対しイスラエル軍が行った急襲――マビ・マルマラ号事件である。乗客九人が死亡した。
翌二〇一四年十一月、ICC検察官は捜査を開始しないと決定した。理由は「重大性が不十分」である。
普通なら、ここで終わる。
しかしコモロは終わらせなかった。第五十三条三項(a)に基づき、ICC予審裁判部に審査を申し立てたのである。
二〇一五年七月、予審裁判部第一部は、検察官が重大性の評価において重大な誤りを犯していると認定し、再考を要請した。
検察官は上訴を試みたが、認められなかった。二年の再検討を経て、二〇一七年十一月、検察官は「最終決定」として従前の判断を維持する。
コモロは、二度目の審査を申し立てた。
二〇一八年十一月、予審裁判部は、検察官の「最終決定」は最終とは認められないとして、三たび再考を命じた。検察官は上訴して争い、二〇一九年九月の上訴裁判部の判断を経て、同年十二月、二度目の再考を実施することになった。
人口約八十万人。インド洋に浮かぶ島国である。
その国が、締約国付託という一枚のカードを切り、六年以上にわたってICC検察局と法廷で戦い、二度にわたって再考を強いた。しかも相手は、イスラエル軍の行為である。
結果として捜査は開始されなかった。だが、それが重要なのではない。
コモロは、なぜICCが動けないのかを、国際社会の面前で公開の司法記録として残させた。
判断の誤りを裁判官に認定させ、検察官に書面で説明させ、その全過程を歴史に刻んだ。
これが「付託」という武器の実力である。
日本はICC最大の支援国である
ここで日本の立場を確認しておきたい。
日本はICCの単なる加盟国ではない。
在オランダ日本国大使館の記載によれば、日本は全締約国中で最大の分担金拠出国であり、二〇二四年の分担率は約十五・四パーセント、金額にして約三十六億九千万円を負担している。被害者信託基金に対しても、二〇一四年以降で累計約百万ユーロを拠出してきた。
人材も出し続けてきた。齋賀富美子判事、尾崎久仁子判事、そして赤根智子判事。加盟以来、日本人裁判官が途切れたことはない。赤根氏は二〇二四年三月、日本人として初めてICC所長に選出された。
二〇二五年十一月には、茂木外相が二〇二六年末のICC裁判官選挙の候補者として山内由光・国際司法協力担当大使を指名している。
さらに二〇二六年一月七日、高市首相は表敬に訪れた赤根所長に対し、日本は法の支配を重視しており、ICCと赤根所長を力強く支援していく旨を述べた。
金も出す。人も出す。首相が直接、力強い支援を約束する。
ここまで踏み込んでいる国は他にない。
そして、決定的な事実がある。
実は日本政府は、締約国付託という手続きを、すでに一度使っている。
二〇二二年三月、ウクライナの事態である。
ロシアの侵攻を受け、日本はICC検察官に対しウクライナでの戦争犯罪等の捜査開始を求め、事態を付託した。合計四十三か国が同様の付託を行っている。在オランダ日本国大使館は、この付託を日本のICCへの貢献の実績として明記している。
手続きを知らないわけではない。前例がないわけでもない。外交上不可能なわけでもない。
日本は、ウクライナのために引き金を引いた。しかし、日本人拉致被害者のためには一度も引かなかった。
八千キロ先の外国には抜いた刀を、なぜ自国民のために抜かないのか
事実を並べてみよう。

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