… … …(記事全文3,343文字)高市早苗さんが、昨日の自民党総裁選の告知日に開催された初演演説会で、万葉集の和歌を披露されたり坂本龍馬の『日本を洗濯いたし申し候』という言葉を引用しながら、総裁選にかける思いの根底をお話しされました。
いろいろな感じ方やご意見がおありだと思いますが、当方は大変に感銘を受けました。
あまりに自分の本心をさらけ出してしまうと批判する向きも現れ、「総裁選」にどの様な影響が及ぶか分からないが故に、他の4人の候補者達のように、淡々と美辞麗句を並び立てながらブレーン達と(あるいは、ブレーン達がw)まとめた公約を粛々と説明するという当たり障りのない演説をされるのが一般的な中――高市さんは、このままでは日本が滅びる、この滅び行く日本を何とか立て直したい、その為に、自分にでき得る全てのことに、文字通り命がけで全力で取り組みたい―――その思いが、あの万葉集や坂本龍馬の言葉の引用に現れていたのだと感じたからです。
高市さんは、文字通り命がけで覚悟を決めて、この戦いに挑んでおられることがひしひしと伝わってくる―――そんな演説だったのです。
その演説の冒頭で高市さんがお話しされたのが、「外国人問題」です。
よくご言ってくださったと、大変意気に感じた次第です。
外国人問題をことさらに口にすれば、排外主義だと批判されるリスクが常につきまとう空気が濃密にあるなか、正直に、一人一人の庶民の心に届く形で、外国人が奈良の鹿を傷付け、寺社仏閣を冒涜する振る舞いを何とかやめさせねばならないと訴えられたのです。
ただし、彼女はその時、外国人の方々との共生が如何に大切なのかも切々と語られました。
つまり彼女はただ単に外国人に対する排斥主義を打ち出したのでは無く、「共生を前提とした排除」こそが必要であることを、逆に言うのなら「排除を前提とした共生」の必要性を切々と訴えられたのです。
実は当方、この演説を聴く直前にとある雑誌にて、まさにこの外国人問題における「共生と排除の調和」の必要性を論じておりました。
その原稿をまとめた直後に高市さんの演説を目にしたことで、さらに当方、大いに感銘を受けたと言う次第です。
ついては、読者の皆様に、「共生と排斥の調和」とは、一体如何なるものなのか、その思想哲学的議論の一端を、如何にご紹介差し上げたいと思います。
是非、ご一読下さい。
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令和哲学指南:「移民」問題を乗り越えるための「保守とリベラル」の議論
今年の参議院選挙では、「ジャパンファースト」を唱える参政党が大躍進を遂げました。欧米メディアはこれを「外国人移民」に対する国民的反発を背景とした「極右政党の台頭」という文脈で紹介しているようです。つまり、ドイツのAfDやフランスの国民連合の躍進などと同列に参政党の躍進が語られているわけです。
欧米、そして我が国のメディアはこうした「極右政党の躍進」は批判的に報道するのが一般的ですが、それは先進諸国のマスメディアは概して「リベラル」(自由主義)な思想的立場に立っているからです。そうしたリベラルの立場からみれば、外国人移民に対する国民的反発は「排外主義的」であって不道徳で非倫理的な態度だという次第です。
つまりリベラル主義においては「自由」こそが最も尊重されるべき崇高なるものであり、外国人移民となる自由、移民として外国に住み続ける自由もまた尊重されねばならないという議論が成立するわけです。
ただし思想的に言えば、「外国人移民に対する反発」は「保守主義」(コンサーバティズム)という立場に立てば正当化し得るものであり、必ずしも不道徳で非倫理的とは限りません。「極右」というのはあくまでも移民に対する国民的反発を不道徳、非倫理的と糾弾したいマスメディアの「レッテル張り」に過ぎないわけです。
「保守主義」とは、あらゆる共同体(例えば国家や民族)には、母国語を中心とした伝統的文化あり、そしてその共同体の秩序や存続、そしてその共同体の構成員の安寧や幸福にとって伝統的文化は必要不可欠なものであり、それ故に尊重されるべきだと考えます。したがって当該の国家の伝統的文化を共有しない外国人移民は、排除されることこそが道徳的、倫理的に正当だという論理が成立します。
この様な「自由」と「伝統」、いずれを尊重するのかの対立は一般に「リベラルと保守」と思想的に整理され…

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