□■□■【反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説】 ■□■ □■ 天木直人のメールマガジン2014年6月29日号外 ■ ============================================================== 短編第4作の紹介 ============================================================== 人は、およそほかの人と接することなく、孤立して生きていくことはできないし、そいうすべきでもない。 人との共同、共生の中で、人が最初に接するのが家族である。 父母と子供からなる家族は、もちろん、赤の他人どうしではない。 しかし、もともと赤の他人二人が一緒になった夫婦はもとより、その親から生まれた親子や、その親から生まれた兄弟、姉 妹さえも、いったん産み落とされたら、一個の独立した人格を持ち、そこには他人の間に見られる葛藤や利害の違いがあるは ずだ。 そしてそれは当然で、自立した人間同士だから悪いことでもない。 そして、それらを抱えながら、個々人が家族として同じ屋根の下で仲良く住むように努力する。 これは、実は大変なことかも知れないのだ。 けだし、人が社会生活をうまくやっていくには、まず最初に正しい家族生活ができるかどうか、かも知れない。 この世の中には、あなたの家族を含めて、実に様々な家族があり、その家族内の人間模様は、決して同じものはない。 しかし、家族内の人間模様を通じて、家族とは何か、家族生活とは何か、そして、家族とのつながりを通して、自立した自 分の人生をどう見つけていくべきか。 そこには、人が生きていく上の共通のテーマがあるはずだ。 そしてやはり、家族との生活を大切にできる生き方が大切だと思う。 これから始まるお話は、そういう問いかけを読者に迫ってみた。 ムスクの香り 政雄はいつも姉の祥子には勝てなかった。 学校の成績も、かけっこも、口げんかも。 ただひとつ、政雄が祥子に勝ったのは、いち早く人を好きになって、その相手に好かれ、平凡だけれど幸せな結婚生活を始 めたことだ。 それが勝った事になるのかどうかはわからないけれど。 「お姉さんに欠けているものがあるとすれば、これや」 そう言って 政雄はフランスへ旅行したとき、南フランスの片田舎の道で売られていた、10フランの「ムスク」の香りの 入った子瓶を祥子のみやげに買って手渡したことがあった。 異性を引きつける匂いをはなつ香水だという。 これをつけていると、いい男が近寄ってくるから、お姉さんにも好きな人が出来るようになるよ。 そうからかって、政雄は祥子にプレゼントしたのだ。 その効果があったかどうか、ついに政雄は確かめる機会を得ないまま、祥子は突然、風のように、この世を去った。 とうとう最後の家族であった姉の祥子を政雄は亡くした。 いまはすべてが逝ってしまった。 すなわち、父母、姉、妹をしのびながら、一度は家族5人全員が一緒に暮らした京都の家に、政雄は一人しばし佇み、過ぎ 去った過去数十年の家族との生活と、その生活の舞台だった京都の家に思いを馳せていた。 政雄は祥子の1周忌に、住む主がいなくなった京都の家に一人来ていた。 政雄は、およそ出世とは縁遠い、凡庸だが、誠実で人の良い、万年ヒラ社員で終わった新聞記者の長男としてうまれた。 父、織田幸吉は、まわりがお世話をしてくれた見合いで、一面識もない母、トミと初めて会って、すぐに結婚した。 トミもまた、そんな父と初対面であったが、このひとなら我慢できる、と自分に言い聞かせ、みずからの選択で結婚するこ とを決めた。 世間によくある見合い結婚だ。 政雄は大きくなってトミと二人だけになったとき、次のような驚くべき、そして滑稽な、当時の見合い結婚の際のエピソー ドを聞かされる。 すなわち幸吉は、見合いの当日、トミに付き添って一緒に来ていたトミの、実際よりもはるかに若くみえた叔母を、てっき り見合い相手と勘違いし、これならいい、と思って決め、後になって、本当の見合い相手がトミだったと知っても、まあいい か、と思ってトミと結婚したという。 そんなこと、言わずにおけばいいものを、子供が大きくなったずっと後に、幸吉はトミに打ち明けた。 それほど、ひとの心に鈍感で、しかし、そのあまりの正直さと人の好さで、決して憎めない、幸吉はそういう男であった。 幸吉は、愛知県知多半島の漁師の長男としてうまれ、父が漁で死んだことにより、弟と一緒に、幸吉の母の実家がある京都 に引っ越し、そこで育った。 西陣織屋の織り子として職を見つけた母の女手一つで育てられた幸吉は、小学生の頃から新聞配達して家計を助けた。 その勤勉ぶりが認められ、朝日新聞京都支局の現地採用になり、その働きぶりがさらに評価されて正社員になる。 採用の時から幹部になることが保証されているエリート記者ではなく、いわゆるノンキャリである。 そして、その勤勉ぶりと朝日新聞に対する愛社精神が認められ、ついに、山口県下関市の朝日新聞通信局の末席記者を命じ られ、赴任しようとしていた。 幸吉が見合いをまわりからすすめられ、それに応じてトミと結婚したのは、まさにそんな時だった。 トミの方にも、この見合い結婚を決めたのには事情があった。 トミの母は、京都の宮大工である宮内与一郎の5人姉弟の長女として京都でうまれ育った、生粋の京都人だった。 宮内家は、美男、美女の家系のうえ、情多き血筋とみえて、トミの母もその血を見事に受け継いだような人生を送った女だ った。 すなわち、若くしてその美貌の故に京都の名家の放蕩息子にみそめられ、相思相愛になったまではよかったが、その男には 妻子がいて、トミを産んだあと、あっさり捨てられた。 母は、赤ん坊のトミを連れて宮内家に戻ってきた。 母の父、つまり宮内与一郎が、長女の奔放な恋いの不始末でできた孫のトミを不憫に思い、出戻りの娘と孫の面倒をみたの だ。 しかし、不幸は重なるものである。 ある日トミの手を引いて買い物をしようとでかけたトミの母は、通りすがりの車にはねられて死ぬ。 宮内与一郎は、残されたトミを、今度こそ不憫に思い、養女として引き取り、孫であるトミを末娘として育てた。 見合い話の時に、幸吉が、一緒についてきた叔母というのは、トミの母の歳の離れた末弟の嫁であって、叔母には違いない が、それほど歳は違わなかったから、幸吉が勘違いしたとしても、それほど不思議ではなかったというわけだ。 与一郎に末娘のように可愛がられたトミは、決して不幸というわけではなかったが、肩身のせまい思いをしていつまでも宮 内家の世話になって暮らすよりも、早く結婚して自分の家族を持とう。どうせ不倫の娘としてうまれたのだから、まともな家 には嫁げない。ましてやまわりの目が厳しい京都のことだ。生活が安定し、無茶をしないような男なら、そこそこ甲斐性があ れば十分だ。そう自分の結婚相手を決めていた。 幸吉は、まさしくそれにふさわしい相手だった。 このひとなら大丈夫だ、そう思ってすぐに決めたと、トミはこれもまた、ずっと後になって政雄だけに打ち明けている。 もっとも、トミが結婚を決めたのにはもう一つの大きな理由があった。 母親譲りの美貌と色香、そしてその情熱の故に、トミは若くして京都の名刹の若い修行僧とかなわぬ恋仲になる。 いつかは別れなければならないのなら、いっそ結婚して未練を断ち切ろう、そう思ったのだ。 そして幸吉と結婚した後も、その未練が断ち切れず、いまでも思い出すと胸が切なくなる、と、その当時の心境を、トミは 、政雄に打ち明けている。 だからといって、幸吉とトミの夫婦生活が冷たいということではなかった。 それどころか、三人の子供に恵まれ、平凡だが幸せなものだった。 激しい「性愛」を感じて営む夫婦生活は、そこにはなかったが、安定した日常の繰り返しのおだやかな結婚生活があった。 そしてそれこそが、トミが、いや幸吉も、人生に求めていたものだったのかもしれない。、 結婚生活とは不思議なものである。 恋愛の末結ばれ、末永く幸せに終わる結婚生活はもちろん理想だ。 そして、そういう結婚を末永く送る、幸せな夫婦は数多くこの世にあるだろう。 だからと言って、打算や格式や見栄にこだわって決めた結婚生活が悪いというわけでもなく、うまく行かないということで もない。 不本意な行きがかりで結婚せざるを得なくなくなった場合でさえ、後には幸せな結婚生活が待っていることがある。 その逆に、駆け落ちしてまで永久の愛を誓った結婚生活が、あっさり冷めて、最後は別れて終わる、という事もあるだろう 。 要するに結婚生活は、その後の双方の相手を思う気持ちや、ともに力を合わせて生きていこうという気持ち次第ではないか 。 その昔、どこかでこんなたとえ話を読んだことがある。 もしあなたが宝くじに当たったとしよう。 心からその喜びを共有してくれる人があなたにはいるだろうか。 もちろん、両親、とくに母親は親身になって喜んでくれる。 母親の愛はいつも本物で無償だ。 最近では、そうでもない母親が世間をにぎわせているが、それはやはり異常で、例外とみたほうがいいだろう。 同じ肉親でも、兄弟、姉妹となるとだいぶ違ってくる。 喜んではくれるが、うらやましがられ、俺たちにも少しわけろとなる。 ましてや他人となるとなおさらだ。 いい目にあったからおごれとなり、ひどい場合にはかすめ取られる。 もしあなたが喜ぶのと同じような気持ちで、本当によかったね、と自分のことにように喜んでくれる相手があなたにいたと すれば、その相手こそ人生の伴侶だということだ。 しかし、現実の人生は、たとえそういう相手がみつかって一緒になっても、思い通りに行かない事がある。 運や偶然や予想もしない出来事が起きることがある。 最後は、やはり、相手を思う気持ちであり、家族とのきずなである。 そして何よりも、自分自身が自分に自信を持ち、自らの結婚生活と家族を維持し続けるという強い意志を持つことが一番重 要な事だと思う。 それが人生であり、そこに人生のドラマがうまれるのである。 山口県下関市からスタートした幸吉の新聞記者としての人生は、持ち前の勤勉さで取材に明け暮れる充実したものであった 。 トミもそんな幸吉をよく支えた。 政雄が生まれたのはちょうどその頃だったが、幸吉の転勤で二歳で下関を離れた政雄には、もちろんその当時の記憶はない 。 ずっと後になり、二人がこの世を去って、政雄は、下関市を初めて訪れる機会があった。 その時、今の朝日新聞支局の助けを受け、政雄は当時の同僚という人から、当時の幸吉の活躍ぶりを偲ぶ機会があった。 記録では間違いなく幸吉は朝日の下関通信局の記者で、いまでも90歳半ばで下関に存命の、その当時の同僚は懐かしそう に、語ってくれた。 「一緒に仕事を終えて幸吉君のお宅におじゃましたときはよくお世話になりましたよ。 美人の奥さんの料理がうまくてねえ、よく夜遅くまで酒をのんで迷惑をかけた・・・」 そこには、紛れもいなく、幸吉とトミの、新婚時代の張り切った、これからの人生を力を合わせてやって行こう、という幸 せな生活があった。 しかし、そこはノンキャリの悲しさで、幸吉はいくら頑張っても昇格できず、二、三年ごとに地方転勤を命ぜられ、下関市 を皮切りに、以降、福山、尾道、宇治山田(伊勢)、松阪、中津川、高山と転々と、地方勤務を繰り返した。 普通なら転勤を重ねるうちに、少しずつ、より大きな通信局や、さらには一段格上げの支局に転勤するのだろうが、いつも 同じような小さな通信局ばかりだった。 親しい知人をつくる暇もなく、見知らぬ地方暮らしの繰り返しを強いられたトミは、やがて京都に対する郷愁を募らせてい く。 「京都」という文字をどこかで目にするたびに、「やっぱり、京都はええなあ」とため息をつくことが増えていった。 幸吉には一つだけ残念なところがあった。 それは酒好きなところである。 一人で家で飲む安上がりの酒であったが、飲みだすと止まらず、へべれけになって、そのまま朝まで泥酔するという酒だ。 トミが、話し相手がほしい時でも、まともな話ができなかった。 おまけに、取材の都合で外で飲む事が多くなり、子供が寝静まった夜遅くに、酔っぱらって帰っては寝た子を起こして泣か す、ということもしばしばあった。 幸吉は、本当はそんな男ではなかったのだが、時々は、バーやナイトクラブから帰ってくることがあり、トミはそこに女の 疑惑も感じた。 京都への郷愁がいや増し、その時はすでに政雄の妹も生まれていて、長女の祥子を加えた三人の幼子を引き連れて京都に夜 行の長旅で帰る事も増えてきた。 宮内家は典型的な古い町屋づくりの家で、土でできた細長い通路に沿って、炊事場やかまどが並び、反対側に、竹のむしろ で編んだ畳が敷かれている部屋が、襖で仕切られて並んでいた。 その奥には空が見える中庭があり、そこに風呂場と手洗いがあった。そんな家だった。 政雄たちがトミにつれられて京都へ帰る時は、いつも長旅の末、夜遅くたどり着くものだから、子供たちは、一番奥の部屋 で、着いたらすぐ寝かせられた。 そしていつもその後で、トミは宮内家の皆と、いかにもなつかしそうに京都弁で話し込むのだった。 それが襖越しに、寝付けない政雄の耳に聞こえてくる。 大方は政雄のわからないことであったが、時折、「政雄はええ子になったなあ」、などと宮内家の誰かがつぶやくのを聞い て子供心にうれしかった。 ある時はこんな話がトミの声で聞こえてきて、驚かされた。 つまり、幸吉の夜帰りが続き、その上、経済的にも苦しい日が重なったとき、いっそのこと、夜の川に入水しようと、三人 の幼子の手を引いて、川のほとりまで行ったことがあったと。 幸吉との長い結婚生活で、そんなにつらい時が、たとえ一時期でもあったとは、政雄はその時、知った。 そんなに好きな京都に、トミは政雄が中学二年生になった春に、幸吉に単身赴任を強いて家族を連れて、とうとう住みつく ことになる。 もっとも、その時は、幸吉とトミはもとの幸せな生活にもどって久しく、母の強い希望を受け入れて、幸吉も納得ずくで京 都についのすみかを建てる事に同意したのだ。 場所は、あのなつかしい宮内家から歩いて数分のところだ。 幸吉の退職金を担保に朝日新聞から資金を借り、宮内与一郎に割安で建ててもらった。 与一郎は腕利きの宮大工の棟梁で、可愛いトミのために職人を動員して家を建ててやった。 祥子がまだ元気だった数年前、古くなったその家をはじめて政雄は、大がかりな修理・改築をしたことがあったが、こんな しっかりした作り方をした家は見たことがないと、今の建築関係者を驚かせたものだ。 この家が政雄の5人家族の舞台となる「京都の家」である。 幸吉の記者人生は、最後まで出世とはほど遠いものに終始して終わった。 しかし、政雄は、それはそれで幸吉にはよかったと思っている。 そして、政雄は一度も幸吉にたずねたことはなかったのだが、幸吉もそんな記者人生に満足し、納得して定年を迎え、朝日 新聞の記者だった事を誇りに思い、朝日新聞に感謝して人生を終えたに違いない。 そんな幸吉が一度だけ、出世というものと交差した時があった。 それがあの時だった、と政雄はいまでも幸吉を偲ぶ時、思い浮かべる。 あれは政雄が小学2年の時の事だ。 幸吉が朝日の通信局長をしていたある地方都市の出来事であった。 大規模な私鉄の列車事故が起き、多数の死傷者が出た。 各紙がこぞって速報を流すなかで、朝日だけがニュースがなかった。 通信局長といっても、当時の通信局は最末端の出先だ。 通信局員も地方採用の若い記者とアルバイト程度だ。 だから通信局長の幸吉にすべてが託されていた。 ところが幸吉が朝から行く先も告げずに出かけたまま連絡がとれない。 本社からは矢のような督促が飛んで来る。 電話口でお辞儀を繰り返し謝っているトミの姿をいまでも政雄は思い出す。 運の悪いことは重なるものだ。 その日は日曜日で、日頃ニュースを探しまわってオートバイで飛び回っている精勤な幸吉が、唯一、気を抜くことができる 日だ。 新聞記者に休みはないとはいうものの、日曜日は日曜日だ。 その朝、幸吉は、ひさしぶりに、開店10時を見計らって、黙ってパチンコに出かけていった。 魔が差したというのか。 パチンコをやめてもう1年にもなる。 誰も幸吉がパチンコ屋に行っていたとは夢にも気付かなかった。 しかも鉄道事故はその直後に起きた。 それが夕刻に起きていれば何でもなかった。 それが小さな事故ならニュースにならなかった。 しかし、事故は幸吉が出かけた直後に起き、しかも後々まで日本中で語り継がれる大事故だったのである。 あわてて幸吉が帰ってきたのは昼すぎであった。 我々、一般国民にとっては、どの新聞が、どのようなニュースを流そうとも、事故の事実関係を知ることができれば、それ でいい。 論説ならいざしらず、事故の記事なんてどの新聞も同じだ。 ところが新聞業界の世界は違う。 すさまじい競争だ。 幸吉はこの時、決定的な新聞記者失格の烙印を押されることになる。 それからというものは地方転勤の連続である。 実はこの時の通信局長のつぎは、少し大きな都市の支局長として赴任し、その後は、働きぶり次第で京都支局に帰してやる という話があった。 通信局長と支局長はぜんぜん違う。 初めての昇格だ。 おまけに京都支局に帰れるなんて夢のようだ。 トミもそれを内心期待していた。 すべては夢と費えた。 もちろん、それがすべてではなかったと政雄は思う。 幸吉のような男は、生き馬の眼を抜くような競争の世界では出世競争にいつも取り残されるものだ。 いずれにしても、その後、幸吉は京都支局に帰ることがかなわぬばかりか、どんどんと京都から遠くなる、交通の便の悪い 地方都市に転勤させられて行くことになった。 トミが一大決心をして、京都に自分たちの家を建て、いつかは家族そろって京都に落ち着きたい、と幸吉に懇請したのは、 幸吉が飛騨の高山に赴任してしばらくした時であった。 岐阜県の中津川市の通信局長を二年ほどつとめた後、幸吉は高山に横すべりさせられたのである。 相も変わらず、幸吉は万年通信局長であった。 その時のトミの幸吉に対する懇請は、控えめなものであったが、必ず納得させてみせるという強い決心があった。 幸吉の退職金を使い、養父の宮内与一郎に宮大工の腕を振るわせたのはすでに述べたとおりだ。 そして結果的に、その判断は大正解となる。 子供にとっても、幸吉自身にとっても、もちろんトミにとっても、そこが家族生活の、安住の家となったのである。 そうでもしない限り幸吉は京都に家を持つことはなかったかもしれなかった。 子供たちも京都に長く暮らし、育つこともなかった。 トミのおかげで幸吉の家族にとっても、京都は思い出深い故郷となったのである。 幸吉は高山通信局長を三年ほど勤めたあと名古屋本社の校閲部というところに異動させられる。 本社勤務と言えば聞こえがいいが、校閲部とは、人の書いた原稿の間違いをチェックする役回りの地味な部局で、幸吉の、 誠実で辛抱強い仕事ぶりが買われたとうことになっているが、手のいい左遷である。 あの事故は名古屋本社の管轄地域で起こり、もう随分、歳月はたっていたのに、まだ語り継がれていた。 そしてその後、幸吉は大阪本社の校閲部に配置変えされ、そこで定年まで、トミが建てた京都の家に、再び家族と一緒に住 むことになる。 朝日新聞社にしてみれば、退職金を前借りしてまでして京都に家を建てた幸吉に、最後は通勤できる距離の大阪本社勤務に して定年を迎えさせてやろうとする、朝日新聞社が見せた幸吉への配慮であろうか。 幸吉は、退職間際に、朝日新聞大阪本社校閲部次長待遇と言う肩書をもらって朝日を送りだされた。 幸吉が、ヒラ社員から役職を持った社員となった最初で最後であった。 たとえ部下が一人もいなくても。 長い幸吉の地方記者人生を振り返る時、政雄が決まって思い出すのが、政雄がまだ小学校低学年の頃の、幸吉が働き盛りだ った頃の事である。 地方記者の仕事は、もちろん地方の出来事を報じることだ。 日本の政治や経済はあまり関係ない。 もちろん地方政治や地方経済について書くことは重要なことであるが、それらは最後は本社の仕事に任される。 そして幸吉も、政治や経済の記事を書くのは得意ではなかった。 いきおい、事件、事故や、その時々の季節の変わりを伝える出来事やエピソード多くなる。 そして幸吉もまた、そんな記事を書くときが一番生き生きとしていた。 学校のない日曜日の朝などは、いつまでも寝ていたかったのに、朝早く起こされて、「おい、行くぞ」と、オートバイの後 ろに座らされ、ある時は、初雪で覆われた山が朝陽に染まる景色を写真に納めたり、ある時は、その町のシンボル動物の赤ち ゃん産まれる場面の取材に立ち会わされたりした。 夕刊の締め切り前に送らなくてはと、スピードをあげてオートバイを飛ばす幸吉の背中にしがみついて風をよける政雄は、 幼心に、そんな幸吉が、心底、頼もしく見えた。 そんな記事はボツにされることが多かったのだが、幸吉は長電話で大きな声を上げて記事を送った。受話器は見る見るうち に汗で濡れた。 当時はまだ記事を送るのは電話で送っていた時代だった。 また、こんな思い出もある。 幸吉は毎朝起きると、すでに配達されている各社の新聞各紙を持ってきて、ふとんの上に広げて読み比べるのが日課だった 。 そして、これは勝った、これは出し抜かれた、とつぶやく。 のんびりした幸吉でも、それほどまでに競争意識が強いのかと驚かされた。 あれは政雄が中学生になろうとしていた頃だ。 どういう成り行きで話題がそこに及んだかは覚えていないのだが、幸吉は政雄にこう言うのだった。 「よく勉強して偉くなってくれ。キャリア新聞記者になって俺の仇をとってくれ」と。 はじめて見せた、「出世」というものに対する幸吉のこだわりであった。 「うん」とうなづいた政雄は、その時、「出世」の意味するところや、具体的にどうすれば「出世」できるかをわからない まま、幸吉の期待に応えようと、そのとき本気でそう思った。 幸吉の喜ぶ顔を見ることができればよかった。 政雄は優秀な成績で一流大学に入学し、卒業して、一流の商社に入社した。 それは幸吉の願いとは異なり、必ずしも新聞記者になって幸吉の「仇」をとることにはならなかったが、幸吉は、新聞記者 より金持ちになれる、と政雄が商社マンになることを素直に喜んでくれた。 そんな幸吉を、政雄が最後に見ることになったのは、政雄が欧州勤務となって、三年目の夏のことであった。 すでに定年退職して久しかった幸吉は、およそ一人で旅行などするような好奇心はなかったのに、いきなり欧州旅行に行く と言い出して聞かない、と京都のトミから連絡が入った。 外出先から帰ってくるなり、格安団体旅行に、昔の朝日新聞の仲間と行くと言い出したという。 何でも朝日新聞の社員や家族、OBなどには、朝日新聞の子会社である旅行会社が、特別割引の旅行を世界の主要な国々に 提供してるという。 一人で海外する事を心配するトミに、かつての先輩や、同僚、後輩たちが、皆一緒だから大丈夫だ、それに何と言っても天 下の朝日新聞社が企画する旅行だから、といって胸を張った。 幸吉は、やはり、貧しかった新聞配達の少年を拾ってくれて、正社員として「朝日人」の仲間に入れてくれた朝日新聞社に 心から感謝し、誇りに思って人生を終えた幸せな人だった。 政雄の勤務地はスイスのジュネーブという都市だった。 その時に長男もうまれた。 ジュネーブという都市には、国連関係の各種機関の本部が集中しており、世界保健機構(WHO)の本部もそこにあった。 当時政雄が勤める商社は欧州の大手製薬会社との、ある画期的な新薬の共同開発に社運をかけていて、政雄は、その開発が 軌道に乗るまで、WHOとの連絡担当として赴任していたのだ。 幸吉がはるばる政雄を訪れようと思ったのは、初孫を見るためだということになっていたが、もちろん久しく会っていなか った政雄に会いに行くためだったのだ。 日曜日だからホテルまで迎えに行くという政雄に、日本人の添乗員がホテルから車を出してくれるから、ホテルに戻る時だ け送ってくれればいいと、幸吉は電話を切った。 団体旅行の集団行動の合間をぬっての自由行動だから、迷惑はかけられない、長居はできない、と、そればかり繰り返した 。 それから半時間ほどたって、ベランダのはるか下から大きな声が聞こえた。 「マサオーーーー」 まぎれもない幸吉の声だ。 しかも、日頃は何を言ってるのかよく聞き取れない、くぐもった声で小さく話すのが常の幸吉が、こんなに大きな声で叫ん でいる。 政雄は10階建の高級アパートの一戸に住んでいたが、その声を聞いてあわててベランダに出て見下ろすと、そこには幸吉 が両手を広げて見上げている姿があった。 何年ぶりに見る、幸吉の姿だろう。最後に会ったのは、ずいぶん昔の事のように思えた。 しばらく見ない間にずいぶん老けた気がした。 政雄が幸吉を上から見下ろしているせいか、久しぶりに見る幸吉は小さく見えた。 どこか疲れているようにも見えた。 会いたさ一心で、はじめて飛行機に乗って遠路はるなるたずねて来てくれたことを重ね合わせると、政雄はたまらなくなっ て、政雄もまた、自分でも驚くほど大きな声で「おとうさーん」と叫んでしまった。 赤ん坊を抱き上げ、頬ずりし、ひとしきり話したあと、もうホテルに帰らなくては、皆を待たせたら悪いと言って、政雄に ホテまで送ってくれと頼む幸吉に、政雄は言った。 せっかく来たんだ、今夜は一緒にメシを食おう。 ジューネーブには日本食レストランもあるし、全国の日本酒もそろって いる、案内するよ、団体旅行だからいくらでも都合はつくよ、と言って強く引きとどめた。 しかし、朝日旅行には迷惑はかけられないと繰り返して、幸吉はホテルに送ることを政雄に要求した。 明日からの旅行の日程を聞いても、よくわからず、興味もなさそうだった。 幸吉は明らかに政雄に会いにジュネーブへ来たのだ。政雄をひとめ見るためだけに。 車をホテルの玄関口に止め、エンジンをかけたまま、政雄は幸吉をホテルの玄関まで案内し、もうすぐ休暇をもらえそうだ から、その時は京都に顔を出すよ、それまで元気にしててな、そういってあわただしく別れたのが、政雄が幸吉を見た最後と なった。 トミから電話がかかってきたのはそれから二週間ほどたった夜だった。 「お父さん、風邪をこじらして入院しやはった。旅の疲れがでたんやろか」 しかし、そのときは、さほど病状は深刻な様子ではなかった様だった。 実際のところ、それから一週間ほどして、今度は政雄のほうからトミに、大丈夫かと電話をかけた時は、順調に回復して、 いよいよ明日退院できることになった、よかったなあ、と退院の準備をすませて、たったいま病院から帰ってきたところだっ た。 安心して政雄は受話器を置いた。 トミから再び電話がかかって来たのは、それからわずか数時間後だった。 「お父さん、死にかかったはる!どないしょう」 電話口の先で、トミの、うろたえ、嘆く声が飛び込んで来た。 トミが語るそのときの模様はこうだ。 退院の支度を済ませ、今晩が入院生活の最後になるからゆっくり休んでくれと、幸吉を励ましたあと、トミは、病院のお医 者さんや看護婦さんにお礼を言って病院を出て、家に帰宅した。そのとたん、幸吉の様子が急変し、応急措置をとったけれど 間に合わなかったと電話がかかって来たという。 危篤状態が続いているという。 とにかく今すぐ戻ってくれという。 政雄は、とっさに医療ミスに違いないと思った。 しかしトミにはそんな考えは及びもつかない。 たとえそう思ったとしても、トミにはそれを言い出す術もないし、それをそのときのトミに求めるのは酷である。 こうして幸吉は、トミにも、政雄にも、一言も言わずに、あっさりこの世を去って行った。 電話で危篤の通報を受けた政雄は、すべての予定をキャンセルし、すぐに帰国の航空券を手配したが、ジュネーブから京都 の道程はながい。 おそらく京都に着くころはすべてが終わっているだろう。 政雄は夕焼けの雲海を、飛行機の窓から眺めながら、そう覚悟した。 みるみるうちに涙があふれ、とまらなかった。 政雄はそれまでの人生で、泣いたことはなかった。 その後、妹が幸吉の後を追うように死んだ時も、母が死んだ時さえ泣かなかった。 今から一年前、最後の肉親である祥子が急逝した時でさへも、その死を冷静に受け止められた。 しかし政雄はその時は泣いた。 しかも、これ以上ない大粒の涙を流して。 このように、政雄にとっては、父である幸吉との別れが一番悲しいものであったが、振り返れば、政雄にとっては、家族の 中では、常に長女の祥子の存在が圧倒的に大きかった。 なにしろ、政雄は姉の祥子には、なにもかも勝てなかったからである。 そんな祥子の思い出の中で、忘れられなく、悲しいのが、父幸吉と祥子の仲の悪さだった。 もっとも姉の祥子が一方的に幸吉を嫌っただけであったのだが。 祥子はついに幸吉との関係が悪いまま、大学を卒業するのを待っていたかのように京都の家を飛び出し、幸吉が死ぬまで京 都の家に帰ってくることはなかった。 政雄が幸吉の初任地であった山口県下関市で生まれた時は、長女の祥子は3歳であった。 それまで、はじめての子供であった祥子を可愛がっていた幸吉は、長男政雄の誕生に喜び、以来祥子より、政雄に接する機 会がてきめんに増える。 子供心に祥子はそれを感じて育っていった。 祥子が京都で生まれた時、幸吉とトミは喜び、京都のまわりの者も皆、それを祝福した。 はじめての赤ん坊が無事誕生し、しかも可愛い女の子だったからだ。 実際のところ、幸吉のほうではなく、宮内家のほうに血筋を受け継いでいる祥子は、美人で聡明に育った。 政雄が、姉の祥子には、何もかも勝てなかったというのは、本当だったのである。 しかし、姉は気性が強く、わがままだった。 そして幸吉をだんだんと敬遠するようになる。 それは、しかし、政雄が生まれ、幸吉の愛情が政雄に注がれるようになったから特にそうなったというわけではなかった。 父親が、待望の長男が出来て喜び、可愛がるのは長女の祥子としても、幼いなりに理解していた。 そして祥子も、弟の政雄を可愛がり、そんな政雄を父親の幸吉が可愛がるのは、むしろ当然なぐらいに思っていた。 祥子が父親の幸吉を敬遠し、嫌い、のちには軽蔑的な感情を抱くようになったのは、祥子が、思春期になってからだった。 祥子は、自分の相手になる男性は、強く、偉く、賢い男性でなければならなかった。 幸吉は、そのような祥子にとって、その対局にある男と終始映ったのである。 そして、その祥子の幸吉に対する否定的な感情は、当然ながら、祥子が大人に近づくにつれて、ますます強くなって行った 。 祥子は、幸吉のいないところで、トミと政雄を前にしてよくこう言った。 「なんでかあちゃん、あんな人と一緒になったん?」と。 そんな時、トミは決まって、「なんでやったんやろなあ」と笑って答えるのが常だった。 そして、そう言った後で、祥子はかならず政雄に相づちを求めて来た。 「そうやろ、政雄。あんたもそう思うやろ。あんたお父さんに好かれて、仲ようしてるけど、あんたはええ子やから、お父 さんに合わしてあげてんにゃろ? 本当は、あんたかて、内心馬鹿にしてんにゃろ?」 それは、とりもなおさず、祥子が政雄を、男として合格点を与えているということだ。 祥子は政雄を、少なくとも、自分の言っていることが理解出来るレベルの男と見ていたということだ。 実際のところ、政雄もまた宮内家の血を引いて祥子と同じ様なところが多かった。 だから祥子はいつも政雄には気を許し、祥子にしては優しかった。 しかし、政雄は、少なくとも幸吉については、決して、祥子のようには思ってはいなかった。 だから適当に返事をはぐらかせた。 政雄は、祥子の幸吉に対する厳しい評価もわからないではなかったが、祥子が幸吉を悪く言うの聞くことが一番つらかった 。 おとなしく、我慢強い幸吉は、そんな祥子の悪態に、いつも寛容であったが、ただ一度、祥子を殴ったことがある。 それは祥子が大学の卒業を控えたある夜のことだった。 夕食が終わろうとしていた時、幸吉が祥子の前でこう言った。 「就職もええけど、はよ結婚したほうが女はええぞ、」 これは、幸吉の祥子に対するいつもの口癖で、これを幸吉が言うたびに、祥子が怒り、幸吉と大喧嘩になり、それが祥子の 幸吉嫌いをさらに高じさせるた。 いつもは、しかし、祥子が言い返し、それで終わるのであるが、その夜は違った。 「そんなこと、おとうさんに、言われとうないわ」 そう言って祥子が幸吉に挑みかかったのだ。 就職して、男と一緒に競争して、そして自分より優秀な男を見つけて、納得のゆく理想の結婚生活を送ろうと希望に燃えて いた矢先に、幸吉のように、鈍感で、無神経で、およそ出世に縁遠い、それでいてそんな自分に安住できる、そんな男に、こ れからの希望に水を差されて、祥子は頭に血がのぼったのだ。 そのとき、幸吉の手が飛んだ。 祥子の頬を大きな音を立てて張り倒したのだ。 「やめよしー」 トミの悲鳴があがり、政雄が止めに入った。 その夜から、祥子と幸吉は二度と口をきかない日々を送ることになる。 祥子は大学を出るやいなや家を出て、我々には行き先を告げず、以来その後の消息がわからなくなる。 後でわかったことだが、トミには行き先を伝え、その後も時々連絡をとり続けていたらしい。 なんでも、あの後、米国へ留学し、高位の学位をとって米国の企業に就職できるようがんばっているという。 やはり、母は、どこの家庭でも、家族のそれぞれが、最後は話をする、連絡先であり、よりどころなのだろう。 祥子がこうした事件を起こしたきっかけで家をでるようになる少し前、政雄は珍しく、少し長い会話を祥子と交わすことが あった。 子供の頃はよく話したが、お互いが大きくなると、関係が悪い訳ではないが、政雄は祥子と話す機会は少なくなっていた。 祥子のほうもそうだっった。 いまから思うと、あれは、祥子が京都の家をでる前に政雄が祥子と親しく言葉を交わしたおそらく最後だったのではないか と、政雄は振り返る。 そのとき政雄は大学一年生で、夏休みに欧州旅行から帰ったばかりだった。 南フランスの田舎を訪れた時、道ばたで見つけた香水売りから10フランで香水の小瓶を祥子のおみやげに買って帰ったの だ。 祥子には高級ブランドの香水など不要だ。 それは、これから自分でいくらでも買うだろうし、様々な男からプレゼントされるだろう。 「お姉さんに欠けているのはこれや」 政雄は祥子のことをいつも「おねえさん」と呼ぶ。 本当は「ねえちゃん」であるが、そう呼べないこわさと偉さが、政雄にとって、祥子には常にあった。 「これつけると男が勝手に寄ってくるんやて」 いつもは、そんなことを政雄が言い出そうものなら、 「そんなことうちに言わんといて」と不潔と言わんばかりに怒りだすのであるが、そのときはめずらしく優しくこう言って 素直に受け取った。 「ありがとう。政雄のやさしさをもろとくわ」 それから何年か経って、欧州勤務の政雄のもと京都のトミから長文の手紙が届いたのは、幸吉がなくなって2年ほどたった ころだった。 そのときは政雄はジュネーブでの任務を終え、実業化のめどがたった新薬の欧州販売網をつくるために、居所をジュネーブ からパリに転勤したばかりだった。 そこには、いつものトミの達筆で、次のように書かれていた。 すなわち、祥子がやっと米国で理想の相手を見つけて結婚した。結婚式は是非京都ですると言って帰って来て、平安神宮で すませたばかりだ。あのときは、ずいぶんわがままな事ばかり言って父との関係がうまく行かず、長らく京都の家にもどらな いまま、父と会う機会も、葬儀に駆けつけることさえしなかった自分であったが、こうして歳を少し重ねていろいろな経験を すると、お父さんには悪い娘だったと思う、そう言って花嫁衣装の姿を一目父にみせたかったと、涙ぐんでいたと。そして祥 子の花嫁衣装姿はとてもきれいだったと、おおよそ、そういう事がトミの達筆な字で手紙にしたためられてあった。 幸吉とトミにはもうひとり、歳の離れた末娘の多恵がいた。 幸吉が下関から福山に転勤し、そのあとさらに尾道に転勤した時にうまれたのだから、政雄より4歳ほど若く、祥子より7 歳ほど離れていることになる。 幸吉とトミは、子供は祥子と政雄の二人で十分だと考えていたのだが、成り行きで二人目の娘が出来たのだ。 歳が離れてうまれた末娘はやはりかわいいものだ。 多恵は可愛がられ育った。 ところが、可愛がられて育つことと、本人が幸せな人生を送ることができるかは、また別だ。 本人の自分を見る目と、まわりが客観的に見る目との間に違いがあることが人生にはままある。 楽観的な場合はいいのだが、悲観的に見てしまう場合には悲劇となる。 そして、人は残念ながら、そちらの方に傾くのである。 多恵の場合もそうであった。 多恵は、祥子や政雄と違って、よくいえば、のんびりした、おだやかな性格であるが、悪く言えば、なにごとにも理解が鈍 いところがあった。 それに容姿も幸吉に似て生まれた。 だからと言って、劣っているとか、器量が悪いというほどではなく、人並みの、あるいはそれ以上の頭と容姿は持っていた 。 しかし、祥子や政雄と比べれば見劣りした。 そして、これを、祥子は、「多恵はとおちゃんによう似てうまれはった」と、子供ごころによく口にしては多恵を傷つけた 。 多恵が生まれたころは、幸吉が家で飲む酒の量も日増しに増えていて、毎日、いや四六時中、酒のにおいが途絶えることが ない日もよくあった。 「とうちゃんがアル中の時にうまれたからこんなんになったんや」、と多恵は祥子の言い方をそのままに、幸吉をなじるよ うになった。 その上、多恵は、あまり勉強が好きでなく、大学に行こうと思えば行くことが出来たのに、行かずに、高校を出たら家にい ることを好んだ。 勉強ができるから学校へ行くのが好きになるのか。 それとも、学校が好きだから勉強ができるようになるのか。 これは興味深い問いかけであるが、まあ、勉強が好きな子なんていないだろうから、我慢して学校へ行き、我慢して勉強す るうちに、成績もあがるということだろう。 多恵は、祥子や政雄にくらべて、いずれも、そうではなかったということだ。 いずれにしても多恵は、高校をでてからしばらくは、トミに頼るようにして、くっついて毎日を過ごした。 多恵のおとなしい、引っ込みがちな性格を知っている幸吉もトミも、そんな末娘の多恵を不憫に思い、甘やかせた。 そのうち、毎日家に引きこもってばかりいると、本当に引きこもったばかりの人生になると危惧したトミは、多恵に働きに 出て見ないかとすすめ、多恵も、そう思っていたところだったので、多恵にしてはめずらしく、すばやく行動に移したのだっ た。 河原町のフランスレストランのサービス係りを皮切りに、デパートでは営業担当、洋装店では衣服の卸し会社との交渉担当 といった具合に。 そして、その職場を通し、世間の男たちと付き合う機会も持つようになる。 そして、そこで多恵は人生の現実をはじめて身を持って知ることになる。 要するに、結婚したくなっても、したい相手がみつからないのだ。 いや、もっと正確に言えば、結婚したい相手が見つかっても、してくれないのだ。 あるいは、そんな男は、すでに相手がいたり、幸せな家庭を持っているのだ。 それは、冷静に考えてみれば、誰にでもありうることで、人はみな、それと折り合いをつけて生きている。 いや、生きざるを得ない。 男も女も。 しかし多恵は、それを自分だけがそうだと思いこみ、そのせいを、自分のせいにして、自らを傷つけるようになっていった 。 政雄はそんな多恵を不憫に思い、注意したり、男とのつきあい方を教えたりと、ずいぶん気にかけてやった。 多恵も政雄には心を許し、慕っていた。 実際のところ二人がまだ小さいときは、多恵との遊びや、多恵の面倒は、政雄が一手に引き受けていた。 政雄は姉の祥子とは、基本的に共通したグループに属する人種であったが、同時にに祥子にはない優しさがあった。 だから多恵とも仲良くできた。 一方、姉の祥子は多恵には冷たかった。 血を分けた姉であるというのに。 それは祥子が多恵を嫌うというよりも、政雄に接する時のように、あるいは幸吉に接する時のように、常に自分を中心にも のを考え、自分の基準から劣っている者に対しては関心がない、ただそういうことなのである。 幸吉や政雄ならまだいい。 父親の幸吉は、娘に注意することはあっても影響されるということはない。 政雄は男だし、勝てないといっても、人生で勝負する土俵は異なる。 しかし多恵は違った。 同じ異性であり、思春期になれば常に姉を意識するようになる。 競い合おうとするのだ。 とくに美醜において。 とくに男との交際の競争において。 祥子は、一時期、自らの美しさをさらに美しくしたいと思ってダイエットに励んだ事があった。 たしか大学を終えて社会に出て行こうとしている頃だったと思う。 やせて、あらゆる服が着こなせ、似合うようなりたい。 私などに言わせれば、美しいひとは何を着ても美しく、むしろ質素なものを着ているときこそ、その美しさが際立つと思う のだが、そして世の中のたいていの男は、私とおなじように考えていると思うが、女性はどちらかと言えば、肉付きのいいほ うがそそられるのだが、いずれにしても細くなることは女性にとっては美に近づくことになるらしい。 いきおい祥子は、やせるぞ、と目標を決めたら徹底し、食べる量を減らし、しかし食べたくなるから食べ、そしてそれをす ぐ吐き出せば栄養にならないから太らない、そう知恵を働かせて、食べては吐き出すことに励んだ。 確かに理論的にはそうだ。 そして祥子は減量し、成功した。 それを多恵が見て真似し始めたのだ。 祥子は聡明だから、愚かだいうことに気づき、すぐやめて、元の生活にあっさりもどった。 祥子の場合、成功しても、しなくても、あまりかりはないのだから。 もともと祥子はダイエットなどしなくても美しく、またダイエットする必要があるほど太っていなかった。 ところが多恵は違う。 客観的に自分を見ることが出来ず 美しさに自信がない上に、幸吉ゆずりで、すぐ太る体質であった。 減量は必要で、効果はあったのだ。 祥子がダイエットを始めた時は、タイミングがいいと言ったらいいのか、悪かったと言うべきか、ちょうど多恵は思春期に 入ろうとしていた頃で、祥子を真似だしたまではよかったが、祥子があっさりとダイエットを止めた後も、自らの意志で続け 、その度合いを強め、そして拒食症という、心の病に陥った。 それから、多恵と母トミのながく、悲しい生活が始まった。 祥子はもちろん、みずからがそうさせたという罪の意識があった。 だかこそ、多恵の病気から距離を置いた。 というよりも、自分のまねをして拒食症になった多恵を、「あほな娘やなあ、多恵ちゃんは」と、多恵を弱い、おろかな女 だと、内心思い、それを、それとなく口に出すこともあった。 女の心理を読み解くことのできない幸吉は、拒食 などという病気の意味がまるでわからず、奇病あつかいして、はやく医 者にみせろの一言ですます。 ひとり政雄だけが、親身になって心配するトミの不憫さと多恵の不幸に同情し、なんとかならないものかと色々手を尽くそ うとした。 しかし、治そうとすればするほど、それがいかに難しいかを思い知らされた。 これは間違いなく精神の病で、他人が解決できるものではない、と政雄はそのとき確信した。 いまから思えばちゃんとした病院に入院させ、専門の医師の科学的で適切な治療をほどこせば、あるいは容易に治ったかも しれないが、当時のトミにはそんなことなどおよそ考えも及ばなかった。 政雄もまた、多恵に、そんな事しなくても「たーちゃんはかわいいんやで」(政雄は多恵をそう呼んでいた)と、つとめて 軽く振る舞って、その誤りに気づかせようとした。 拒食症にはそういう言い方がタブーであるとは政雄はその時は知らなかった。 トミと政雄の多恵に注ぐ愛情と励ましだけでは、拒食症という悪魔のような病は少しも改善せず、それどころか、年を追っ て症状は悪化し、最後は骸骨のような姿で緊急入院する羽目になり、そしてトミと政雄に見守られて息を引き取った。 その時、祥子はとっくに米国へ移住していた。 政雄は今でも当時の悲しく、つらい日々を時々思い返して思う。 自分はあの時、多恵を助けてやれなかったのだろうか。 本気で自分に多恵を助ける強い意志があったのだろうか、と。 一番いいのは、多恵にふさわしいいい男をみつけてやることだった。 それは政雄が、その時、直感的に感じていたことだった。 なぜなら、もちろんそれは自分のためで、自己満足のためだというけれど、やせようとする事は、やはり男にきれいになっ たと認められ、その男を手に入れるためであると思うからだ、 だから政雄は東京に多恵を時々連れて行って、同僚の集まる場所でさりげなく紹介したりした。 しかし、自分でさえ売り込むことの下手な政雄が、自らの妹を売り込んで、しかも相手にその気にさせることなんて、とて もうまくできるはずがなかった。 しかも、もともとそれが不得手な、自分に過度に自信のない多恵に、それが出来るはずは、さらになく、 、結局、何の為につれて行ったかわからないような形で終わった。 そして、それがますます多恵の自信を奪って行き、拒食症を悪化させるのであった。 政雄は、政雄としては本当に、精一杯、一生懸命、不幸な多恵を助けようとしたのだ。 なにもしてやれなかっただけなのである。 そんな悲しい出来事と、その時の自らの無力さをすっかり忘れてしまうほど長い歳月が過ぎて行ったある夜、政雄は身震い するほどの体験をする。 営業部長に昇格していた政雄は、赤坂の高級フランス料理店に取引先の社長から招待され、二人で食事をしていた時のこと だ。 食事があらかた終わり、ワインの残りを楽しんでいた政雄の前に、チーフシェフとおぼしき、白衣に白い高帽子をかぶった 中年の男が、食事はご満足いただけましたでしょうか、と挨拶に近寄ってきた。 そのときだ。 織田様には多恵さんという妹さまがいらっしゃいませんでしたか。いまでもお元気にされていますか。と聞いてきた。 そのあまりの偶然に驚いた政雄は、そうです、多恵は確かに私の妹です。もうずいぶん前に他界しましたが、と答え、なぜ 多恵の事を知っているのかと聞いた。 そのシェフは、多恵の死を知って驚くとともに、次のように淡々と答えたのであった。 すなわち彼は駆け出しのころ、多恵が一時働いていた京都四条河原町近辺にあった、やはり高級フランスレストランにつと め、そこでわずかな期間、多恵と一緒に仕事をしてたという。 そのとき多恵はいつも兄政雄のことをまわりの同僚にほこらしげにはなしていたという。おにいちゃんは頭がよくて、やさ しくて、女の子にもてて、今度大きな商社の商社マンになって東京へ行くことになったのって。 私の事を思ってくれる優しいお兄ちゃんで、なれないことを無理して私の為にしてくれたりして、感謝してるって、よく聞 かされました。 あなた様が、ひょっとして多恵さんのお兄さんだったのかと、一言ご挨拶させていただきたいと思いまして、ご挨拶をさせ ていただきました。 それにしても多恵さんがお亡くなりになられていたとは知りませんで、失礼しました。つつしんでご冥福をお祈りさせてい ただきます・・・ そう言ってシェフはその場をいとま乞いした。 多恵が一瞬、よみがえったのだ。 このシェフを通して政雄に伝えに来たのだ。 お兄ちゃん、気にしなくてもいいのよ、お兄ちゃんには、本当に感謝していた、私が自分に負けただけよ、でも、それが私 のうまれた人生だった、それだけよ、ありがとう。 政雄はこの夜、多恵に慰められた。 そして多恵は、それからは政雄の記憶から消えて行った。 幸吉が、幸吉らしく、あっと言う間に、黙って京都家から去り、そして、幸吉に似て生まれた多恵が、幸吉の後を追うよう に、多恵らしく、多恵のまま去った。 京都の家はトミと祥子と政雄だけになった。 祥子は、しかし、大学をでるやいなや、幸吉に反発して京都の家を飛び出し米国に行き、それ以来、基本的には米国暮らし となった。 だから、多恵がいなくなってからというものは、京都の家はトミと政雄の二人となった。 いや、それも違う。 政雄は海外勤務と東京勤務を繰り返す日々が続いたから、トミは一人でそれからの長い日々を、京都の家で過ごすことにな ったのである。 政雄は、トミを引き取って一緒に暮らそうと思えばもちろん出来たが、そしてそれをトミに勧めたことがあったが、トミは 頑として応じなかった。 一人で京都の家を守っていくのが一番ええんや、好きなようにさせてんか、と言って京都の家に住みつづけることにこだわ った。 言われてみればその通りだ。 あれほど京都に帰りたがって、そして強引に建てた家だ。 あの家はトミの家なのだ。 宮大工である与一郎の腕と愛情で、トミのために建てられた家だ。 そこに一人で住み、家とその周りを毎日きれいに掃除し、季節の移りを楽しむことは、老境に入ったトミにはもっとも平穏 な、こころ安らぐ暮らしに違いない。 歩いていけるところに、あの宮内家の親戚もまだ多数健在であった。 だから、政雄は、そんなトミを、時間を見つけて訪れることで、トミと京都の家との関係を保ち続ける日々を送ることにな った。 幸いにも、トミは晩年になって、一つの生き甲斐みたいなものを見つけた。 それは、この世の中の不正議に腹をたて、それを正しく直せない悪い政治家たちを、一人で勝手に批判することである。 そうすることによって元気を保つようになっていった。 それを政雄にぐちることで政雄とのつながりを確かめるのである。 もともと、トミは曲がった事や、卑怯な事が大嫌いな性格だった。 近所で子供が泣かされているのを見ると、中へ割って入り、その理由をただして、いじめがわかると、ひとの子もかまわず しかる。 政雄がまだ小学生ころ、いじめられて帰ってくると、その親の家に乗り込んで文句を言う。 子供の喧嘩に親が口だしするのは大人げないと相手の親にたしなめられても、「親が守ってやらなければ誰が守るんどすか 」とやり返して平然として帰ってくる。 そんなトミであった。 晩年は、テレビや週刊誌のニュースを丹念に見たり、聞いたりして、国民を大切にしない政治に憤懣やるかたない様子だっ た。 たまに政雄が京都の家に帰る時は、たちまち議論をふっかけられて、そのあまりの知識と関心の豊富さに、政雄も驚かされ 、辟易させられることがあった。 ちなみに幸吉は、新聞記者のクセして政治にはあまり関心なく、いつも日教組の悪口ばかり繰り返すようなひとであった。 幸吉とトミがまだ、我々と一緒に暮らしていたときは、トミが政治の話をしたことを、政雄は一度も聞いた記憶はなかった ので、このトミの政治好きは、晩年、一人暮らしを続けるうちにそうなったことのようだ。 トミの一人ぐらしは、このまま永久に続くように思われるほど安定しているかに見えた。 しかし、時の経つのは、それを誰にも許してくれない。 あれはいつものように夜おそく京都の家に東京から新幹線で着いた時の事だ。 東京勤務の時は、政雄は、電話ではよく連絡をとってトミが健康で過ごしているかを確かめるが、トミが大丈夫とわかれば 会いに行くことは年に一、二回ほどだった。 京都へ行く時は、いつも仕事を終えて新幹線の大阪行き最終号に乗り込む。 だから京都の家につくのはいつも深夜だ。 それでもトミはいつもテレビのニュースや討論番組などを見て起きている。 ところがその時は部屋の電気が薄暗く、トミは寝ていた。 「どうしたんや? 具合でも悪いんか?」 そう訪ねる政雄にトミはこう言ったのである。 「体はどこも悪いところはあらへんのやけど、なんとのう、政治に関心がないようになってきたんや。テレビを観てても、 週刊誌読んでも、おもしろのうなったんや。読む気せえへんのや・・・」 そう語るトミの表情は、これまで見てきたトミとはまったく別人の、精気のない顔であった。 「痴呆が始まった!」 政雄は咄嗟にそう思った。 医者に見せたら、やはり年齢からくる老人性痴呆がはじまったという。 幸いにも進行は遅かったが、老齢からくる老人性痴呆症であり、何人も、程度の差こそあれ、避けられない宿命だという。 その時、トミはすでに85歳であった。 政雄はすぐに米国の祥子に連絡して、どちらがあの家に住んでトミの晩年を一緒に過ごすか相談した。 政雄は、東京本社から大阪本社に異動を申し出て、京都の家から通勤する覚悟を決めていた。 配属部署も、母がなくなるまでの間は海外出張のないところに願いでるつもりでいた。 それは政雄の出世にとっては明らかに不利であったが、もうその時、政雄は十分出世していたし、これ以上出世せずに終わ ってもいいと覚悟を決めていた。 それはトミがこのようになったからではない。 政雄は、みずから全力で出世街道を突っ走って来た最短人生の来し方と、これからいつまで、このまま元気で生きられるか 分からない人生から、逃げずに、正面から向かいあおうとしていたのだ。 意外なことに、祥子は、自分が帰ってきて、トミと京都の家に住んでもいい、とあっさり電話口で返事した。 京都の家など二度と帰らないといって出て行ったくせに、そして京都の家に帰るたびに、いつもやっぱり米国暮らしが良い と言うのが、口癖だったのに、そのときは京都に帰ってもいいよと言ったのだ。 勘ぐって考えれば、おそらく祥子はこう考えていたのではないかと思う。 京都の家を引き継ぐのは私だ。 最後は私が一人そこに住むことになる、と。 本当はそれだけではなかったのだが。 もっと驚く理由があったのを政雄が知るのは、まだ少し先の事になる。 しかし、政雄はそれでも、祥子が住んでトミの世話をしてくれるのなら、正直いって助かる。 幸吉やトミにしてみれば、米国人になってしまったような祥子より、長男の私に家を継いでもらいたいと思ったに違いない が、政雄には京都にも、京都の家にも、特別のこだわりはなかった。 こどものころから転勤ばかりして、どこでもすぐに適応できたし、政雄もまた、祥子と似て、大学を出てからは東京暮らし と海外勤務、出張を繰り返してきた。 定年後も多くの知人、友人とのつきあいは東京とその周辺が中心になるだろう。 かくて祥子と、痴呆が進行していくトミとの、京都の家の二人だけの生活が始まった。 ところが、まもなく祥子がトミを養護施設に入れたいと言い出す。 どうせ痴呆は進む一方だし、最後は我々では手に負えなくなる。 どうせそうなるのだから、早いほうがいいではないか。 トミもそのほうが幸せだ。 いや、どのみちトミは早晩何もわからなくなる日が来るから。 費用は負担してやってもいい。 少なくともお前よりはだいぶ余裕があるから。 それが嫌なら、お前が京都の家に住んで面倒見ればいい、いつでも自分は米国に帰る、と。 見事な物言いである。 確かにその通りだ。 政雄はそれを了承することになる。 祥子にあっては、いつも政雄は勝てないのである。 タミがこんなになってしまってもろ。 それでも、せめて、まだトミの痴呆が京都の家を認識できるうちは、京都の家にいさせてやりたい、そのようなやりとりを しているうちに、いよいよトミの痴呆が進んでいった。 「こんなになって、それでも政雄、家で面倒みれるか、見れるんやったら、みてえな」 祥子の決め台詞が繰り返される。 これに対し、政雄も、一応は、刃向かってみせる。 「お姉さんが京都の家を出て行くんならそうするで」 そんなやり合いにが続くうちに、結局最後はトミを養護施設に入れざるを得ないことになって落ち着いた。 養護施設に入ったトミは、見る見るうち衰弱し、やがて88歳の生涯を終えた。 トミの一生はどういうものだったのだろう。 トミがあのような奔放な母親の子ととして生まれ、その母親の交通事故死を含めた不幸な境遇に翻弄されるところまでは自 分の力ではどうにもならない運命みたいな物だ。 しかし、少なくとも、幸吉と見合い結婚してからの人生は自分で選び、自分でつくりあげたものだ。 運やめぐり合わせの、よし、わるしはあるにせよ、自分をなっとくさせるほかはない。 幸吉との結婚生活は幸せだったのか。 子供に恵まれたのか。 その子供たちを満足いくように育てられたのか。 同じ父から生まれ、同じように食べさせて育てたのに、容姿や性格や能力や運命までも異なる。 この不合理さにどう向き合ったのか。 そしてそれらの事を、夫の孝吉と正面から話合うことはあったのだろうか。 出来の悪い子供ほどかわいいというたとえがあるが、そうだったのか。 子供三人の中で、誰が一番かわいかったのか。 何よりも、あの祥子をどう見ていたのか。 聞いてみたいことは山ほどあった。 いや、そんな野暮なことは政雄は聞きたくもなく、聞こうとも思わなかった。 それはトミが死んだ今もだ。 母親は自分がおなかを痛めた子は、すべて等しくかわいいのだ。 分かっている。 だけど、どうだったんだろうなあと、政雄は思うのだった。 そんな母親のトミに対して、政雄が一生を通じて、つまり母が痴呆になって死ぬ直前の正常な時まで、トミがどんなに歳老 いても、政雄がどんなに歳をとっても、悩み続けた事がある。 それは、母の息子に対する無条件の溺愛と、その溺愛から逃れて自立する、それでいて母親を悲しませない、傷つけない、 この葛藤である。 実際のところ、政雄のトミに対する思い出は、圧倒的な大きさと重さで、その事が幅をきかす。 孝吉もトミも無条件に政雄を可愛がった。 ところが、孝吉の愛は負担にはならなかった。 しかし、トミの愛は苦痛だった。 このまま行けば、ほかの女性を愛せない。 直感的にそう感じた。 だから、意識的に距離を置いた。 するとトミは、冷たい子や、薄情な子や、親の気持ちがわからない子やと悲しむ。 これはつらい。 そうではないのに。 それが嫌だったから、祥子が幸吉に抱いた感情とはまた別に、政雄は大学をでるやすぐに家を離れて東京ぐらしを始めたの だった。 そしてトミが老いて一人で住むようになっても、還暦前の政雄が京都をたずねていくたびに、やれ好物の食べ物を買って置 いたからもっと食べろとか、やれ布団をあらっておいたからそれにしろとか、似合いそうなシャツを見つけたから持って帰れ とか、この歳になってあまりにうっとうしいので、予定を一日早めて帰ることになり、それがまたトミを悲しませる、政雄と トミの母と息子の関係は、少なくともこれに終始したのだった。 はたして、世の中の、母と息子の関係はどのようなものであろうか。 もちろん、千差万別に違いないだろうが。 いずれにしても、5人家族で始まった京都の家の暮らしは、とうとう祥子と政雄だけになってしまった。 そしてトミの1周忌を終えて間もないある日、祥子は政雄を驚かせる。 「政雄、そこに座ってくれへんか」 いままで祥子から聞いたことのないような弱い、優しい声で、祥子は政雄にリビングの長い、大きなテーブルの真ん中に座 るよう求めた。 かつて5人家族が全員そろったとき、ここで夕食をとったり、話をしたりした、京都の家の食堂であり、居間であった。 京都の家の中心のスペースであった。 そこで祥子は次のように、これまでの自分の米国での今日までの生活を、はじめて政雄に話すのだった。 それによればこうだ。 幸吉とはじめてとっくみあいの喧嘩をして家を飛び出した祥子は、その後米国への留学を決心し、よく勉強して米国の一流 大学の経済博士学位を取得し、米金業界で働くようになる。順調にキャリアを重ね、金融業界の有力者の仲間入りまでもする ような成功をおさめる。 その一方で、私的な生活でも、時間は多少かかったが、思い描いていた理想に近い男性を米国人に、見つけ、その男性との 間に長女一子をもうけ、京都の家を飛び出した時に計画したとおりの人生を歩んだ。 そんな祥子が、いま、すべてを捨てて、離婚し、京都の家で、ひとりで老後を過ごしたいというのだ。 「政雄、うち、離婚するんや。離婚するゆうても、喧嘩わかれとはちがう。夫とも、娘とも、よう話おうた末のなっとくの 上の円満離婚や。 うち、はよう、この家飛び出したやろ、最後はこの家で残りの人生を送ってここで死にたいんや・・・」 夫はそれを了解し、ひとり娘も結婚して自分の家庭を持って米国でしあわせに暮らしているので、祥子がそれをのぞむなら それでいいと、了解してくれたという。 いかにも米国流であるが、祥子のほうは、長年米国で生活しても、やはり日本人なのか、と妙に関心しつつも、身勝手な祥 子らしいと、政雄はそのとき思った。 「それでええよ、わしはまだしばらく東京と外国を行ったり来たりするし、仕事をやめても東京暮らしになると思うし、誰 かがあの家に住んで維持せんとあかんにゃから、ちょうどよかったやないか」 それは、しかし、政雄の本心ではなかった。 政雄は自分が長男だということでそう思うのではない。 あの家を最後に住むのは自分しかないと思っていた。 幸吉が死んだ時、トミは近くの浄土宗の寺に墓地を購入し、そこに墓をたてて幸吉を納骨した。 その時、トミは政雄にこう言っていたのだ。 「うちも、死んだらここに入れや。おまえたちはかってにしたらええけど、多恵もここへ入れてやってな」 それを聞いたとき、この家に最後に住んで、家族の墓参りをするのは、祥子より、みなと仲良くした自分しかないと政雄は その時思ったのだ。 そうしたいというわけではない。 京都の家と土地は、宮内家から母が借りて、いまでも宮内家のものだから、資産価値はほぼゼロだ。 家族の墓参りをよくしながら最後にあの家で死んでいくのは自分の役割だと思っていたのだ。 しかし、祥子が移り住むという。 政雄は祥子がそういえば、それを受け入れる。 そんなことで言い争いたくないのだ。 そして、祥子が住んでも、政雄が住んでも、京都家を引き継いで、家を維持し、家族の墓参りをするぐらいは、どっちがや ても同じだ。 そしてどのみちふたりとも、やがて死んでいく。 そして、祥子の後はいないけれど、自分御子供たちに、それを無理してさせるほどの家でも、家でも家系でもない。 二人が死んだら、京都の家は5人の思い出とともに消え、そこにあらたな家たち、そこに住むあらたな家族の物語が始まる 。 ただそれだけの事だ。 こうして、祥子が米国を引きはらって、京都の家に移り住むことになった。 政雄が、突然、京都の都庁の隣にある京都赤十字病院から電話を受け、至急相談したいことがあると呼びだされたのは、そ れから2年ほどたった7月の暑い昼下がりだった。 病院についた政雄が医者聞かせられたことはこうだ。 外来を訪れた祥子は急にその場に倒れ込んだという。そしてそのまま緊急入院せざるを得なくなり、その後、様々な検査を 繰り返した結果、深刻な病気が見つかったという。 一刻を争う必要はないがどうしても近日中に相談したいことがあるという。 一刻をあらそう必要がないという医者の声を聞いて、一安心した政雄は、翌日の夕刻まで待ってもらって、入院先の堀川今 出川の京都府庁前にある京都日赤の祥子の病室へ直行した。 そこには祥子の一人娘のアンと米国人の夫がすでに来ていた。 菊田と名乗る担当医は、政雄とアンたちを別室に案内し、次のように感情を表さず、淡々と所見を述べるのであった。 かなりまえから骨髄腫の病気が発生していたとみえて、疲れを覚えて外来に祥子が来たときはかなり様々な数値が異常なま でに悪くなっていた。病院に一人でたどりつけたのが驚きだったと。 入院させていろいろ調べてみると、間違いなく骨髄腫で、しかも、多発性骨髄腫といってかなりやっかいなもので、進行も している。 骨髄移植という手もあるが、あの歳では無理で、いろいろな特効薬を試しながら、いずれ抗ガン剤の投与ということになる と・・・ 助かるのか、余命は何年ぐらいか、病状が回復すれば再び家に帰れるのか、そこから通院できるようになるのか、畳み込む 質問を投げかける政雄に対し、これまた菊池医師は冷静に答えるのだった。 本人からも聞かれて答えておきましたが、それは本人と投薬の効き目具合により、1年以内で亡くなる場合もあれば10年 生きることもある。もちろん数値が改善すれば、退院して通院で治療を続ける こともできるし、そうしている人もたくさんいる。すべてはこれからだ、と。 この事は、姉は知っているのか、と訪ねる政雄に、やはり、菊池医師は、答えておいた、とだけ答えた。 祥子の娘と夫は、一通り説明を聞いたあと、政雄がいるから安心だ、様態が悪化したら、また駆けつけるから、という言葉 を残して翌日、米国へむかって飛び立っていった。 そして一年後に祥子の様態が急変し、危篤になるまでいちども見舞いにくることはなかった。 アンたちが、危篤の急報を受けて再び病院に駆けつけた時はすでに祥子の意識はなくなっていた。 一年たらずの入院中、祥子が病院をでて京都も家にもどったことが一度だけあった。 一時的に、白血球や血漿板などの数値が良くなった時期があり、無理をしてせがむ祥子に医者が許可したのだ。 いつものように政雄は東京から呼び出され、その準備を手伝わされた。 もはや祥子は政雄一人が頼りだった。 ますます政雄を頼りにし、政雄に命令的になった。 政雄はいつも、おもいがけない時に、そしてそのたいていの場合は、ほとんどどうでもいいような時だったのだが、電話一 本で東京から呼び出され、新幹線で日帰りさせられた。 政雄はすでにそれを覚悟していて、仕事は一年間、休むぐらいの気持ちでいた。 だから時間のほうは融通がきくのだが、あまり頻繁に呼びつけられると、時間と往復の新幹線代がばかにならない。 それとても、人生の、これだけ重要な局面に、今はただ一人になってしまった家族が置かれていることを考えれば、とるに 足らないのであるが、そして政雄の経済状態を考えればなんでもないことなのであるが、そんなことを考える政雄は自分がち ょぴり悲しかった。 もっとも、それをみすかしたかのようにはるかにもっと大金持ちの祥子は、お金はいくらでもだすからといってカードを政 雄わたし、暗証番号を教え、ロビーにある自分の銀行のATMで一度で一回の限度額までおろして使え、おいしいものでも食 べて帰ってくれと、その都度言うのである。 政雄は最後まで祥子には勝てなかった。 しかし、あの時だけは違った。 あの時の祥子の電話はどうでもいいことで政雄を呼んだのではなかった。 それまで改善がまったく見られなかった血液中の数値が改善し、菊池医師が言っていた最前のケースのなりそうに見えたか らであった。 政雄はこっそり菊池医師にただした。すると医師は誰でも少しは数値が良くなる時期はあり、この数値では一時帰宅は可能 だし、許したが楽観はしないほうがい、もっとも本人には元気づけることも必要だからこれは伝えないほうがよい、と言われ た。 菊池医師のいうとおり、祥子は京都の家に帰る事ができたが、やがてひと月もたたないうちに再び疲れるようになり、入院 を余儀なくさせられ、そしてその後は病状が悪化していった。 祥子は、あの一ヶ月の京都の家でのひとりの生活で、何を考えていたのだろうか。 もう京都の家はええわ、そういって再び帰りたいとはいわなくなった。 おりから、担当医が菊池医師から小川という医師に代わった。 菊池医師は出身大学の大学病院の主任研究医師に栄転し、代わりに少し若い医師が担当としてやってきた。それが小川医師 だった。 小川医師は祥子と政雄の前で着任そうそうこう話した。菊池先生はどうおっしゃっていらしたが知りませんが、この病気は いつかは抗ガン剤に本格的に頼らないと治りません。 入院から半年以上たって、様々な治療を重ねて数値がはかばかしくないのだから、これ以上時間を費やしても決していいこ とにはなりません。 実は祥子は最初、すこし抗ガン剤を投与され、そのあまりの副作用のつらさにたまりかね、これでは抗ガン剤で殺される、 と不平を言って菊池医師を困らせたことがあった。 その時菊池先生は、本人が納得しないことをやってもいい結果はでませんからと言って、抗ガン剤を使わない、しかし、効 果があると言われている最新の治療薬で半年を持たせたのだ。 抗ガン剤を本格的に使いはじめてからは、祥子はみるみる衰えていき、そして帰らぬ人となった。 入院してから結局、ほぼ一年であった。 その一年間は、政雄にとっても祥子にとっても、その生涯で、二人だけの会話を一番濃密にしたときだったと政雄は振り返 る。 しかし、いまあらためて振り返ってみると、濃厚といってもしれたものだ。 「元気か?」、 「きょうは気分はどうや」、 「ああ、また来てくれたんか、おおきに」、 「ちょっと数値がよくなったと先生いうてくれはったわ」、 「どうなんやろな、ほんまは。ほんまになおるんやろか。政雄、どう思う?」、 「きょうは暑いなあ、もうすぐ夏や、また京都で一番暑い時がやってきよるで」 「それがすんだらすぐ大文字がきて涼しいなるがな・・・」 考えてみると、人はどこまで本気で重要な話を、お互いに向き合って真剣にはなすことが人生であるのだろうか。 あの大好きだった幸吉との二人だけの時をふりかえる時、政雄はほとんど幸吉との会話を思い出せない。 政雄からでることばは、「帰ってきた」とか「元気か」、「お姉さんと喧嘩していないか」とか、「飲んでばかりやないか 」とか、そんな挨拶ばかりで、幸吉が政雄に言う言葉は、「偉くなってくれ」とか、「体に気をつけろ」とか、そんなことば かりで終わってしまう。 今度こそ酒を酌み交わして社会人としての苦労話をしようと張り切って幸吉を京都に訪ねるのに、飲み始めたらいつも手み やげの酒の肴がうまかった、まずかったでおわってしまう。 その後は黙って朝までヘボ碁だ。 子供ころに幸吉から、相手がいないからと無理矢理教えられた政雄は、その時は幸吉と良い勝負になっていて、お互い負け るともう一回となって、結局朝方まで狂じ、翌朝、「またくるわ」と言って帰るのが常だった。 会話の記憶がないのも、もっともである。 いま幸吉が死んだ歳頃になり、もしもう一度幸吉とあうことができたら、今度こそ幸吉と話したいとよく思ったりするが、 結局そのときがくれば同じ事を繰り返すに違いない。 トミとの間だってそうだ。 確かに政雄はトミとは家族の中で、一番多く、長く、二人だけで話した。 トミもいろいろなことを打ち明けてくれた。 でも政雄がトミに本当に言いたかったことや、理解してほしかったことを正面から語ったり、トミから聞き出したいことを 聞き、それをトミが語るといった深い会話をしたことは一度もなかったような気がする。 トミは一人息子の政雄に強い愛情を降り注いだ。 政雄はそれをありがたく受けとめつつも次第にうっとおしく感じ始めた。 いつかは口に出して言おうと思っていたが、それを言えば傷つかせると思って黙ってそれを受けとめる振りをしてきた。 政雄が大学を卒業するや、待っていたように京都の家を飛び出し、東京に職場を求めたのも、そんなトミの大きく、重い愛 情からうまく自立するためだった。 社会人になってからもそうだ。 連休などでたまに京都の実家に帰る時は、母孝行をしたり、初孫をみせたいというのもあるが、今度こそじっくりと話した と思って帰る。 だが、いつもトミは政雄に愛情の一方的な押しつけに終始し、政雄はそれを負担に感じつつ、いつものようにありがたく受 け止め、こんなはずではなかった、もうしばらくは京都の家には来なくてもいいなと思って帰る、この繰り返しだった。 思うに人はみな、その一生において、親兄弟や恋人、夫婦といった、本来はもっとも心を許し、どんな悩みも打ち明け、そ して相談に乗ってくれる人との間でさえ、二人だけの本当の会話を交わす時間はきわめて少ないのではないか。 テレビや映画で家族団らんで長々と話し合う場面がでてきたり、恋人や夫婦が深刻な話しを真顔で交わす場面によく遭遇す るが、あれは、現実にはそんなことはないからこそテレビや映画で実現されているのではないのだろか。 そういう会話をもてる人生は幸せだ。しかしそう多くはないような気がする。 あれは政雄が祥子がまだ本格的に抗ガン剤治療を始める直前の、元気で政雄と言葉を交わせる最後の頃だったと思う。 祥子は政雄にこう言うのだった。 「政雄に負けたわ、お父さんにあんな事いうて、米国へ行って、それで成功したけど、そして結婚も、家族も、豊かな生活 も手にれることができたけど、なんか欠けてたわ、それを政雄は持っているんや、それにやっと気づいたんや・・・」 そういって祥子はこんな病気になったのも、これまでのバチがあたったに違いないと言う。 「そんなことあるかいな、わしもおねんさんとおなじや、自分のことしか考えへん、こんな看病につきあわされて迷惑やと 思うし、自分がならんで良かったと思うたりもする、人はみなおなじや、紙一重や、でも病気になってそう思うようになって よかったやん。それに気づいたら元気になるよ、そのときはますます祥子さんは強なるわ、神さんがそうさせはったんや」 それは政雄の精一杯の励ましでもあったが、本心の吐露でもあった。 そう政雄がいったら、祥子はこれまでに見せたことのないうれしそうな笑顔を浮かべた。 祥子が逝って1周忌の法要を終えた政雄は、いま京都の家に一人たたずんでいる。 かつての住人が、自分をのぞいてすべて亡くなった京都の家で、一人、政雄がたたずんでいる。 しかしその政雄でさえいつか消えていく。 もちろん政雄の子供たちの誰かに引き継がせることはできる。 しかし、誰も京都に特別の思いこみはないし、住み心地の悪い、資産価値のない、古い家なんかに住む気はないだろう。 京都は、縁のない人たちにとっては、ホテルに泊まって観光するところではあっても、住むところではないのだ。 やがてこの家は政雄の死とともに取り壊され、あらたな持ち主によってあらたな家が建てられ、そこにあたらな家族のあら たな生活が始まるのだ。 そんなことを考えながら政雄は家の中をしばし行きつもどりつしていた。 かつて幸吉と徹夜で囲碁をした一番大きな和室は、晩年幸吉のお気に入りの部屋になっていて、いつもそこでこたつをしき っぱなしにして酒を飲んでは、幸吉はうたた寝していた。 ある日、その部屋に一緒にいたトミに、政雄は聞いたことがあった。 「お母さんが幸せと一番感じたときはいつやった?」 その時トミはしばし考えたあと、うれしそうにこう言った。 「そうやなあ、多恵はあんなふうに死なはってかわいそうなことしたけど、おまえたちたちはみんなひとりだちし、やっと お父さんと二人だけで暮らせるようになってほっとできたときかいな。 あの時、ここにお父さんがうたた寝してはって、風邪引くえ、とゆうてカーディガン掛けてあげたことがあったんや。その とき前の公園で子供らの遊ぶ明るい声が聞こえて、ガラス戸から傾きかけた陽が色づき始めたその生け垣の葉をきれいに照ら してた、あのときは幸せやなあ、と思えたえ・・・」 しあわせとは、そういう瞬間の断片的な積み重ねなのかもしれない。 不幸もそうだろう。 しあわせの断片が多いか少ないか。 不幸の断片が大きいか小さいか。 ただそれだけだ。 そして、政雄は、かつて祥子と一緒に机をならべて勉強した部屋にさしかかる。 その部屋は、はじめは、受験にさしかかった二人にあてがわれた共通の部屋であったが、やがて政雄が声変わりし、思春期 になると、気持ち悪いと追い出され、祥子一人の部屋に独占されてしまった部屋だった。 トミは、どんなに不要になったものでも、その持ち主がいなくなっても、そのまま大切にしておく性分であった。 祥子の部屋もそのままだ。 そこにおかれてある、少し色あせて鏡が曇ってしまった祥子の三面鏡の化粧鏡の棚に、ほかの色々な化粧品にまじって、か つて政雄が祥子にプレゼントした「ムスクの香」の小瓶を見つけた。 手にとってみると、すこし減っていた。 政雄は、そこに、祥子の乙女ごごろを見た思いがした(完) ──────────────────────────────── 購読・配信・課金などのお問合せやトラブルは、 メルマガ配信会社フーミー info@foomii.com までご連絡ください。 ──────────────────────────────── 編集・発行:天木直人 ウェブサイト:http://www.amakiblog.com/ 登録/配信中止はこちら:https://foomii.com/mypage/ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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