… … …(記事全文2,280文字)
前回から随分間が空いてしまった。
実は2月6日より、東京1泊2日、東京日帰り、九州1泊2日、4月上旬に出版予定の本の原稿締め切りも重なり、私にとっては「死のロード」とでも言うべき、過激なスケジュールの日々を送っていた。
数日の休息ののち本日ようやく本調子に戻った次第だ。
移動の際、新幹線の車内などで読んでいたのは『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也著、新潮文庫)というノンフィクションだ。
格闘技にはほとんど興味がない私がなぜ読んでいるかと言うと、著者の増田氏とおそらく来月あたりに対談することになるからだ。
増田氏は私の高校(愛知県立旭丘高校)の後輩で、ご指名がかかったとのこと。
このタイトル、読む前には随分奇をてらったタイトルだなあと思ったが、読んでみると逆に、なぜ殺さなかったのだろうと思えてくる。
それほど木村政彦ら柔道家は命掛けでその道を歩んできたのである。
負けたら切腹、卑怯な相手に対しては相手を殺して自分も死ぬというくらいの心構えなのである。
木村政彦は1917(大正6)年、熊本県生まれ。
旧制鎮西中学(のちの鎮西高等学校)4年(戦後の高校1年)では講道館四段を取得し、全国大会では大将として鎮西を率い、同校を優勝に導く。
「熊本の怪童」「九州の怪物」と称されるようになる。
1935年(昭和10)、同じく熊本出身で「鬼の牛島」と呼ばれる拓殖大学の牛島辰熊が彼を自宅に住まわせ、自分の夢を託す。
一日に10時間もの時間を稽古やトレーニングに費やし、立ち技、寝技の両方をものにし、1937年から13年連続、全日本選手権を保持。
1940年(昭和15、皇紀2600)には天覧試合を制する。
特に天覧試合を制することは師である牛島の悲願だった。
彼はまた15年間の不敗記録を持ち、師匠と同様、「鬼の木村」と呼ばれ、
「木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし」とも称せられるようになるのだ。
戦後、プロレスに転身し、力道山との対戦となるが、その件については割愛する。
私が今回、やはりそうかと感じたのは、木村政彦の名を出すと、男性陣が驚くべき食いつきっぷりを示すということだ。
当然その名を知っていて、「鬼の木村」も「1日10時間の練習」も、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」の言葉もスラスラ出てくる。しかも「1日10時間も練習したら、普通体を壊しますよね」などという感想がつく。
実を言うと、女は格闘技にはほとんど興味がない。
強い男が好きで、筋肉フェチの女もいるにはいるが、少数派だ。
女は、強い男よりも美しい男のほうが好きなのである。
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