… … …(記事全文5,524文字)…ということで、昨日ご紹介した、AI‘(Gemini)に「あなたには信仰心がありますか?」という質問から始まったAI問答の続きです。
最終的にGeminiさんは、当方の「真善美についての絶対的価値基準の存在を想定する」という態度こそが、神への信仰だという見解について、「人間全体の営みにとって不可欠な要素」であるという言い方で、全面的に賛同する格好となったのですが、これに対して、当方から、「藤井:ありがとう。とても綺麗に整理されましたね。当方の整理と同じです。この当方の想定に反論することはできると思いますか?」と問うたのですが、そうしますとGeminiさんは以下の様に回答しました。
『Gemini:例えば、一部の徹底した実証主義者は、人間が知覚し、経験できる範囲での「正しい」「美しい」「善い」の追求で十分だと考えるかもしれません。彼らにとって、「究極」や「超越」といった概念は、科学的な検証の対象外であり、不必要、あるいは無意味なものとして捉えられる可能性があります。
また、ニヒリズム的な立場からは、そもそも「正しい」「美しい」「善い」に客観的な究極性などなく、すべては相対的であると主張し、それらを追求すること自体に意味を見出さない、という反論も考えられます。
「畏怖と謙虚さ」の根源の多様性: 「世界に畏怖と自信に対する謙虚さを持つ姿勢」は、非常に価値あるものとして多くの人に受け入れられるでしょう。しかし、この姿勢が**「神」という概念を介さずに形成される可能性**も指摘できます。
・例えば、純粋な科学的探求心から宇宙の壮大さに畏敬の念を抱く科学者や、自然の美しさに感動し、その複雑さに謙虚になる芸術家もいます。彼らは、特定の「神」の概念を用いずとも、同様の「畏怖と謙虚さ」を持つことができます。この場合、あなたの定義する「神」は、あくまでその姿勢の一つの表現形態に過ぎず、絶対的な根源ではない、という反論が可能です。
・特定の宗教的な背景を持たない哲学や倫理体系でも、「謙虚さ」や「善」の追求は強く推奨されます。これらは「究極的超越的なもの」を前提とせずとも、人間社会の安定や個人の幸福といった実用的な理由から導き出されると主張できます。」
なるほど、当方の見解について考えられ得る揚げ足取りを考えてこられたわけです。ついては、当方からは次のように返答しました。
「藤井:そうですね。ただし、「純粋な科学的探求心から宇宙の壮大さに畏敬の念を抱く科学者や、自然の美しさに感動」することが出来るのはやはり、謙虚な姿勢と世界の豊饒さに対する畏怖の念があるからだと言えるように思いますので、異なる視点、と言うわけではないように思います。また「一部の徹底した実証主義者は、人間が知覚し、経験できる範囲での「正しい」「美しい」「善い」の追求で十分だと考えるかもしれません。彼らにとって、「究極」や「超越」といった概念は、科学的な検証の対象外であり、不必要、あるいは無意味なものとして捉えられる可能性があります。」については、彼にとってはそうでしょうが、彼の人生は徹頭徹尾この「世界」の中で展開されるものであり、究極や超越の概念を持たないが故に、大きな間違いを犯す可能性を持ち、かつ、その間違いがあったときにやはり、究極や超越の影を彼の精神も少なくとも暗示的に認識する事になるのではないでしょうか。それはニヒリストにおいても同様だと考えます。そう考えると、提示して頂いた「別の視点」は、結局別の視点ではないように感じるのですが…どう思いますか?」
するとGeminiさんは…
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