□■□■ 【反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説】 ■□■ 天木直人のメールマガジン 2009年5月5日発行 第174号 □■ ────────────────────────────────── ■ 密約でつくられた戦後の日米外交 きょう5月5日の各紙を読んでみて、私が圧倒されたのは毎日新聞の 日米密約史に関する特集記事であった。 「日本が望んだ『密約』」、「対米依存外交の原点」、という見出しの 見開き三ページにわたるその記事は、沖縄密約をすっぱ抜いた西山太吉記者 を輩出した毎日新聞ならではの渾身の記事である。 戦後の日米外交史に少しでも関心のある者にとっては永久保存版の価値 がある。 その要約ですら、このメールマガジンで書き切ることはできない。しかし 私が注目したのは、その特集記事が伝える外務省先輩幹部たちの証言である。 いずれも私が駆け出しの外務官僚の頃に接した、「仰ぎ見る」先輩幹部 たちである。その幹部たちが、ここまで国民をあざむく外交をしていた のである。 牛場信彦外務次官 「・・・米国の核の傘にいる国々は、中国の脅威を 日増しに感じており・・・なんらかの対応を米国がとることを期待している」 ジョンソン駐日大使「日本にとって・・・米国が抑止力を維持するために どんな行動が必要か」 牛場 「繰り返し、適当な時期に確約することだ」 ジョンソン 「言葉でか」 牛場 「こちらは、あなた方の言葉を信じる」 これは1967年8月22、23日に行なわれた安全保障協議委員会での やりとりであるという。西南女学院大学の菅英輝教授が米国立公文書館から 議事録を発見した。 毎日新聞はこう解説している。 「・・・米側はいかなる議題であれ議論に応じる態度だった・・・日本に 覚悟があれば核戦略を論じるつもりだった。(だが)日本側は・・・米国を 信じることによる安心だけを求めた。核の傘とは具体的に何を意味するのか 詰めるより、内容はすべて米国にまかせきりにして、言葉による保証だけを 重視する日本の姿は、この後も日米安保関係の基本形となった。そのいびつな 関係が、日米関係を『密約』だらけにする構造的温床となった・・・」 大河原良雄外務省アメリカ局長「米空母ミッドウェーについて核兵器の 問題はどうなのか」 シュースミス駐日米公使 「母港化をお願いしている。(事前協議に関 する日本の了解を十分承知しているから)従来 の了解になんら反することはしない」 1972年10月に東京・外務省で始まったミッドウェーの横須賀母港化 (73年10月合意)に関する日米事務レベル協議の一コマであるという。 毎日新聞の解説はこうだ。 ・・・核持込の密約の対象はあくまでも「寄港」であり、「配備」まで認めて いない。「母港化」は単なる「寄港」とは言えず、密約でさえも認められない 灰色部分だった。それをシュースミス公使は母港化も「寄港密約」の従来の 了解で扱うと言った。大河原大使はこれに反論しなかった。その瞬間母港化と いう日本への核兵器「配備」が事実上決まった・・・(筆者註:米国海軍に 母港を提供しているのは世界で日本だけである。) 極めつけは沖縄返還(1972年)の際の次のやりとりである。 毎日新聞の記事はこう書いている。後に明らかになる若泉敬京都産業大学 教授の密使外交を裏付けるエピソードである。 ・・・沖縄返還が正式に合意された1969年11月の日米首脳会談の初日。 冒頭ニクソン大統領と二人だけの会談を終え、愛知揆一外相らの待機する 控え室に戻ってきた佐藤栄作首相は喜色満面で「B案で話がついた」と言った。 外相も外務省の随員も首相が何を言っているのか理解できなかった。佐藤首相 がポケットから紙を取り出した。「核抜き返還」に関する日米首脳の共同声明 案文だった。外務省条約課長としてその場にいた中島敏次郎氏は「愛知外相は 『これはなんだ』となった。自分だけが知らなかったと思ったようだが、 外務省も知らなかった・・・」と証言する・・・外務省は米国が核抜きでは 返還に応じないとの見通しを持っていた・・・愛知外相は「米国はベトナム戦争 をやっているので『核抜き』での返還には展望が開けない」と指摘。「核付き」 返還協定の試案作成を指示したという・・・。 密約どころか外交そのものが秘密外交であったのだ。しかもこの沖縄密約外交 のウラには、あまり知られていないもう一つの事実があることを毎日新聞の 記事は教えてくれている。 米国で公開された公文書によると、米国の国家安全保障会議は1969年5月 の時点で、すでに沖縄の核兵器について、「緊急時の貯蔵と通過の権利を条件に 核兵器の撤去を考慮する」という政策文書を決定していたという。しかも沖縄 からの核撤去は中国との関係改善を視野に入れた米国の中国に対するメッセージ だったという。 被爆国の反核感情と沖縄に対する贖罪意識によって密約にこだわった日本。 その一方で、核の貯蔵と通過の権利さえ密約で確保されれば、核撤去を対中外交 カードに使おうと考えた米国。それにまったく気づかなかった日本。 これを示す毎日新聞の次のエピソードは驚がく的である。 ・・・条約課長だった栗山尚一氏(のち外務次官、駐米大使)は、在米 大使館に勤務していた返還実現後の74年、米国防総省の担当者から、 「米国が沖縄からの核撤去をいつごろ判断したと思うか」と聞かれ、「最後まで わからず心配だった」と正直に答えた。するとその担当官は、「実はだいぶ前 から決めていた」と笑って言ったという。「核抜き」は米側の譲歩ではなく、 事前方針どおりの妥結ラインを確保しただけだった・・・ 返還交渉に外務省アメリカ局長としてかかわった吉野文六氏は、「沖縄の 核抜き返還は、キッシンジャー米国務長官が中国に対して色をつけた意味が ある。頭がいいやり方だったが、当時、我々はまったくそうとは意識して いなかった」と振り返る・・・まもなく日本は、ニクソン米大統領の電撃 訪中宣言(71年7月)に「外務省最大の悪夢」と驚く事になる・・・ これが日本の対米外交の実態なのだ。その後の日米外交が「悪夢の連続」で ある事はわれわれが日常茶飯事のごとく目撃しているとおりである。 ───────── 天木直人のメールマガジン 2009年5月5日発行 第174号 発行者:天木直人 著者ブログ: http://www.amakiblog.com/ 読者の皆様からのメールをお待ちしております。このメールマガジンに返信 していただければ、著者まで届きます。

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