━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 板垣英憲(いたがきえいけん)情報局 ~マスコミに出ない政治経済の裏話~ 2021年12月27日 ◆─── - - - - - - - - ───◆ 世界の政治・軍事・経済・金融を支配するパワーエリートの動きやその底流で 行われている様々な仕掛けなどを中心に、重要情報(特ダネ)をキャッチして速 報する。 政治評論家 板垣英憲 ◆─── - - - - - - - - ───◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ NHK大河ドラマ「青天を衝け」が最終回を迎えた。渋沢栄一は晩年、戦争回避のため民間外交に心血を注ぎ、「人形による国際交流」もそのひとつだった。栄一が危惧した当時の日本は、いまの日本と似ている。 ─────────────────────────────────── 渋沢栄一の生涯を描いたNHK大河ドラマ「青天を衝け」が26日、最終回を迎えた。あらためていま、渋沢栄一の晩年について特筆すべきは「人形による国際交流」であるだろう。ドラマでは深く描かれていなかったのでぜひここに紹介したい。 当時の日本の置かれた状況は、いまの日本と似ているといっていい。一触即発で、世界紛争にいつ巻き込まれてもおかしくない状況のなか、渋沢栄一は、戦争回避のため民間外交に出来る限りの力を注いだ。そのひとつが、「人形による国際交流」だった。日露戦争後、日米関係が悪化するなか、日本がロシアに代わり満州に進出を始めたことに対して、米国が警戒するようになり、日本人排斥運動が過激になり、遂には一九二四年五月、米国で排日移民法が成立て、日本人の移民が禁止され、日本では、「反米ムード」が盛り上がってしまった。この日米の関係悪化に渋沢栄一は心を痛めていたのであった。 このとき日本が置かれた状況は、今日の世界情勢のなかの日本と似ているところがある。つまり、渋沢栄一が晩年危惧していた日本の置かれた状況と、今日の日本が置かれた状況が似ているということでもある。以下、「渋沢栄一に学ぶ」(「法人うらわ」2000年新年号より掲載)より「人形による国際交流」を掲載し、晩年の渋沢栄一が心血を注いだ「戦争回避」への思いを新たにして頂きたい。 ◆国際親善に尽力 渋沢栄一は終生、民間経済外交に情熱を傾けた。明治三十五年(一九〇二)に欧米を視察して以来、民間経済人が国際社会で活躍するための組織をつくり続けた。渋沢栄一は、民間外交の要として行動するとともに、経済人を鼓舞した。 民間外交の母体となったのが、渋沢栄一が育てた商業会議所だった。次に自由主義団体である大日本平和協会、日米有志協議会、日米協会、日米関係委員会、国際連盟協会などを組織し、中心的な存在として活動した。このなかで国際連盟協会では、資金集めの運動を起こして奔走した。 渋沢栄一は民間経済人が国際社会で活躍するには、相手国の政治、経済、歴史、文化などすべての面でバランスの取れた理解を持つことが不可欠と考えていた。こうした確固とした信念とビジョンを持ち、自らリーダーシップを発揮した。渋沢栄一は第一銀行頭取や東京商業会議所をはじめ五百以上の企業や経済団体の役員を兼務していたので、その広範な人脈と実績が物を言ったのである。また国際的知名度も高かった。… … …(記事全文5,128文字)
板垣英憲(いたがきえいけん)情報局 ~マスコミに出ない政治経済の裏話~
板垣英憲(政治評論家)