□■□■【反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説】 ■□■ □■ 天木直人のメールマガジン2014年7月5日号外 ■ ============================================================== 短編第六作の紹介 ============================================================== 以下の通り短編第六作を紹介します。 やさしさでけでは、人を幸せにする事もできないし、自分も幸せにはなれない。 それは少しでも社会で生活を始めたものなら誰もが知ることだ。 しかしそれでもやさしさは大切だ。 いや、生きていく上で、やさしさこそが一番重要なものだ。 やさしさだけがあればいい。 皆がそう思うような世の中になればいいのだ。 これはそう思わせるお語である。 やさしさだけが 日曜日の朝は、妻の裕美と二人の子供を連れて近くの公園に行くのが北川一郎のささやかなくつろぎとなっていた。 大手コンピューター会社のソフトウエアエンジニアである一郎は、最近とみに残業が増え、深夜の帰宅は日常化し、週末出勤も常態となっているほどの激務ぶりだ。 最近は日曜出勤すら強いられる日々が続いていた。 たまに休める日曜日には、こうして家族と公園に行くことが一郎と家族との貴重な触れ合いの時であり、一郎にとっての癒しの時間であった。 その日もいつものように社宅を出た二人は、両脇に家が並んでいる住宅街を歩き始めた。 幼い娘を乗せたベビーカーを押して歩く一郎の右横に、やんちゃざかりに成長した長男の手を引いて裕美が歩いている。 その道は数分ほど歩けば曲がり角に行き当たり、その右角に大きな石塀に囲まれた邸宅があった。 樹齢百年は優に超すと思われる赤松が、枝を塀越しに高く道側まで張り出して茂っている。 その道をはじめて裕美と通った時、なつかしそうにそれを見上げ、私の家を思い出すと裕美がつぶやいたことがあった。 その日も裕美は右手を見上げてつぶやいた。 しかし、その時の言葉はあの時と違っていた。 裕美の言葉は一郎に春の訪れを教えてくれるものだった。 「ほら、さくらのつぼみが大きくなってる。もうすぐ咲くわ」 そうか。もうそんな季節なのか。 無理もない。帰りはいつも深夜だ。 寝静まっている家族を起こさないように、静かに床に潜り込む毎日が続いていた。 ついこの前までは重いコートを着て通勤していたが、いつの間にかそれがいらなくなっていた。 やがて二人は公園に着き、いつものようにたわいない時間を過ごした。 幼い長女を芝生の上で歩かせ、長男とはボール投げや、かけっこや、取っ組み合いをした。 その日はこの時季にしては暖かく、よく晴れた日だった。 それが一郎の心をいつもより明るくしていた。 昼が近づき、二人はもときた道を帰る。 今度は一郎が道の左側を歩き、曲がり角にさしかかったところで、一郎が邸宅を左に見上げることになった。 「ほら、もうすぐ咲くでしょう? 来週の今頃が楽しみよ」 「うん」とうなづく一郎は、しかし桜ではなく、赤松を見上げていた。 二人のなれそめはもう10数年前になるだろうか。 同じ大学に通っていた二人は、数ある学生交流の一つで偶然知り合い、互いにひかれて好き合うようになった。 見染めたのは裕美のほうだった。 裕美は男子学生の間で評判の、美人で明るく聡明な娘だった。 その裕美が、あの手この手で言い寄ってくる多くの男子学生を、持ち前の愛嬌でうまくかわし、裕美の方から積極的に近づいたのが一郎だった。 一郎はもの静かでおとなしい、地味な学生だった。 そんな一郎が、積極的な裕美に言い寄られて、断れるはずがない。 もっとも一郎も裕美のことは好きだった。 しかし、遠慮がちな一郎には、「こんな俺がこの娘を独占していいのか」という思いがあった。 そして一郎は、本当に、「俺でいいのか」という思いを現実のものとして実感することになる。 学生生活が終わりに近づいた年の秋のキャンパス。 大学名物の銀杏は、まるで黄金のクジャクのように、その羽根を空いっぱいに広げているかのようだった。 一郎を見つけて駆け寄ってきた裕美が、弾んだ声でいきなりほほえみながらこう告げた。 「一郎、私と結婚して。決めてきちゃったから」 裕美の父親は地方では名の知れた富豪であった。 兄二人も姉も、それぞれ由緒ある家系の娘や息子と結婚している。 いわば日本のエシュタブリッシュメントだ。 もっとも、日本の戦後に、欧米流のそのような本物の上流階級があるかどうかは疑わしいのだが。 裕美の父親としては、年老いてできた末娘の裕美に、それにふさわしい相手と添わせたいと願うのは親心だろう。 そしてそれは批判されるべきものでもない。 その父親を説得して決めてきたというのだ。 唯一の救いは、裕美が末っ子だった事だ。 そしてそれを裕美はほのめかした。 「最後はこう言ってくれたわ。おまえがしあわせならそれでいいって。これで決まりよ」 せめて父親の了解を取り付けに伺いたいと迫る一郎に、そんな事すれば説き伏せた父がまた怒り出すと裕美は強く遮った。 裕美にそう言われれば、いつものように一郎は従うしかない。 こうして駆け落ち同然ように始めた裕との新婚生活であった。 少しでも偉くなって裕美の父親に許しを乞いに行きたいという思いは、一郎の頭から離れなかった。 そして、大手コンピューター会社のエンジニアとしてキャリア採用された一郎は、将来性はあった。 しかし、いくらがんばってみても出世するとは限らないのが世の常だ。 能力とは別に、そのおとなしさが一郎の昇進を遅らせた。 赤松の邸宅のある角を過ぎて、二人が社宅の近くにさしかかった時、裕美はこう言葉を残して走り出した。 「子供たちを頼んだわよ、いつものスーパーに行って今晩の夕飯の材料をかってくるから。今夜はすき焼きよ。最上等の肉を買ってくる。それにいつもより少しだけ高い赤ワインも。どちらもあなたの大好物でしょ。日曜日の夜だもの」 その夜、遊びに疲れた子供たちをいつもより早く寝かせた後、一郎と裕美は遅めの夕食をともにした。 一通りの食事が終わろうとしたとき、裕美は一郎をのぞき込むようにして微笑みながらこう切り出した。 「ねえ、いつも公園にいく途中の曲がり角に大きな邸宅があるでしょ。そこを通るたびに、一郎は思っているんでしょ。私はいまごろあの邸宅よりも、もっと大きい家に住んでいたに違いない、俺と結婚したばかりにこんな社宅暮らしだと。私はあの角を通るたびにあなたの顔がいつもあの赤松に向けられるのを知っているの」 図星をつかれた一郎は、一瞬ためらった後に、頷いた。 一郎は決して嘘の言えない男だった。 それが彼の世渡りの妨げになっていた。 「いつか言おうと思っていたんだけれど、一郎と一緒になって私一度もあんな邸宅に住みたいと思ったことはないのよ。住みたいと思うような私なら一郎を好きになったりはしないわ。私は一郎を選んだの」 どういう意味か戸惑っている一郎を前に、裕美は残っている赤ワインを二人のグラスに注いで続けた。 「覚えている。いつかみんなで飲み屋に繰り出したとき、私がやくざ風の男たちの目に留まり、店から連れ出されようとした時、私の周りの男子学生はみな何もしようとしなかったけれど、遠くに座っていたおとなしい一郎が警察を呼ぶぞと叫んで私を連れ戻してくれたことがあったでしょ。あのとき私はうれしかった。私は決めたの。この人についていこうと。あなは強い人よ。やればできる人よ。それに・・・」 ここまで言ってはじめて裕美は言い淀んだ。 はじめて女らしい恥じらいを一郎の前で見せた。 「あなたはいつも私にやさしかった。そのやさしさだけで私はいいの・・・」 その夜は裕美のほうから求めた。 一郎の体を抱きしめながら裕美は心のなかでつぶやいた。 「やさしさだけでいいの。あなたのそのやさしさだけがあれば私はそれでいい」(完) ──────────────────────────────── 購読・配信・課金などのお問合せやトラブルは、 メルマガ配信会社フーミー info@foomii.com までご連絡ください。 ──────────────────────────────── 編集・発行:天木直人 ウェブサイト:http://www.amakiblog.com/ 登録/配信中止はこちら:https://foomii.com/mypage/ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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天木直人(元外交官・作家)