□■□■【反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説】 ■□■ □■ 天木直人のメールマガジン2014年7月1日号外 ■ ============================================================== 短編第五作の紹介 ============================================================== 短編第五作を以下の通り紹介します。 ひとは思いがけないときに、忘れていたものを見つける事がある。 そしてその偶然に見つけたものが、遠い過去の出来事を思い出させてくれる事がある。 その思い出が、今から思うとあの時の自分の人生の大きな転機になる思い出なら、それが偶然見つかったことが、あたかも運命的のように思えてくる。 その転機が、それからの人生を大きく好転させたものであったら、なおさらだ。 そこに愛する妻と家族の支えがあれば、その話は完結する。 これはそういう作り話である。 一枚の餞別 「うわー、これ兄ちゃんとそっくりだ」 そういって末の息子が、父親の哲夫の手から一枚の古い写真をひったくった。 若かりし頃の哲夫が、自分の兄にそっくりだというのだ。 稲垣哲夫は、日本を代表する大手銀行の一つである明日香銀行に勤務して二十年ほどの、エリート銀行マンである。 、つい最近までは、東京本店と欧米総局勤務を繰り返し、若くして海外投融資担当に抜擢されるほどに、順調に出世コースを 歩んできた。 ところが、ある取引で上司と意見がぶつかり、それがもとで、本来は関係のなかった社内の一大内紛に巻き込まれ、その紛 争のあおりを受けて、地方勤務へ左遷されようとしていた。 末の息子が声をあげたのは、二人の息子たちの教育のためを思って、哲夫が単身赴任を決意し、その支度をしていた、そん なある日曜日の昼下がりの事であった。 哲夫には長男がいるが米国に留学中で、いまは中学生の次男と小学生の三男と住んでいた。 入社して以来、地方転勤は、もちろん哲夫にとって初めての経験である。 こんな事でもなければ、仕事に追われる毎日の哲夫には、およそ身辺の整理などする余裕はなかった。 丁度いい機会だ、そう思って哲夫は、この際まとめて、これまで一切、手をつけなかった不要なものをすべて整理してやれ と、部屋いっぱい散らかして、ひとつ、ひとつ、それら過去のガラクタを手に取り、見くらべて、これからもとっておくもの と、この際思い切って捨て去るものと、より分け始めたところだった。 これが結構、難しく、骨が折れる作業であることがわかり、おまけに過去の思い出が心に絡んで、しばし、手がとまる。 小学生の末の息子が哲夫の手から取り上げた写真も、哲夫がそれを手にしたまま、懐かしく、ぼんやり眺めていた時であっ た。 そこには、晴れて中学一年生になって間もないころ、クラスの何人かと笑って並んでいる哲夫の姿が写っていた。 それが、いまや同じ年頃になった次男にそくりだというのだ。 あれからもう20数年がたっていた。 整理を始めたのが10時過ぎだったから、もう、かれこれ2時間が過ぎようとしていた。 作業は想像していたより時間がかかった。 しかもまだ、仕分けしなければならなものは山ほど残っている。 とても一度で終わそうもないことに気づいた哲夫は、この作業をすませたら取りあえず一服するか、と、古いノートや手紙 のたぐいが投げ込まれた大きな紙袋の整理を始めた。 そのときだった。 哲夫は一枚の年賀状を見つけることになる。 茶色の絵の具で、エジプトのスフィンクスの顔が、はがきいっぱいに大きく描かれていたその年賀状は、ずいぶん色あせて いたが、それでもはっきり文字が読みとれた。 そこには万年筆で青く書かれた、小さく、几帳面な文字が次のように並んでいた。 哲夫君、大学ご卒業おめでとう。これからいよいよ君も社会人の仲間入りですね。君ならやれる。がんばってください。し かし、いつも最短距離をめざそうとばかりせず、時には回り道して景色を楽しむ余裕を持つように・・・ それは哲夫が中学生のころ、途中からその学校に移動してきた数学の担任であった山口昭男先生から届いたものであった。 そういえば山口先生は、世界の史跡巡りが好きで、その年もエジプト旅行をし、そのときのことを授業で生徒たちに嬉しそ うに話していたことを哲夫は思い出していた。 そして、その山口先生の一風変わった教えぶりについても・・・ 当時山口先生は、大学で数学を終えたばかりの新米教師で、哲夫の中学で教えるのが教師としてはじめてだった。 大きい、まるい眼鏡をかけ、いつも黒っぽいズボンに白いワイシャツ姿で教室に入るや、そのワイシャツを腕まくりし、と きおり髪をたくしあげて教える。 白いチョークの粉で手やズボンを汚していても、それにお構いなく教え続ける。 そんな山口先生であった。 しかし、哲夫の記憶により鮮明によみがえってきたのは、そのような山口先生の風貌より、その数学の教え方であった。 それまでの先生は、教科書に書かれている問題の数々を、早く、要領よく解く、最善の方法を淡々と教える、いわば受験向 きの教え方をする先生ばかりだった。 ところが、大学生のういういしさをそのまま持って教師になったような山口先生は、一通り数式の解き方を教えたあと、か ならずなにか独り言のようにつぶやいた。 君たちは、小学生まではいつも答えが一つしかない問題を勉強してきた。中学になって因数分解を覚え、答えが複数あるこ とをこうしていま学ぶんだ。だけどね、これからはもっと多くの答えがあるような問題が出てくる。それどころか、答えが見 つからなかったり、どれが正しい答えかわからない問題がたくさん出てくる。そして、答えのない答えが、本当の正しい答え だという問題にも出くわす。本当に難しいのはそういう問題なんだ・・・ そう自分にいい聞かせるように、黒板に、それまで哲夫たちが見たこともない数式や図を描き、みずからそれを解くことに しばし黙考し、そして、これが答えだといって、無限大とか、解なし、などと語るのである。 当然ながら父兄で評判が立ち、授業時間を無駄にしないでほしい、教科書通りの教えかたをしてほしい、という声があがる 。 やがて山口先生はそのような教え方をやめるが、哲夫はそんな難しい事をいう山口先生がなぜか好きだった。 やがて哲夫はその中学校を卒業し、地元の中・高一貫の有名私立受験校へ高校生として編入する。 希望する大学に合格するには、それが一番近道だったからだ。 それまでの公立の小・中学生のころは、哲夫はろくに勉強しなくても、常にクラスの一、二を競う成績を収めてきた。 だからその私立高校へ高校から途中編入しても、やっていける自信があった。 しかし、その自信は、転入そうそう、見事に打ち砕かれることになる。 上には上がいることを思い知らされる。 何度テストをしても、成績はいつもビリのあたりをうろついた。 特に数学がひどい。 受験校だから、教える内容が公立校よりもはるかに先を行き、おまけにみな公立校ならクラスで一、二を競うような優秀な 者ばかりだ。 哲夫は、はじめて挫折感を味わい、そして数学の学力を上げようと賢明に努力をした。 しかし、いくら一人で努力しても、そう簡単に学力が向上するはずもない。 難しい数式がすらすら解けるようになるわけがない。 結局、哲夫は第一学期の数学の成績をビリクラスで終わらざるをえなかった。 そんな哲夫が、山口先生のことを思い出したのは、二学期が始まってしばらくした秋だった。 中学卒業後は、近況報告すら怠っていた不義理な哲夫だったが、困ったことがあったらいつでも来い、と言ってくれた山口 先生の言葉に甘えて、どうしても会いたくなったのだ。 そして、連絡することなく、高校の授業が終わった放課後、その足で、山口先生をかつての母校に訪れた。 母校についた哲夫は、勝手知った校内を急ぎ足で歩き、職員室にたどり着き、そこに山口先生が一人机に向かってなにやら 作業している姿を見つけた。 長くなった夕陽が窓越しに運動場を朱く染め、それとは対照的に、職員室は薄暗かった。 そんな中に、山口先生はぽつんと、哲夫に背中を向けて、一人机に座って何かをしていた。 「山口先生!」 哲夫は背後から近寄って声をかけた。 振り返って哲夫の姿を見つけた山口先生は、特に驚きもせず、「おお、哲夫くん、どうした」、とひとこと聞くだけであっ た。 編入したまではよかったが、数学について行けずに一人で悪戦苦闘していること、それでもなかなか追いつけないこと、な どを単刀直入に哲夫は打ちけた。 どんな問題をやっているんだ、と聞く山口先生に、哲夫は教科書を見せ、わからない箇所を教えた。 すると山口先生は、 「そうだなあ、これはまだどこの公立高校も一年生では教えないから難しいかもしれないけど、こうすれば簡単なんだよ」 と言って、スラスラと解いていった。 その時の哲夫は、山口先生が丁寧に教えてくれたやり方をまったく理解できなかったのだが、こんな難しい問題を、しかも クラスの優等生たちでさえ、頭をかかえる難問の数々を、こんなに簡単に、こんなに早く、解いてみせる山口先生を見て、ま るで自分が山口先生になったような、勝ち誇った気分になって帰った。 それだけでよかった。 それだけで、山口先生を訪ね、山口先生に教えてもらった価値があった。 その後哲夫は、山口先生のあの時の勇姿に励まされ、高校三年生になるころには上位10位に入る数学の成績を残せるまで に成長していた。 それにしても、思いつきで哲夫が半年ぶりに訪れた母校の中学校に、あの日、あの時間に、よく山口先生を見つけられたも のだ。 しかも山口先生のほかには誰もいなくて、山口先生一人で「残業」をしていたなんてラッキーだ。 哲夫はその偶然の幸運に感謝した。何も知らずに。 山口先生は、その頃、毎日のようにああやって一人で、本来の数学の授業の準備とは関係なく、別の作業をしていたのだ。 それを哲夫が知ることになるのはずっと先の事だった。 山口先生が、哲夫たちの数学の担当として赴任してきた時に引き起こした数学の教え方をめぐる父兄たちとの考えの違いは 、その後もくすぶり続けていた。 そして、それがやがて数学の教え方にとどまらず、その中学校の受験に取り組む教育方針全体に及んで、学校側も巻き込ん だ、校内を二分する大きな問題に発展していたのだ。 もちろん受験を優先すべきとの考え方が、学校側も父兄会側も、大勢を占めていた。 しかし、本来の教育は、受験技術を教える事とは違うはずだ、という意見もあって、そういう意見持つ教師や父兄たちが、 その代表者として若い山口先生に交渉を任せたのだ。 山口先生は、自分は新米教師であり、このような政治的争いを代表するにふさわしい年輩の人は、校内にも父兄にもいるは ずだし、そういう人のほうが、今後の交渉にも有利であると主張し、強く固辞し続けたのであったが、しょせん負け戦だとあ きらめていた多くの人たちは、若い、言い出しっぺの山口先生にそれを押しつけたのだった。 そんな困難な仕事を、山口先生が最終的に引き受ける決心をしたのには、単に頼みを断れなくなったというだけでなく、大 げさに言えば、山口先生なりのひとつの使命感があった。 山口先生自身は受験競争に勝ち抜き、希望する一流の大学を現役で合格し、これまでも、そしておそらくこれから長きにわ たって、その勲章の力を、受験競争と学歴社会が続く日本で享受できるだろう。 しかし、だからこそ山口先生は、受験というものが大手を振って世の中にまかり通り、みながその成功をめざし、学校より も合格のために予備校を重視し、そしてそれがビジネスとしてもてはやされる世の中に我慢ができなかかった。 それを我が子に当たり前のように求め、そしてそれを自らの見栄の道具とする親たちが許せなかった。 学歴社会はなくせないし、従ってまた受験競争はなくならないとわかってはいても、そして自分もまたその競争に積極的に 参加し、人を蹴落として、勝ち組となったのだけれど、勝ち組だから言える。こんな制度は子供たちを不幸にする、絶対にな くさないと社会がおかしくなると、そう強く思い始めていた。 どこまで自分の主張が通じるかわからないけれど、がんばってみようと山口先生は決めたのだった。 哲夫が訪れたその時、山口先生は、年度末に控えたこの問題に関する学校側と父兄会との統一方針決定の総会にそなえ、連 日資料づくりに励む毎日であったのだ。 哲夫はその後、学業に励み、優秀な成績で高校を卒業し、いわゆるトップクラスの大学を現役で合格し、今の職場へ請われ て入社した。 文字通り、哲夫は最短距離でそれまでの人生を歩んできたのだ。 そしてあの時のように、山口先生にお礼になったことも、いや、山口先生の存在さえもすっかり忘れていた。 ひとは、往々にして、悪気や他意もないままに、不義理を重ねる時がある。 面倒くさいだけなのに、忙しさを口実に。 そしてそれは、立派な功利的、利己的なことなのであるが・・・ 哲夫はもまた、自分ではそう思っていなくても、そう思いたくなくても、そういう利己的な人間の一人であったのだろう。 哲夫が山口先生から年賀状をもらったのは、そんな人生のスタートラインに立って歩き始めたばかりの頃だった。 日付がそれを教えてくれていた。 そのはがきを受け取った時は、哲夫は、山口先生の住所を見て、あの中学校へ赴任してきた当時の住所と変わっていたので 、転勤でもされたのかとは思ったが、それ以上の事は考えずやり過ごしていた。 ましてや、山口先生があのハガキを出した時にどのような状況にあったか、そしてはがきに書かれた山口先生の文字の意味 など、知る由もなかった。 そしてその年賀状のことさえも、記憶の彼方に消えていった。 そしてまたあの時のように、山口先生のこともすっかり忘れ、不義理を重ねた。 多忙という名の面倒くささの故に。 哲夫が不義理をしていた山口先生は、あの時以来、人生の一つの転機を迎え、それを克服しようと必死に戦っていた。 哲夫が山口先生に数学を教えて貰おうと訪ねたあの時の年の暮れに、学校側と父兄会側との合同の教育方針決定会議は、予 想通り行われた。 そして、想定された通り、受験を重視した方針が多数決で採択された。 それは、教育の本来の姿を取り戻そうとする人たちが敗北したのではない。 ましてや、その代表を引き受けさせられた山口先生が負けたのではない。 山口先生は最後まで実に誠実に、そして精力的にその責任を果たし、彼の作った資料や総会での訴えかけの演説は、そのま ま報告書に記載され、後日の参考に残される事になった。 そうなのだ。 負けたのは山口先生でも、受験教育至上主義反対の立場ではない。 はじめから負けると知りながら、あるいは途中から叶わぬと悟った仲間たちが、大勢に従順に転じ、破れた後の状況に自ら の立ち位置を見つけようとして、最期まで山口先生を応援しなかったからだ。 この事なかれ主義こそが敗北者だった。 総会がそのような形で終わっても、山口先生はその後もその中学校で引き続き数学の教師として教え続けた。 あからさまな冷遇にあうこともなく、孤立することもなかった。 しかし、山口先生は、次第にその学校で教える熱意を失い、新天地で再出発をしたいという思い始めるようになっていった 。 そしていつしかその中学校から去っていった。 哲夫が山口先生の事を知ったには、それから何年も後になって、同窓生たちからの風の噂を漏れ聞いた時であった。 その間にも、あのときのもらった年賀状のお返しひとつしておけば、山口先生の、その後の状況ぐらい、知ることができた のに。 あいもかわらず、不義理で利己的な哲夫だった。 噂は衝撃的なものであった。 なんでもあの中学校で同期として教師になった歳上の女性教師と不倫の恋仲になり、悩んだ末の自殺であるという。 哲夫はしかし、そんなことは、山口先生に限っては無い、原因はほかのところにある、と思った。 しかし、それもまた哲夫はそのままにして、それ以上みずから調べる労をとらず、すっかり山口先生のことは哲夫の記憶か ら消えて行った。 それから十数年の月日がたち、順調に出世を遂げつつあった哲夫に、今度は転機が訪れる。 しかもこれまでの哲夫の人生を大きく変えることになる大きな転機が。 さらに幹部を目指そう、自分ならできる、と考えていた哲夫の順調な、最短人生の前に、思わぬ大事件が立ちふさがったの である。 おりからの金融国際化の波のまっただ中にあって、明日香銀行もまた、一方において合併・吸収を繰り返し、その一方で、 より大きな敵からの合併・吸収の攻勢から身を守り、生き残ることに社運をかけていた。 事件はその時に起きた。 明日香銀行は、大成長の裏で、粉飾決算と虚偽報告を重ねていたのだ。 そのようなことは、多くの企業が多少なりともやっている事だ。 ましてや大企業なら、巧妙に法の目をかいくぐって、法律違反ぎりぎりのところで、危険を冒し、顧問弁護士や、税理士な どを使って処理してきている。 多くの場合は、財務や司法の天下り官僚たちを、用心棒として法外な報酬を支払って。 それで切り抜けられるならお安いものだ、と言わんばかりに。 しかし、いったん世間が知るところになると、その時点で会社は終わる。 だから、コンプライアンス遵守に忠実になるべきだ、もとの健全な姿に戻るべきだ、とする副社長派と、日本政府、金融庁 と緊密に連絡を取り合ってうまくやれば会社を拡大できる、とする筆頭専務派との争いが日増しに高まって行った。 筆頭専務は社長の寵児で、社長の後を引き継ぐだろうと衆目は一致していた。 哲夫は当初からコンプライアンンス順守派であった。 しかし、それは副社長派に属するというのではなく、会社の将来を思えば、それしかないと思ったからだ。 それほど日本の金融業界は、いや、世界の金融業界は、異常なまでの生き残りの競争の果てに、金融としての節度とモラル を失いつつあった。 いつか必ずどこかの金融会社が、一罰百戒の形で狙い撃ちされる、その役回りだけは、明日香銀行にさせてはならない、哲 夫はそう考えていた。 しかし、社長・筆頭専務派は哲夫を、副社長派と想い込み、そのあおりで、哲夫は左遷人事の巻き添えを食ったのだった。 その内紛は、日本政府と金融庁の後ろ盾をつけた社長・筆頭専務派が取りあえず勝って収まり、明日香銀行は、その由緒あ る歴史の最大の危機を乗り越えたかに思えた。 「おおいー、みんな、遅くなってごめん。ご飯だぞー」 哲夫の妻のかおりが、大きな声で哲夫と息子二人に食堂から呼びかけた。 「きょうはみんな好きな酢豚とチャーハンと餃子よ。中華でまとめました。さあ、お父さんはおまえたちのためにお母さん を残して単身赴任するのだから、感謝して送りださなきゃ、シャンパンで、ありがとう、そして元気ですぐに帰ってきて、と 応援しよう。お前たちは、サイダーだけど」 哲夫とかおりは職場で知り合い、行きがかりで恋仲になり、そして、結婚した。 いま米国に留学中の長男ができたので結婚した。 哲夫は次は女の子が欲しかったのだが、なかなか子供が出来ず、やっと出来たのがまた男の子で、その後続けて生まれたの が三男だった。それが哲夫の今の家族である。 子供といえば不思議なものである。男の子が欲しくても女の子ばかりが生まれ夫婦もあるというのに。 いずれにしても哲夫とかおりは職場結婚の典型であり、姉さん女房であり、絵に描いたようなできちゃった婚である。 哲夫はいわゆるエリートで、風貌はどこにでもいるような平凡なサラリーマン然としているが、出世欲をぎらぎら出すよう なところがなく、そして出世は願うが無理もしない、人に警戒感を抱かせない男であった。 その上、女性は好きだったが、人前ではそのそぶりを見せず、その気になればさりげなく行動に移す。振られればあっさり とあきらめてわるびれない、そういう自然体のところがあった。 まわりの女性銀行員からもてないはずはない。 エリートだから見合い話も多くあった。 それなのに、かおりを結婚相手に選んだのは、政略結婚するほどの打算的野心家ではなかったことと、仕事に追われて、結 婚したいと思ったときには、周りには職場以外に女性がいなくて、そしてやはり、なんといってもかおりが一番好きになった ということだ。 かおりの方と言えば、並みいる競争相手の中を勝ち抜いて、うらやましがられて哲夫を射止めたということになる。 おまけに婚期も気になる年頃にさしかかっていた。 うまくやった。さぞかし必死になって哲夫に攻勢をかけ、哲夫が見事に網にかかったというように見えるだろう。 しかし、本当のところはわからない。 そこまでの計算はかおりにもなかったのかもしれない。かおりは哲夫が並みいる競争相手から選ぶべくして選んだ女性だっ たのかもしれない。 本当のところは、二人に聞いてみないとわからない。そういうものだ。 だけどはっきりしていることがある。 それは、かおりが何事にも前向きで、誰からも好かれる明るい性格であることだ。 そして誰よりも哲夫を本気で愛し、哲夫をもまた、そんなかおりを愛したことだ。 そしてかおりは、家族のつながりを大切にする妻だった。 そんなかおりに、哲夫もまた救われていた。 いよいよ哲夫は明日、そんなかおりと息子二人に見送られて出発する。 捨てるには惜しい、仕分けした身の回りの数々を持って。 その中には今は亡き、山口先生が送ってくれた年賀状も入ってた。 その言葉の意味も深く考えないで、ただ不義理ばかりを重ねた非礼を詫びるつもりで。 その夜、かおりはやたらに感傷的だった。 それに応えるように哲夫が強く、長く抱きしめていると、嗚咽してこうつぶやくのだった。 「さぞかし悔しいでしょうね、身に覚えのない左遷ですもの。初めての単身赴任ですもの。でもきっと運が味方するわ。運 が意地悪でも、私が味方する・・・」 哲夫はかおりが悲しむほど落胆はしていなかった。 失望するには若すぎるし、それに、見かけによらず哲夫は自信家で楽天的なところがあった。 しかし、あの、哲夫よりも明るく、元気な姉さん女房のかおりが、ここまでいじらしく、悲しみ、はげましてくれたのだ。 それが嬉しく、励みになった。 気がついたら出発の朝になっていた。 地方へいってからの哲夫は実によく働いた。というより学んだ。 地方の仕事は、国際金融戦争の渦中に身をおいて戦ってきた哲夫にとては、よく働くというほどの仕事はない。 そのかわり、地方企業や地方経済の活性化に金融がいかに重要な助けになるかについて、学ぶ事は多かった。 すべては新しい体験の連続で、そこから学ぶことで月日はあっと言う間にすぎて行った。 そして、それから1年ほどたって、危機を切り抜けたかに思えた明日香銀行に激震が走る。そして今度は致命的に・・・ 哲夫の危惧は的中した。 しかも激震は、思わぬ形で、金融資本主義の大元締である米国で起きた。 それは一本のスクープ記事から始まった。 世界最大の銀行であるフィッシャー・トラストの粉飾があかるみに出たのだ。 明日香銀行は以前からフィッシャー・トラストと少なからず資本提携しており、あおりを受けて真っ先に疑われた。 それでも、明日香銀行の社長と、社長のポストを社長から禅譲される筆頭専務らは、フィッシャー・トラストとの資本提携 は、日米二大銀行の信頼関係に立った長年の提携関係であり、日本政府や金融庁も了承ずみだと、強弁し、政府の擁護を頼ん だ。 いつもそうして乗り切って来たのだ。 日本政府や金融庁が黙認している限り、日本の税務も司法・検察も動かない。 日本のマスコミも書かない。 そして、やはり現実は、そうした多くの同様の経済犯罪は、程度の差こそあれ、見過ごされてきたのだ。 しかし、このときは時代の流れがそれを許さなかった。 外国特派員の記者たちが憶測記事をかき立てた。 それが世界を駆けめぐり、明日香銀行の株が暴落し始めた。 そうなるともうとまらない。 マーケットは明日香銀行に退場をせまり、世論の見る目は、明日香銀行に日増しに厳しくなる。 それを見た官邸や金融庁は、世論の批判が自分たちに及ぶのをおそれ、手の平を返したように明日香銀行を冷たく突き放す 。 そうなれば、後は時間の問題だ。 倒産するまでには長くかからなかった。 明日香銀行は人事を一新して生まれ変わる事になる。 それからおよそ半年がたち、明日香銀行が新生太陽銀行として生まれ変わろうとするとき、大幅な人事異動が予定され、哲 夫は本社に呼び戻される。 それが栄転人事なのかは、もちろんわからない。 おそらくそうではないだろう。 しかし、その時の哲夫には、もはやそんな事は、どうでもいいことだった。 地方勤務の1年あまりの間に、哲夫は銀行マンとしての新たな生き甲斐を見いだしていた。 地方企業の賢明な生き残りの為に、必要な資金がどうしてもいる。 その時に血液を提供して企業を助ける。 そうして、そこで働いている人たちとその家族を助ける。 晴天の時には傘を貸す。しかし土砂ぶりの雨が降ったら傘を取りあげる。 そんな強欲な仕事をする銀行から決別して、本来の銀行に戻る。 その必要性を哲夫は地方の人たちと、短い期間ではあったが、ともに生きていくうちに気づいたのだ。 なによりも、単身赴任して家族の暖かさと、ありがたさを知った。 どこに行っても、どんな境遇におかれても、今の哲夫にはこわいものは、もはや、何もなかった。 哲夫はいまはじめて、あの時の山口先生の年賀状に書かれていた言葉の意味がわかったような気がした。 今度こそ、忘れずに、その年賀状をアタッシュケースに入れて、待っている家族のもとにへ帰ろう。 そう想いながら、哲夫は再び引っ越しの準備に取りかかろうとしていた。 あの時、山口先生が送ってくれた一枚の年賀状は、哲夫のとってかけがえのない、一枚の餞別だったのである(完) ──────────────────────────────── 購読・配信・課金などのお問合せやトラブルは、 メルマガ配信会社フーミー 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天木直人(元外交官・作家)