□■□■【反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説】 ■□■ □■ 天木直人のメールマガジン2011年5月23日発行 第356号 ■ =============================================================== 後藤新平を菅首相になぞらえて批判する読売新聞 =============================================================== ひところメディアで盛んに取り上げられたのが「出でよ、平成の後藤 新平」というものであった。 すなわち1923年の関東大震災の復興に際して、後藤新平という 内務大臣が政財界の要人を帝都復興審議会に集め大胆な復興計画を 行なった。 その例にならって今度の大震災の復興も大胆に行なえ、そのような 人物がいまこそ望まれる、というものである。 私を含めてそのような歴史の詳細を殆どの国民は知らないはずだ。 そういわれればそうかと思い、いや実は後藤新平はそれほどの人物で はない、といわれればそうかと思う。 しかし5月23日の読売新聞に掲載されていた筒井清忠という帝京 大学教授の書いていた「後藤新平・復興院の虚実」という解説記事は 注目に値する記事である。 これほど、明確に後藤新平の評価を低く見た解説記事ははじめてだ。 彼は言う。後藤新平と復興院の名が称揚されているが、この時代を 研究した者からすると、それらの多くは虚像としか言いようのないもの である、と。 そして彼は次の諸点を列挙する。 震災からの復興も重要であったが、後藤新平内相が目指したのは新党 結成による政界ヘゲモニー掌握であり、その手段としての普通選挙制度 の実現だった。震災復興はその目的のために政治的に利用された面が 強かった、と。 政財界の要人を集め発足した帝都復興審議会は新党計画の一つの拠点 でもあったのだ、と。 その後帝都復興会議は政争に巻き込まれ、最終的には復興予算の大幅 削減と復興院そのものの廃止が議会で決定され、後藤は屈服した、と。 藩閥や政党という確固とした政治的地盤を持たなかった後藤は、いつも 大向こう受けするアイディアを提示するが、それらを最終的に実現する 粘り強い足腰を持たなかった、と。 屈服のあとすぐに内閣は総辞職し復興院は廃止される。後藤が政治家 として再び復活することはなかった、と。 この後藤の故事が告げているのは、一つは政治というものを思いつき のアイディアで行うことの危うさであり、もう一つは、大自然災害を 政治に利用しようとするような政治家は政治によって復讐されるという ことである、と。 これは後藤新平の名を借りた菅首相批判ではないか。 そういえば読売新聞は5月19日の紙面で西岡参院議長の菅首相退陣 勧告の全文を掲載し、その日の社説でこの勧告は国民の声を代弁したもの であると絶賛した。 どうやら読売新聞は明確に菅降ろしに舵を切ったようだ。 了
新しいコメントを追加